夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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「まさしくわたしだ」

2011-05-08 20:41:41 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書24章36~43節。復活のイエスは最後にエルサレムの隠れ家にいる11人の弟子たちに姿を現す。ここでルカは復活のイエスが単なる霊ではなくて、正真正銘の体をもっていたということを明らかにしようとしている。
 パウロはコリント人への第一の手紙一五章で、復活の体を朽ちることのない霊の体と言っているが、ルカは復活の体に肉や骨があるだとか、釘跡が残っていたであろう手と足を見せたとしている。また、焼いた魚を食べたとも言っている。ここまで述べているのはルカだけである。この箇所の強調点はこれに極まっている。この書き方は地上の体と復活の体との区別を無視しているのではないか、復活のイエスを地上のイエスの単なる生き返りと誤解しているのではないか、と言われかねないものがある。
 しかし、ルカはルカで良く考えて書いているのだと思う。すぐ前のエマオでの復活顕現記事をみれば、ルカも復活のイエスの体が地上のふつうの人間の体でないことは承知しているのである。そのことは承知しておりながら、復活のイエスが幻影や亡霊ではなく確かな体をもっておられること、そして十字架に架かったナザレ人イエスと復活のイエスとは連続性をもっていること、「まさしくわたしだ」(39節)というアイデンティティ(自己同一性)を保っていることを示し、そういうお方が生きて我々と共にいてくださることを伝えようとしているのである。
 表現としては微妙なところに踏み込んでいるが、ルカは人間の言語では語り得ないことをあえて語ろうと試みているのである。これはヨハネ福音書の疑い深いトマスの話(20章)でも同様である。いずれにしても、復活の主は我々の心の持ち方の中に解消できない客観的実在であり、いつも我々の外側にあって、向こうから我々に近づき、我々の信仰を支えていてくれるお方なのだということをこの箇所は述べている。
 私たちの信仰は時に弱く、時に移ろいやすい。長い年月信仰を保つことは自分だけの力では覚束ない。しかし復活のイエスは我々の外にあって確かに生きておられ、その実在性は少しも衰えず、いつも我々と交わり、我々に働きかけていてくださる。このことを、きょうの復活顕現物語で学びとりたいと思う。復活のイエスの実在こそ、キリスト教が生き続ける根拠であり、私たちの信仰を支える力なのである。

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