中原聖乃の研究ブログ

研究成果や日々の生活の中で考えたことを発信していきます。

ドブロブニクのアグリツーリズム

2016-06-29 16:55:06 | 研究報告

 クロアチアはアグリツーリズムが盛んなことで世界的に知られています。もちろんドブロブニクも。農業体験と食事、あるいは宿泊ができるものもあります。学会での私たちのパネルが終了してからみんなで行ったレストラン、なんと行きたかったアグリツーリズムの農家レストランでした。出発前はあわただしくて調べる時間がなかったので、今回は残念だけどいけないな~と思っていたのですが。建物はなんと築130年!という古民家。予約してくださった方はパネルメンバーの方に感謝です。

 クロアチア国内にはいろいろなタイプの農家レストランがありますが、代表的なのがブドウ園見学とワインづくりの見学と食事のセット。また養蜂の体験や、ハーブ園体験やそのほか様々なコースがあるみたいです。

 なぜクロアチアに農家レストランが広まったのか。もともとは、内戦後に都市部への人口流出が続き、農村に産業を興すために政府が打ち出した政策だそうです。政府は助成金を出し、それで農家は家を修理したり農地を整備したり。私たちが行ったグルーダという農家レストランは、ドブロブニクで最初に営業を始めた農家レストランだそうです。私が宿泊した宿の方もよく家族で行かれるそうです。

 ドブロブニクは、魚介類が美味しいように思われていますが、野菜もすごくおいしい!野菜の炒め煮は最高でした!また、意外にも牛肉も食べごたえがあり、なかなかのお味でした。日本の柔らかいお肉も美味しいのですが、ここのお肉はなんだか味があり「肉、食っとる!」という満足感が得られます。それとニョッキが驚くほど美味しい。こんな美味しいニョッキは生まれて初めていただきました!!!ほかのニョッキを食べるとがっかりしそうで、もうニョッキは一生食べないかもしれません。

 ここからは想像ですが、観光産業といっても大量生産された食材を使っているわけではなく、クロアチアのそれぞれの地で採れたものを提供しているのだと思います。国のレベルで見ると、観光産業に過度に頼ることは危険だと思いますが、ここクロアチアはなんだか地に足がついている観光産業のような気もしました。日本も民泊制度が整えられつつありますが、クロアチアをお手本にしてはどうでしょうか。

 ドブロブニクでは夏の半年は観光客相手に一生懸命に働き、残り半年は旅行に行ったり、家族と農家民宿に行ったり、趣味を楽しむのが一般的だそうです。宿の息子さんはタクシードライバーですが、彼は読書が趣味で、オフシーズンには歴史の本をたくさん読むそうで、日本の「将軍」の本は面白かったそうです。(私、知らなくてすみません)

 本当にうらやましい生活ですが、1991年に勃発したユーゴ内戦では、ドブロブニクは半年間占領されまました。いまは攻撃のあとはほとんど修復され残っていません。その時の様子は独立戦争展示館に行けばわかりますが、今回私は時間がなく行けませんでした。内戦当時、山の水が使えないので雨水を溜めてのどの渇きをいやし、赤十字が海から船で運んでくる食料で飢えをしのいだそうです。もちろん電気もないので、暖房は家の周りの木を切って暖をとったそうです。お話をしてくださった方はそのとき11歳。山に行けば水があることはわかっているのに、撃たれてしまうから行けない、、、つらいつらい半年間だったそうです。

 内戦という体験を経て今がある。そう考えるとドブロブニクの景色がまた違って見えました。当時の激しい戦闘は街のどこにも残っていません。ただ一つスルジ山の山頂の建物には攻撃の跡が残っているそうです。わたしが山に登ったのは夜遅かったので、記念碑しか見られなかったのですが。。。ここは山の上、人は住んでいないのですが、なぜこんなところにまで攻撃が?おそらく、水と電力の供給施設があったからなのでしょう。戦争ではまず水・食糧・エネルギーの補給路を断つのですね。

 ただ、内戦を伝える施設の名称が、内戦展示館ではなく独立戦争展示館という名前なのが気になりました。もちろんユーゴスラビアで権力を持っていた中央のセルビア人からの独立を意味しているのでしょうが、ドブロブニクにも数は少ないながらもセルビア人がいたはずで、その人たちは内戦終了後難民となってドブロブニクを逃れたに違いないからです。帰国後、大学の非常勤控室でお話をしていると、そういえばアメリカに滞在していたとき、近所に住んでいた人がセルビア人だったと、とある先生がおっしゃいました。


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