中原聖乃の研究ブログ

研究成果や日々の生活の中で考えたことを発信していきます。

ロンゲラップの人々の被ばく線量

2015-06-24 06:44:17 | 核実験

 水爆実験ブラボーの放射線影響に関する調査は驚くほど詳細である。イギリスがオーストラリアで実施した核実験については、アボリジニの人々の被害をほとんど残さなかったのと対照的である。マンハッタン計画ではイギリスもアメリカに協力していたが、戦後の核開発においては、イギリスはアメリカから締め出される形となっており、独力での核実験での成功を目指した。おそらく切羽詰まっていたため、爆発させるという目的以外に目を向ける余裕がなかったとも考えられる。

 ブラボー水爆実験で人々が受けた放射線量は詳細な記録が残されている。実験の翌日にロンゲラップに上陸した米軍が午後5時に観測した1時間当たりの放射線量は14ミリシーベルト (1.4rem)である。人々の全身被ばく量は2798.89~3498.62ミリシーベルト(300-375roentogen)、内部被ばくは600~3000ミリシーベルト(60-300rem)と見積もられている。ロンゲラップ環礁にいた67人の全身ガンマ線照射量(whole body gamma radiation)は1.75グレイ (175rad)、アイリングナエ環礁にいた19人は0.69グレイ(69rad)を示した。写真は被ばく者全員に対して計測した放射線量の記録である。これはネットで入手したもので、名前も全員記されているが、付箋で隠した。

 

 3月3日夕刻に米軍艦船によって救出された人々は、翌4日の日の出ごろ、クワジェリン海軍基地に到着し、米原子力委員会の監視下に置かれた。着の身着のままで避難した人々は、船上で軍服に着替えた。被ばく者のうち15名は、ガイガーカウンター(AN/PPDR-27c Survey Instrument)による3月3日の計測の記録がある。一時間当たりの線量は、低い人では0.8ミリシーベルト(80mrem)、多い人では4ミリシーベルト(400mrem)を示した。国際放射線防護委員会(International Committee on Radiation Protection)は、当時の年間線量限度は1週間で約3ミリシーベルト(0.3r)と定めていた。軍事基地到着日、4ミリシーベルト(400mrem)を示していた男性も、4度目の水浴び後には70マイクロシーベルト(7mrem)までに下がっている。翌日には、少ない人で30マイクロシーベルト(3mrem)、多い人で200マイクロシーベルト(20mrem)を示した。

 9日、原子力委員会生物医学局長ユージン・クロンカイト(Eugene P. Cronkite)を団長とする25人の医師、科学者、国防総省からなる合同医療チームがクワジェリン軍事基地に到着し、11日からガイガーカウンター(ANDPR/39A and the ANPDR/27c)を使用して計測した。このころから本格的な調査が始まる。

 米政府文書によれば、被ばく後2週間で90%の子供と30%の大人に脱毛が始まり、皮膚の変色は90%の人に見られ、20%の人々はひどい皮膚の外傷(火傷)がおこり、また血液中の白血球の著しい低下もあった。これほどの症状を発症しながらも、当時を記憶する被ばく者によると「海水につかり石鹸で体を洗うだけで治療はなかった」そうである。抗生剤を使用しなかった理由として、被ばく者の健康診断を担当した軍医ロバート・コナード(Robert A. Conard)は、抗生剤に対する耐性菌の出現の可能性があったためと説明している。

 米国はソ連による核実験被害に対する批判を巧妙にかわしながら、以降も被ばく者の定期的な健康診断を継続し、被ばくデータとして蓄積していったのである。

なお、カッコ内は一次資料に記されている数値と単位である。現在ではシーベルトが国際単位として認定されており、レムは米国以外では使用されていないことから、ここではシーベルトに換算して記している。それにしても米国がシーベルトの単位を使わないのは、、、過去のデータと比較しやすくするためにちがいない。我が道を行くアメリカ!

 

(参考文献)

島田興生『還らざる楽園ービキニ被曝40年 核に蝕まれて』小学館、1994年。

中原聖乃「科学がうち消す被ばく者の「声」-マーシャル諸島核実験損害賠償問題をめぐって」足羽與志子・中野聡・吉田裕編『平和と和解―思想・経験・方法 一橋大学大学院社会学研究科先端課題研究叢書6』旬報社、2015年3月、272-293頁。


ブラボー水爆実験

2015-06-24 06:42:05 | 核実験

 

 マーシャル諸島で行われた核実験のうち、とりわけ甚大な被害をもたらしたのが、1954年3月1日に実施された「ブラボー(Bravo)」水爆実験である。ロンゲラップの人々の従来の生活圏であるロンゲラップ、ロンゲリック、アイリングナエ環礁に降りそそいだ放射性降下物「死の灰」で被ばくした82人の中には、吐き気、頭痛などの急性放射線障害を発症した人もいた。公文書によると大人の30%に症状が現れたという。3日後に救出された人々は、避難生活ののち1957年に故郷のロンゲラップに帰郷し、しばらく同地での生活を続ける。しかし、そこには曲がったココヤシ、奇妙なところから実を付けるタコノキ、コブのある魚など、放射能の影響と考えられる生態系の異変が見られた。ブラボーから数年後には白血病、ガンなどの挽発性放射線障害を発症する人も現れた。

 こうしたなか、1981年に米国が公表した『北部環礁の放射線の意味』によって、ロンゲラップ環礁が核実験場であるビキニ環礁と同程度の汚染度であることがわかり、1985年5月には、放射能の危険性を考慮して住民295人が集団でクワジェリン環礁メジャト島へ再避難した。今日まで、ロンゲラップ(写真上)から南に約210キロメートルに位置するクワジェリン環礁メジャト島(写真下)を「中心的居住地」として避難生活を継続している。メジャト島は、0.12平方キロメートルと小さく、ロンゲラップの人々の生活圏であるロンゲラップ、ロンゲリック、アイリングナエ環礁の3つの環礁の合計面積の54分の1でしかなかった。この広さでは、人口を養うだけの充分な食料の確保が困難で、最初の10年間は米国からの食料援助やロンゲラップ地方政府からの食料援助が占める割合が半分以上を占めていた。

 


広島大学の自然エリア散策

2015-06-23 21:45:40 | 日記

 昨日は広島大学の授業に招かれて、一時間目に講義をしました。授業のタイトルは「マーシャル諸島核実験被害」です。授業が終わったあと、10時半からキャンパス内の中央にある自然の残るエリアを散策しました。自然エリアは大学建物に取り囲まれており、かなり広いようです。

 

 まずは、自然エリアの南にあるビオトープから歩き始めます。さっそく地図があるのですが・・・南が上になっています!この地図を見る人は北に向いていて、これから北に向かって歩くのですが、なぜか地図の上が南なのです。最近地下鉄の駅構内でも地図の上が東になったり南になったりしている地図を見かけますが、はっきりいって、分かりにくいです。遭難したらどうするんですか?地図は上が北です!

 気を取り直し、歩きます。ビオトープには、メダカ、オタマジャクシ、ザリガニ、シオカラトンボ、ハグロトンボ、糸トンボ…お花畑も広がりいい気持です。聞いたところでは絶滅危惧種も何種類かいるのだそうです。

 10分も歩くとぶどう池です。広大キャンパスはもともと戦後引き上げた人たちが開拓したところなのですが、この池は灌漑用のため池だったそうです。ぶどう池は野鳥観察エリアなのですが、今日は一羽も見えません。

 自然エリアを離れて少しキャンパス内を見学してみます。フェニックスセンター、アイソトープセンターなどがあります。このあたりは多くの野鳥が生息しているようで、ウシガエルの鳴き声と相まって、ウグイスや知らない鳥でうるさいほどです。

 いよいよ生態実験園です。生態実験園の入口には、ボックスがあり中には地図が置いてあるのですが、小動物のフンだらけです!二枚目をフンが付かないようにそ~っと引き抜きます。とある先生は、それは雨の日には野ねずみかなにかがここで雨宿りするんでしょう、ということでした。この生態実験園は宇素晴らしいです。ため池あり、湿地あり、小川あり。ウグイスの鳴き声を聞きながらの散策は贅沢な時間です。ところが、折れた松が道をふさいでいます。

 

 なんとか、通り抜けました。このあたりは、マムシも出るらしく注意喚起の張り紙が。スカートでの散策は少々危険かもしれません。写真をとりながら、植物を眺めながら、一周してちょうど一時間半。よい気分転換になりました。

 帰ってからいただいた『広島大学東広島キャンパス絵地図』を見ていて、上が南の地図の意味がわかりました。南を上にしてじ~っと眺めると「ミロのビーナス」に見えるんだそうです。確かに!見えましたよ。どなたが一番先にこのことに気づいて「売り」にしようと思ったんでしょうね。


マーシャルでは、12年間毎日毎日、広島の原爆程度の核実験が…  

2015-06-15 06:05:53 | 核実験

 マーシャル諸島でアメリカは、1946年7月1日から1958年8月18日までの間、67回の核実験を行った。ここでの核実験は、「核実験がアメリカ国民の健康に影響を与えないと明確にわかるまでは海外で行われるべき」として、行われたものである。その後、1951年1月27日から1962年7月17日まで、米国はアメリカ国内のネヴァダ核実験場で核実験を開始した。

 これを威力で比較するととんでもないことがわかる。爆弾の威力はTNTのエネルギーに換算してキロトンで示される。マーシャル諸島での全67回の核実験の総威力は、108,496キロトンで、一回あたり1,619キロトンである。他方、米国内のネヴァダ核実験場では計87回行われたが、その総威力は1,096キロトンで、一回あたりでは13キロトンである。ネヴァダ核実験場で行われた核実験の総威力は、マーシャル諸島の一回分にも届かないのである。

 また、広島に投下された原爆と比較してみよう。67発のすべての核実験の総威力は広島原爆の7200発に相当する。これらの核実験は12年間に行われたので、一日あたりどれくらいの核実験が行われたかは簡単に計算できる。7200発÷12年間÷365日。この答えは1.6。つまり、マーシャル諸島では、12年間くる日もくる日も、広島の原爆の1.6個分の核爆弾が爆発したことになる。

 こんなところで放射能の影響がないわけがない、と科学者でない私は思う。駐日マーシャル諸島共和国大使は、この異常な規模の核実験のマーシャル諸島における実施を、昨年ブラボー水爆実験被害60年を記念して東京で行われた行事で強く訴えた。


マーシャル諸島と核実験

2015-06-15 05:49:15 | 核実験

 

 なぜアメリカはマーシャル諸島で核実験を開始したのだろうか。爆発装置が正常に作動するかどうかを確認するだけなら、それこそ付近に島のない太平洋上で行えばよい。しかし核実験の目的はもう一つある。それは、核爆発の環境への影響を見ることだ。

 ことの始まりは、1945年8月25日、ブライアン・マクマホン上院議員が、原爆を海軍艦隊に対して使用する実験を行うべきと示唆したことである。日本駐留のアメリカ陸軍広報官は、日本海軍の艦艇の使用を提案した。

 1946年7月1日、マーシャル諸島における最初の核実験クロスロード作戦「エイブル」がビキニ環礁で行われた。実際に爆破実験に使われたのは、アメリカンの戦艦「ネヴァダ」、空母「サラトガ」「インディペンデンス」戦艦「アーカンサス」、日本の戦艦「長門」、軽巡洋艦「酒匂」、ドイツの重巡洋艦「オイゲン」であった。ちなみに第二次世界大戦で破損した戦艦長門は、わざわざ日本からマーシャル諸島に曳航された。これらの船上には、ヤギ、ブタ、ネズミなどが実験のために載せられた。

 ビキニ環礁での核実験に先立ち、ビキニ環礁にいた167名は、東方300キロ付近にあるロンゲリック環礁に、米軍の手で移された。この人々は、直後に飢餓状態に陥り、米軍により別の場所に再移住させられ、現在でもビキニ環礁を離れた生活を送っている。

 ところで、最初の核実験が行われたとき、フランスの保養地カンヌでは、女性用のセパレートタイプの水着を「アトム」(原子が世界最小であるとされたことに由来する)と言う名称で売り出し、アメリカでは、ビキニという名称で売っていた。

 さて、この後1948年から、アメリカはビキニ環礁の西方400キロメートルにあるエニウェトク環礁でも核実験を開始し、現地住民は移住させられた。エニウェトク環礁住民は、その後故郷に戻り現在まで除染されたエニウェトク環礁で暮らしている人もいる。

 環礁という地形が核実験に都合が良かったことは間違いないだろう。ラグーンと呼ばれる島に囲まれた内海では、水深が深くても60メートルほどで、数十メートルの浅瀬となっており、沈没した船をダイバーがもぐって観察することができる。また、環礁には陸地もあるので、放射能の環境への影響も継続的な調査が可能だ。動物実験はもちろん生態系の異常や放射能レベルに関しても調査可能である。その他、軍は核実験後の土を使って、植物を育てる実験も行った。こうした環礁での核実験はアメリカの他に、イギリスがキリバス諸島クリスマス島で、フランスがフランス領ポリネシア(首都はタヒチ島のパペーテ)のムルロア環礁とファンガタウファ環礁でそれぞれ実施した。

 10年ほど前までは、環礁内に沈んだサラトガを見るダイビングツアーがあったが、今はビキニ環礁への飛行機のアクセスが悪く、ツアーは行われていない。

 

(参考文献)

前田哲男『非核太平洋・被爆太平洋―新編棄民の群島』筑摩書房、1991年。

豊崎博光『マーシャル諸島核の世紀1914—2004 上』日本図書センター、2004年。