中原聖乃の研究ブログ

研究成果や日々の生活の中で考えたことを発信していきます。

桜島噴火警報の報道で気になったこと

2015-08-24 05:56:38 | 日記

 桜島の報道を見ていて、記者が火山学者に「噴火は近づいたということでしょうか」と質問した。これに対して、火山学者は少し間をおいて「はい」と答えていた。この「間」は重要である。 記者はおそらくこう考えていただろう。

「気象庁は噴火警戒レベルをあげて対処中である。だから、噴火警戒レベルを4にする以前よりも、噴火は近づいているにちがいない。それに海から気泡も出ている。もしも地震回数が少なくなってきたら、噴火は遠のいたと思っていいけれども」しかし、火山学者はいつの時点でも噴火が近づいていると考えるはずだ。次に噴火するのが1週間後であろうと、5万年後であろうと、昨日より今日、今日より明日の方が、噴火に近づいているのだから。

実際には、ある時点での噴火の可能性が高まったり低まったりするだけで、噴火する日が遠のいたり近づいたりはしないのだ。おそらく、火山学者は、記者が言いたいことを理解して、答えた。その理解する時間が「間」となって表れたのだろう。

実は放射線被害に関することでも同じことが起こる。あるとき、研究とは全く関係のない場で、とある物理学者の方が、「放射能はありますか?なんて普通の人は聞いてくるんだよね。放射能っていうか、放射線はどこにでもあるから、はい、ありますって答えるんだ。そうしたらたいてい質問した人はびっくりするんだよね。きちんと質問してくれればきちんと答えるんだけど」とおっしゃった。この物理学者の言う「きちんと」とは、「ここには、自然放射線以外の放射線はありますか?」ということになる。というのも、放射能というのは、正確には、放射性物質が持つ能力のことであり、人体に影響を及ぼすのは放射線だからだ。そして放射線は宇宙から飛んできたり岩盤から放出されたりしているので、実際には自然環境には放射線が常に存在している。こういうことを理解して質問するのが「きちんと」ということなのだろう。

科学者は一般の人がもっと知識をつけて正確な言葉で質問してくれないと話ができないと思っている人もいるようだけど、そんなことはないのではないだろうか。すくなくとも私が出会った物理学者は、どこに考え方の違いがあるか「きちんと」理解していたようである。理解しているのであれば、科学者はその違いを考慮に入れて説明できるのではないかと私は思う。

記者の質問に答えていた火山学者は、そういう違いを考えながら説明していたように感じた。


不思議なカップ

2015-08-17 05:44:24 | 日記

 

 祖母の家にずっと古いカップがあった。叔母(母の妹)の家に遊びに行ったとき、叔母は「あのカップはね~。おじいちゃんが戦争から帰ってきた時にお土産で持って帰ったんだよ~」私「お土産」???  戦場からお土産なんか持って帰られるのかなあ?昭和17年に召集された祖父は、体が弱かったため丙種合格で、二等水兵だったと聞いている。戦場で戦ってはいないのではないか?カレーをルーから作るのが上手だったので、食材の調達や調理、負傷兵の世話などをしていたのではないだろうか。乗った戦艦?が潜水艦に攻撃されてフィリピンに流れ着いた話、マラリアで死にそうになった話は母や叔父から聞いていた。

この祖父、復員列車が到着しても戻ってこなかったので、戦地で死んだと思っていたら、2年後の昭和22年にひょっこり戻ってきた。「つねいっさーが、帰ってきたぞ~」という近所のおじさんの叫び声で家から飛び出していったそうだ。

 2年間なにをしていたのか、祖父はなにも語っていないのでわからない。捕虜になって尋問でも受けていたか、あるいはまだ戦闘を行う態勢でいたのか、あるいはジャングルを逃げ回っていたのか。蛙や蛇は食材として殺していただろうが、人も殺していたとしたら、語れないだろう。ただ、亡くなる前は、「フィリピンに行きたいのぉ」と言っていたそうだけど、実現できないまま亡くなった。

 さて、話を元に戻すと、お土産ではないだろうと思い、母に聞いてみた。「違ういね。そりゃ~女の相撲取りがお金を貸してとかゆ~て、借金のかたにカップを置いてったんよ~。たしか、おばあちゃん騙されたとかゆ~て悔しがっとったけど~」

 女の相撲取りというところが怪しいと思った私は、もう一人の伯母(母の姉)にも聞いてみた。「あら~違うわよ。あれはね~おじいちゃんとおばあちゃんがハワイの親戚の家に行ったときに、買ってきたお土産なのよ~」(祖父の二人の姉は日系ハワイ移民です)

 3人姉妹が全員別の答え。今回祖母の実家に来てカップを改めて見ると、KOKURA JAPAN の文字が。やはり、女の相撲取りが置いていったものか。だけど、当時祖母の家は近所でも「評判」の貧乏で、そんな家が人に貸すお金を持っていたのだろうか。そして叔父によると、戦前エジプトに行った人がお土産としてピラミッドの飾りものを買ってきたら、メイドインジャパンだったという話を聞いたとか。当時日本は以外にものを輸出していたようで、それは今、神社のお守りがメイドイン東南アジアというのと似ているのかも知れない。フィリピンやハワイからメイドインジャパンのお土産もアリか?


祖母の一周忌にて

2015-08-04 21:37:55 | 日記

今日は祖母の一周忌。祖母の子供達4人とその孫たちが山口の柳井に集まった。法要の後、祖母が広島の原爆に遭ったのか、あるいは遭わなかったのかについて話をする。

 8月6日、広島の原爆投下の朝、当時祖母一家が住んでいた山口県大畠村遠崎(柳井市の隣)の家から東北の方向の空が真っ赤になったのが見えたという(記憶があやふやらしく、この光景は夕方かも知れない)。みんな30キロ先の岩国が空襲にあったと思っていたそうだ。夕方になると広島に大きな被害がでたという噂が広まった。広島の遠い親戚の家に前の日からでかけていた祖母は、夕方になっても戻って来なかった。

 翌7日、祖母の弟は当時国民学校一年だった叔母を連れて広島まで様子を見に行った。広島に近づくとあたりはすごいことになっていて、怪我をした人、やけどをした人が何人も歩いて来る。こんな様子を「姪(叔母)に見せられない」と思った祖母の弟は、引き返した。二人が帰宅した時には、すでに祖母は家にたどり着いていた。

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 それから18年後。叔母は東京で最初の子供を無事に産んだ。祖母は柳井から上京していたが、初孫の誕生であることを考えても祖母の喜びは尋常ではなかった。その時ようやく祖母は8月6日に叔母が被曝している可能性があることを叔母に話した。当時は、就職や結婚などで、まだまだ被爆者差別がひどかった時代。8月6日の出来事を誰にも話すことができなかったらしい。

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 私はこの話を2年前、叔母と二人でお酒を飲みながら初めて聞いた。東京の短大に進学した際、私は叔母一家の家に居候をしていたがその時には聞かなかった話だった。すぐに母(叔母の妹)に聞いたが、広島の親戚の存在はわからない。そのときには大叔父も祖父も他界していた。もっとも8月6日、祖父はまだ戦場にいたけれど。

 今日、子供達(私からは叔父や叔母)が集まったけど、やっぱりわからないことだらけだ。「広島までどうやって行ったのか?」電車が途中まで動いていたのではないか。トラックで連れて行ってもらったのではないか。そもそも一体なんの用事があったのか、そして広島に親戚なんているのか?

 それと関連して、祖母はどうやって広島から戻ってきたんだろうという疑問。多分、歩いたり、トラックに乗せてもらったり、二日がかりで帰ってきたのではないかということだった。遠崎の人が広島で被爆し、心配した家族が遠崎から漁船を出して救出したという体験記を本で読んだことがある。この船に乗って帰った可能性はないのか。

 また別の疑問。「どうして子供の被爆は心配して、本人の被爆は心配しなかったんだろう?」祖母本人は広島の爆心地にはいなかったのではないか。

 わからないことだらけである。

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 祖母や叔母のような被爆者を「入市被爆者」という。祖母は被爆者であることを隠すために被爆者申請をしなかった。入市被爆者の中には、病気になってから被爆者申請をした人が多くおり、今でも申請する人はいるだろう。被爆者として認められれば、国が医療費を負担してくれるからだ。でも「入市」の証拠が得られず、被爆者認定を受けられない人もいる。祖母はともかく、叔母が被爆者申請をしていたとしても、証拠不十分で却下されていたにちがいない。こんな被爆者がおそらく、たくさんいる。