「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

竹野姫(豊姫)命と彦湯産隅命の住んで居られた場所。

2012-04-13 | 古代史

古事記に置いては

由布院から、久留米市荒木磯城玉垂宮に居られたと想われる第9代開花天皇(開花は孝元の子ですから息長氏の血が這入っています。)に皇后として嫁がれた由碁理(建諸隅命)の娘である竹野姫は、その後、彦湯産隅命一柱を儲けています。

福岡の春日市に居られ、その後は久留米市荒木磯城玉垂宮に居たと考えられる開花天皇は伊迦賀色許賣命(玉依姫=八咫烏の娘)を妃として娶り、御眞木入日子印恵命(崇神天皇の事で、連れ子です。)と御眞津比賣命の二柱を、意祁都比賣命を妃として、日子座王(後に近畿に渡ります。)を一柱、また、鷲比賣命を妃として、建豊波豆羅和気命の一柱儲けている事になっています。

彦湯産隅命崇神天皇の義兄である事になっています。

崇神天皇は久留米大善寺の玉垂宮に居られたと考えられますが、彦湯産隅命は何処に居られたのでしょうか。考えて見る事にしました。

 

開花天皇は、4人の妃を娶りますが、自分の館に全員を住まわして居たのでしょうか。わたくしは、どうも、婦人毎に館を設けて、自分が通い夫として、転居しながら暮していたのではないだろうか。と考えています。そうすれば、女性同士の諍いを避ける事が出来、子育ての問題も母親に委ねる事が出来、好都合であったと考えられます。また、姓氏一族を背負って嫁に来る訳でありますので、姓氏間の諍いを避け、王から居住地を拝領し、一族の館を建てて王を迎えたものと考えられます。

と謂うことであれば、崇神天皇は大善寺玉垂宮にて、母である伊迦賀色許賣命(玉依姫)と、妹の御眞津比賣命と一緒に暮して居たとも考えられます。

 

わたくしの父の実家である田主丸町「竹野」と謂う地があります。元々竹野郡から田主丸町は命名されており、この「竹野」には、古来、正院正倉院が在ったとされており、天皇に匹敵する人物が住んでいたと考えられています。この天皇に匹敵する方こそ竹野姫とその子である彦湯産隅命であると考えられます。此処には、禊や奉祭祀に必要な卑弥呼の最も神聖大事な井戸と想われる古い井戸があり(三明寺・井の丸井戸、)、由来では西暦755年、初代国司「道君首名(みちのきみおびとな)」公の末子が筑後国竹野郡タカノゴオリの郡長になり、此の地に「郡衙」を造った事から始まった。と謂う事になっていますが、はっきりとは解って居らず、通称、長者の井戸と呼ばれています。

以前は竹野媛彦湯産隅命が棲んで居た。ものと想われます。近くには墳墓も多くあり、弥生時代から古墳時代に架けての形跡が多く残っています。

御眞木入日子印恵命(後で、崇神天皇)は兄である彦湯産隅命に遠慮して、日子座王と伴に近畿に出たとも想われます。

此の地の近くの北野町には、豊比賣(竹野姫)を祀っています神社が幾つも見受けられ、間違い無いものと感じられます。

此処が、2代目卑弥呼が居た場所である。とも考える事ができます。(ひょっとしたら、竹野姫と甕依姫は関係があるのかも知れません。しかし、此処付近には宇奈岐日女命や倭迹迹日百襲姫命  御井津媛命も来ているとも考えられますので、考察には慎重にならねばならないでしょう。)

彦湯産隅命には息長氏の血が流れていますので、此の地に秋永氏が居る事が自然であります。わたくしの血にもひょっとしたら彦湯産隅命の血が混じっているのかも知れません。

 

《追補》

その後の2014年7月1日のブログ、(『小熊山古墳』は『崇神天皇陵』と考えられます。)の考察により、彦湯産隅命彦坐王は同一人物であったものと考えられます。

亦、2代目卑弥呼は竹野姫(トヨ壹与=豊玉姫=龍神姫)であった。と、考えられます。

壹与=豊玉姫の姪の玉依姫(八咫烏=賀茂建角身命=秋永氏とイカコヤ姫の間に儲けた子)が、

竹野姫として、久留米市荒木の玉垂宮(磯城=城島)に居た、(豊玉姫が彦穂穂出見尊=孝元天皇との間で儲けた) ウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇に、後に崇神に為る天之日鉾を連れ子して、嫁いだものと考えられます。

天之日鉾=崇神は、彦穂穂出見尊と玉依姫との間で儲けています。

イカコヤ姫は、瓊瓊杵尊の妃でしたが、八咫烏=賀茂建角身命に下賜されます。その時に『カワイの國』を貰い受けます。わたくし(秋永)の父親の邑は、川会邑唐島と申します。

欽明天皇も、蘇我稲目(欽明天皇の跡、敏達天皇として歴史に留められていますが、実態は新羅國第23代法興王で有ったろう。と考えています。)、馬子=シマ嶋大臣=押坂彦人大兄皇子は、唐島~うきは市・朝倉市に居たものと考えています。

蘇我蝦夷・入鹿は、行橋勝山黒田の馬ケ岳の『甘樫丘』(福永晋三氏の説)で、暮らしていたものと考えられます。従って、『乙已の変』は九州物部氏の本貫地鷹羽=田川郡赤村辺りで行われたものと考えられます。

 

後に『竹野タカノの新笠(豊玉姫・玉依姫の血脈を引く秋永氏と考えられます。)』が第49代光仁天皇に嫁いで第50代桓武天皇を儲けます。竹野の新笠の出身地であります耳納連山が平たく連なっています。

『桓武平氏』とは、

日田から久留米磯城城島迄の、すそ野に、大山祇命=葛城氏=橘氏が代々暮らしており、厩戸皇子も、うきは市『大生寺』で穴穂部間人皇后から産まれた、ものと考えられます。

此の日田の美濃を発祥の、耳納連山のすそ野に暮らす大山祇一族を、平群氏と呼ばれたものと考えられます。

平群氏が京に上り、天皇の親族関係の『平群氏=平氏』が増大し、『臣籍降下』が藤原氏によって行われます。

依って桓武天皇の子、嵯峨天皇(秋永氏)の子から『源氏(秋永氏)』が誕生する事に為ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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