「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

神武天皇を再考する。3

2012-04-24 | 古代史

開花天皇の妃は、4人、子は5人(男4人女1人)

崇神天皇の妃は、3人、子は12人(男7人女5人)

垂仁天皇の妃は、7人あり、子は16人(男13人女3人)もあります。

妃の出自(しゅつじ)をたどって可能性を絞り込んでみました。春日市須久・岡本に棲んでいたと考えられる開花天皇の妃は、4人で、皇后である竹野比賣は丹波(大分県)の由碁理で除外。伊迦賀色許賣命は可能性あり、意祁都比賣もあり、鷲比賣の父は葛城の垂見宿禰で産まれた子の名前が建豊波豆羅和気命でありますので、大分県の尾張氏の出身と考えられ、除外。

久留米市大善寺の玉垂宮に棲んでいたと想われる崇神天皇の妃は3人で、遠津年魚目目微比賣(とおつあゆめめくはしひめ)と意富阿麻比賣(おおあまひめ)は大分県杵築市で除外。御眞津比賣は崇神の妹で可能性あり。

 

崇神天皇に同じく、人生の前半を久留米市大善寺の玉垂宮に棲んでいたと想われる垂仁は7人の妃があります。その内、九州で娶っている(間違いの無い)と考えられるのは、日子座王(ひこいますのみこと)の娘である沙本毘賣命(さほびめのみこと)です。沙本毘賣命亡きあと日子座王の子である丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばのひこたたすみちのうしのみこ)の娘である、比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)を娶って5人を、3人目として比婆須比賣命の妹である沼羽田之入毘比賣命(ぬばたのいりびめのみこと)を娶って、沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)と伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)の2人を、4人目に沼羽田之入毘比賣命の妹の阿邪美能伊理毘賣命(あざみのいりびめのみこと)を娶り、伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)と阿邪美都比賣命(あざみつひめのみこと)の2人を儲けています。5人目には、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこと)(=由碁理の子の彦湯産隅命の子であります。)の娘である迦具夜比賣命(かぐやひめのみこと)を娶って、袁邪弁王(おざべのみこと)1人を儲けています。6人目と7人目は山代の苅羽田刀弁(かりはたとべ)と弟苅羽田刀弁(おとかりばたとべ)で、この2人は苅田の豪族の娘と想われます。ので、息長氏である可能性があります。しかし、「山代の」と謂う前訂が在りますので、山代に渡った息長氏と捉えるべきでしょう。

7人の妃を考察しますと、この時間軸では日子座王は近畿で生活をしておられ、2番目の妃である比婆須比賣命以降の妃は近畿に居られたと考えられます。沙本毘賣命の産んだ品牟都和気命のみ考えられます。しかし、このお方は大人に成っても言葉が出ない様な記述があり、まず、考えられません。

 

垂仁天皇の16柱の子に博多で生活されて居て、神武天皇と思しき人物縁者は見当たりません。

 

父である崇神天皇の子12人の博多での生活の可能性を考察しましょう。

遠津年魚目目微比賣は豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)と豊鍬入比賣命(とよすきいりひめのみこと)の2人を儲けています。豊木入日子命は上毛野の君・下毛野の君になっており、之の上毛野は、福岡県築上郡「上毛町」の事と考えられ、豊木入日子命は、後に、沙本毘古命と沙本毘賣命の乱を鎮める「八綱田」の事だと考えられます。豊鍬入比賣命は伊勢大神宮の祭主となられた方です。次に娶られたのが、意富阿麻比賣命(おおあまひめみこと)で、杵築市から久留米市大善寺に笈出ておられます。子は大入杵命(おおいりきのみこと)この方は能登臣の祖となり、次に生まれた、八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)は岐阜県可児市へ渡っており、其処で八坂入姫と弟姫を儲けています。

その後の、沼名木之入比賣命(ぬなきのいりひめのみこと)は不明。十市之入比賣命(といちのいりひめのみこと)は苅田~行橋・みやこ町・豊津町辺りと考えられます。

 

御眞津比賣命は伊玖米入日子伊沙知命=垂仁天皇、伊邪能眞若命(いざのまわかのみこと)、国片比賣命(くにかたひめのみこと)、千千都久和比賣命(ちちつくわひめのみこと)、伊賀比賣命(いがひめのみこと)、倭日子命(やまとひこのみこと)の6人を儲けております。この中で、博多で暮されたと思しき方は、千千都久和比賣命が感じ取れます。伊邪能眞若命・国片比賣命・伊賀比賣命は不明です。また、一番末の倭日子命(やまとひこのみこと)は久留米市御井町にある祇園山古墳に埋葬されている。と想われます。

と、謂うことで、此処でも余り神武天皇に関係を認める人は見出せませんでしたが、千千都久和比賣命は気になります。

 

開花天皇はどうでしょう。

皇后の竹野比賣命は比古由牟須美命(彦湯産隅命)(ひこゆさすみのみこと)1柱。

次の妃、伊迦賀色許賣命(いかがしこめみこと)(元、孝元天皇の妃であり、饒速日命に繋がる内色許男命の娘であります。孝元天皇との間に比古布都押之信命(ひこふとおしのまことみこと)があります。孝元天皇が早逝去されたと考えられます。)は御眞木入日子印恵命(みまきいりびこいにえのみこと)=崇神天皇と、御眞津比賣命(みまつひめのみこと)の2柱があります。この御眞津比賣命は崇神天皇と結ばれ、垂仁が生まれています。

3人目に、和邇臣の祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹である意祁都比賣命(おけつひめのみこと)を娶って日子座王(ひこいますのみこ)を儲けていますが、この日子座王は後に、近畿に渡って往きます。

4人目の鷲比賣命は建豊波豆羅和気命を産んでいますが、前述のように、尾張氏と考えられ大分県方面が考えられます。

以上、開花天皇の御子に、神武天皇に繋がる縁者は見出せませんでした。

 

では、神武天皇景行天皇の関係をどの様に解釈すればよいのでしょうか。

 

神武天皇は博多(日向)に居た時に阿比良比賣(あひらひめ)を娶って多芸志美美命(たぎしみみみこと)、次に岐須美美命(きすみみみこと)を儲けていますが、倭を平定した後、大后として、狭井河(さいがわ)=(みやこ市豊津町犀川と想われます。)の傍に棲んでいた伊須気余里比賣(いすけよりひめ)を娶って、日子八井命(ひこやゐみこと)、次に神八井耳命(かむやゐみみみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかはみみみこと)の三人、都合五人を儲けている事になっています。

多芸志美美命は、後に綏靖天皇になる神沼河耳命に殺されます。その時、一緒にいた兄である神八井耳命は、忌部(祭祀を司る役)になって神沼河耳命に天皇を譲ります。そして此の兄である神八井耳命は、古事記には19もの姓氏の祖と書かれており異常であります。これは何を意味するのでしょうか。

ひょっとしたら、此のお方が、沖津宮に渡ったお方ではないかとも感じられます。

沖ノ島は島全体が、夥しい遺跡の宝庫と謂われる祭祀の痕が残っており、此処に、天孫族の、各地の力をつけた豪族がお参りをして、姓氏を頂いたものとも考えられます。通常は天皇が姓氏を与える事になっていますので、此処に宇佐公康氏の記述した神武天皇が居られたとも考えられます。しかし、こうして考察をしますと、神武天皇の子の神八井耳命(かむやゐみみみこと)であれば、考えられる事になります。

(こうして考えますと、当時は祭祀と国務が両輪であった事がよく理解できます。)

宇佐公康氏伝承は神武天皇の子である神八井耳命が沖ノ島の沖津宮(多祁理宮)に居たと考えられます。

 

また、神沼河耳命(かむぬなかはみみみこと)は本当に存在をしたのでしょうか?

(わたくしの頭の中では、神武天皇の実存は垂仁天皇の後にあり、7世紀後半~8世紀初頭の時期に神武天皇を初代天皇に持って来たものと考えられ、古事記の記述にも猜疑が持たれています。)

神沼河耳命が架空のものであれば、綏靖天皇とは繋がらない事になります。

わたくしの考えでは、神沼河耳命は、神武天皇を初代に持って来て、綏靖天皇と繋ぐ為に必要な人物と感じられ、神沼河耳命は存在しなかったものと想われます。

この、記紀の捏造の理由は、智導世津翁さまのブログ『古代史の謎を解く旅Ⅱ』の「真実の神武東征」で述べられていますように、中国に対して、近畿大和に「日本国」が、古来より存在していたことを、証明するためのカムフラージュとして、「倭国筑紫・豊王朝」の「帝紀・旧辞」を元にして、天武天皇の681年編纂の詔により、早急に、日本国列島史を、「古事記」・「日本書紀」として出さざるを得なくなり、712年古事記、720年日本書紀が献上されたものと考えられます。

 

垂仁天皇の筑紫の血縁者である神武天皇が、黒田を平定した戦の知らせを聴かれた、(近畿纏向居られた)垂仁天皇は、倭の様子が気になり、体躯の大きかった景行を倭国の天皇として派遣したものと考えられます。直ぐに、神武は親族の本家である景行天皇に譲り、博多の香椎に戻ったものと考えられます。景行天皇は黒田の地に御所(行宮)を置き、七年間も九州の地をうろついて平定に勤めたものと考えられます。景行の後を成務が継ぎますが子が無くて、亡くなり、成務の兄弟である倭武命の子である仲哀が天皇になられます。

以上の考察が、神武天皇の東征の実態ではないかと、考えられます。

 

《補追》

景行天皇に勝山黒田を渡した後、若木入日子命(神武天皇)は秋津嶋宮(木綿の院)を授かり、久米将軍と由布院(高天原)に遣ってきて、出雲に渡った『神の末裔』である姫蹈鞴五十鈴比賣命(速津比賣命・宇佐津比賣命)と出会い、結婚しています。

 

 

 

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