西暦713年頃の(元明天皇)「丹後風土記残欠」と謂うのが在るそうです。全体の多くの部分が失われて一部だけが残っているので残欠と呼ばれているそうです。
次のような記述がありました。
『丹波という名前をつけた訳は、昔、豊宇気大神が伊佐奈子嶽に天降された時、天道日女命たちは、この大神に五穀と蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を掘り、それで灌漑して水田陸田を定めて植えた。秋には「垂穂八握莫々然甚快也。」大神はそれをご覧になって、大喜びされて曰く、「阿那而恵志(あなゑえし)、面植弥志与田庭。」そして大神は再び高天原に登られた。それで田庭(たにわ)と謂うのである。丹波・旦波・但波、など全て、多爾波(たにわ)とよむ。』
とあります。
「昔、」とあるのは、「海部氏」や「尾張氏」が九州大分豊国に居た頃と捉えると善く理解できます。
天道日女命は、ニギハヤヒが天に居た時に娶った女性とされていますが、卑弥呼の事と想像されます。(宇奈岐日女が由布院に居ました。)そして、大分県別府湾にある日出町の真那井での出来事と考える事ができます。
伊佐奈子嶽(いさなこたけ)は別府に在ります鶴見岳と考えられます。鶴見岳山頂に火男火賣神社(ほのおほのめじんしゃ)の上宮が、中腹に中宮、別府市火売町に下宮があり、現在の祭神は伊邪那伎・伊邪那美・火迦具土神の三柱となっていますが、『式内社調査報告』では、伊弉冉尊・火軻具土命・豊受姫命・大山積命の四柱とされています。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)は火軻具土命(ひのかぐつちみこと)を産んで陰部に火傷を負い、病になり、苦しみ、尿から成り出たのが和久産巣日神(わくむすひしん)で、その子が豊宇気毘賣命(とようけびめみこと)とされ、穀物の神・御食津の神と謂われています。
と謂うことで、「田庭」が「丹波」や「旦波」・「但波」の元であり、丹波・旦波と謂う言葉は古来には、大分豊国で使われていた言葉と理解すべきであります。
丹波・旦波の単語で、「近畿である。」と、捉える発想は時間軸が第11代垂仁天皇以降でなければ無ければなりません。「昔」と謂う記述には、気をつけねば為りません。
《その後の研究に拠る追補》
丹波の源元は、豊受大神=高躬結び神と息子の高幹(後漢の官吏。四川省成都の太守→蜀の太守)が、AD206年頃に『対馬』経由で、阿蘇氏の健磐龍命=豊玉彦の娘の豊玉姫=阿蘇津姫を、息子の『日高彦穂穂出見命』と婚姻を結び、北部九州を治める事となり、
日田市田島ダンワラ遺跡(日高)に住み着き、大卒を糸島に置きました。
日田市の『田島』が、『但馬』→『丹波』の元と考えられます。
豊受大神は、その後『隠居國』として、『ホツマ國』(九重・玖珠~由布院~安心院・院内)を分割します。
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