「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

記紀の捏造と『狭穂彦王の乱』を読み解く。

2012-04-27 | 古代史

時が経てば、名前(呼び名)が変化する事がありますが、

記紀には随所に捏造されたと考えられる細かな細工が見受けられます。この事を頭に置いて真実の歴史を読み解かなければなりません。例えれば、垂仁天皇条項の『狭穂彦王の叛乱』があります。

開花天皇と伊迦賀色許賣命(いかがしこめ)の間に崇神天皇と御眞津比賣が生まれ、崇神天皇と御眞津比賣が垂仁天皇を儲けております。

また、開花天皇と意祁都比賣命(おけつひめ)の間に日子座王(ひこいます)が生まれ、その子に狭穂彦王と狭穂姫が生まれています。

 

日本書紀によりますと、

垂仁天皇は即位2年2月狭穂姫を皇后にします。その年10月に久留米市大善寺玉垂宮{師木(城島)の瑞垣宮}を奈良県の纏向の珠城宮へ移したと、記入されています。

即位5年10月、皇后である狭穂姫の兄、狭穂彦が妹の狭穂姫を唆(そそのか)して暗殺未遂の叛乱を起こします。

以下は、その内容の全容です。

 

四年の秋九月。皇后の兄の狭穂彦王(さほびこ)(ともに垂仁天皇のいとこ)が謀反を企て、国を乗っ取ろうとした。そして皇后に、「おまえは兄と夫とどちらが大切か」と尋ねた。皇后はそれが重要なことだとは思わず、「兄の方が大切です」とすんなり答えた。すると兄は皇后に、「容姿だけを頼りにしていれば、やがては老いて相手にされなくなる。最近は美人も多く、天皇との縁組を求める豪族も多い。容姿だけではどうにもならないのだ。しかし、もし私が君主となれば、おまえと二人で、百年でも君臨することができる。どうだろう。私のために天皇を殺してくれないか」と言って、紐のついた小刀を渡し、「この小刀を衣服の中に隠し、天皇が寝ている時に首を刺して殺せ」と命じた。皇后はどうしていいかわからなかったが、兄を諫めることもできず、その小刀を衣服に隠した。

 五年の冬十月。天皇は久目(くめ)に出かけ、高床式の屋敷に滞在した。この時、天皇は皇后の膝枕で昼寝をしていた。しかし、皇后は兄の命令を実行できなかった。「兄の謀反のチャンスは今しかないのに」と思うと、涙がこぼれ、それが天皇の顔に落ちた。天皇は驚いて目を覚まし、皇后に、「夢を見た。小さな蛇が私の首にまとわりついた。また狭穂(さほ)狭穂彦王の地盤であろう)の方から大雨が降ってきて、顔を濡らした。これはなんの前触れだろうか」と語った。皇后は隠し切れないことを悟り、ひれ伏して兄の謀反を打ち明けた。そして、「私は兄の意志に逆らうこともできず、また天皇の御恩に背くこともできませんでした。打ち明ければ兄を亡くし、打ち明けなければ国を傾けます。それからは苦悩の日々でした。今日、天皇が昼寝をしたのを見て、兄のため、とも思いましたが、涙がこぼれてできませんでした。夢で見たという小さな蛇は、小刀の紐のことでしょう。大雨は私の涙のことでしょう」と申し上げた。天皇は皇后に、「これはおまえの罪ではない」と語った。
 そして近隣の兵士を集め、上毛野君(かみつけののきみ)関東北部の豪族)の一族の八綱田(やつなだ)に命じて狭穂彦(さほびこ)を討たせた。すると狭穂彦は軍勢を率いてこれを防ぎ、稲の束を積んで砦を作った。守りは堅く、破ることができなかった。これを稲城(いなき)という。翌月になっても降伏しなかった。すると、皇后が悲しみ、「私は皇后ですが、兄を失うことに堪えられません。私にも責任があります」と言って、子の誉津別命(ほむつわけ)を抱いて、兄のいる稲城に入ってしまった。天皇はさらに軍勢を集め、その砦を囲んだ。そして、すぐに皇后と皇子とを出すようにと伝えたが、出てこなかった。将軍(いくさのきみ)の八綱田(やつなだ)は火を放って砦を焼いた。それで皇后は皇子を抱いて外に出てきて、「私が兄の砦に逃げ入ったのは、私と子に免じて兄を許してもらえるかと思ったからです。でも許されなかったということは、私にも罪があったのでしょう。捕われるよりは自害します。ただ、天皇の御恩は忘れていません。私がしていたお側のことは、天皇の気に入った人に任せてください。丹波国(たにはのくに)(京都府北部・中部)には五人の姉妹がいます。みな貞潔な人たちで、丹波道主王(たにはにちぬし)の娘です。屋敷に迎え入れ、私の代わりとしてください」と申し上げた。道主王(ちぬしおう)は第9代開花天皇の孫にあたり、彦座王(ひこいますおう)の子である。あるいは、彦湯産隅王(ひこゆさすみおう)の子ともいう。
 天皇はこれを聴き入れた。その時、稲城が燃え崩れて、兵士たちが逃げ出した。狭穂彦と妹はともに稲城の中で死んだ。天皇は八綱田(やつなた)の功績を称え、倭日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)(火に立ち向った勇敢な八綱田)と呼んだ。(日本神話の御殿より転写。)

 

と、記述されております。

わたくしが、赤で染めた字が現在の呼び名と異なっていて、捏造亦は、時代による変化の疑いが持たれる処です。最初の「久目」は現在の「久留米」の事で在りましょう。これは、久目(くめ)の呼び名が自然に久留米(くるめ)に変化したものと考えられます。次の、「狭穂」(さほ)「嘉穂」(かほ)と考えられ、之は、間違いなく捏造されたと想われます。「稲城」(いなき)「稲築町」(いなつき)の事だと解ります。これも捏造と想われ、そして、「上毛野君(こうげのきみ)の八綱田(やつなだ)」は築上郡「上毛町(こうげちょう)」の「八ツ並(やつなみ)」の地であろう。と想われます。これは、明らかに故意に替えたと感じられます。豊木入日子命は上毛野君・下毛野君になっており、本来ならば、はっきりと豊木入日子命と記入出来るのに、「八綱田」と個人名とも地域名とも解らぬ表現にして、『ぼかし』をしており、編纂時の政治状況を察することができます。豊木入日子命は崇神天皇の子であり、息長氏の血が流れており、秋永氏集落がある傍の田主丸町に豊城トヨキの地名があり、現在、上毛町から中津市にかけて秋永氏が数軒あるのも頷けます。

 

此の、嘉穂郡や稲築町は、現在は嘉麻市となっており、近くの飯塚市穂波町には天道と謂う地があり、近くに大将陣山と謂う標高112mの山があり、山頂の脇には湧水もあり、大将神社が祀られており、伝によると、天慶4年(941年)源道仲が藤原純友の叛乱の討伐の勅命を受け{天慶(てんぎょう)の乱}、当山に陣を置き、天道の加護により亡ぼそうと、日天子を勧請して祈った事から大将陣山と謂われている。と考えられていますが、この地は、稲築町とも近く、古くは狭穂彦の乱とも関係がある山なのかも知れません。

 

と、謂うことで、記紀にて記述されています、狭穂彦王の乱は、垂仁天皇が福岡県久留米市の玉垂宮に身重の狭穂姫を連れての里帰りの時、福岡県嘉穂郡稲築町で起こった事件であった。と読み解く事ができます。

 

 

コメント (2)
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