「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

西暦240年頃、息長水依比賣命(辛國息長大姫大目命)に由って『護摩焚き』が齎された。と想われます。

2015-09-11 | 古代史

仏教が中国に齎されたのは紀元前2年~紀元67年頃とされ、当時は仏陀のことを浮屠(ふと)と呼んだそうであります。わが国に齎されたのは、欽明天皇の御世の戊午つちのえうま(538年)とされています。しかし、538年は宣化天皇(535~539年)の時代になり、根拠とされた『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の御世の『戊午つちのえうま』とされ、混乱が生じています。現在では『仏教伝来』を使わずに『仏教公伝』を使う様です。

 唐の時代に渡って仏教を日本に齎した最澄(天台宗)・空海(真言宗)は拝火教(ゾロアスター教=祅教)の影響を受けている。と考えられております。

拝火教は火を崇める特徴があり、ウズベキスタンとタジキスタンの一部のソグディアナ地方(安国=ブクハラ・康国=サマルカンド・石国=タシケント等のオアシス都市)に棲んでいたイラン系の人々(ソクド人)が、遅くとも後漢時代には交易を求めて頻繁に中国に遣って来ていたと謂われ、シルクロード交易の中心を担う人々が河南省『洛陽』の町に集ったと考えられます。このソクド人が集って行なう祭祀の儀式が、天御影神と息長水依比賣命(=辛国息長大姫大目命)によって倭に持ち込まれたものと考えています。

後の北魏~隋~唐の時代にはゾロアスター教を管理掌握する職務として『薩宝』制度を儲けていますので、大変盛んであったと思われます。

 

洛陽には『袁氏』が有力豪族として居り、帥升王(スサノオと考えられます)に拉致され、後漢安帝に西暦107年に生口(役に立つ者)として献上された106人もの倭人の中に息長氏(秋永氏)も混じっていたものと想われます。

此の107年頃は、前漢末(西暦2年)の人口(5767万人)から、後漢初め(西暦57年)には(2100万人)人口が半減以下になっており、人口の増加が課題であったと考えられ、献上された倭人も倭人町での人口の増加を理由に、自由を許されたものと想われます。100年後の西暦157年には5648万人に回復しております。若しかしたら、帥升王は其の人口減を耳にして、106人と謂う大勢の生口(役に立つ者)を安帝に献上したものと考えられます。

袁氏との知遇を得た息長氏は血縁をも結び出世をしたものと考えられます。

 

そもそも、息長氏(秋永氏)は磯長(シナガ)とも科長(シナガ)とも呼ばれ、中国雲南省に在ります支那の地名に由来するシナツヒコ(同族に多氏=阿蘇氏=内氏)が南九州大隈半島曾於郡に上陸したのがルーツと考えられます。

 

 わたくしは、洛陽で世代を重ねた息長氏が護摩焚き(ゾロアスター教の儀式)を西暦240年頃、倭に持ち込んだものと考えています。

 

わたくしの2011年11月23日のブログ『秋永氏探求から紐解く息長古代史17』では、次のように述べています。

 

天霊の神とは八大弁才尊(はちだいべざいそん)、息長水依比売命は弁才尊天と謂う事にも考えられ、天霊系の元になります。地霊の神とは、笠法稲荷大明神(かさのりいなりだいみょうじん)の事だそうです。笠法稲荷大明神のモデルは、どうも鍛冶神の祖と謂われている天之御影神(あまのみかげしん)と思えてきます。

 と述べ、真言宗では弁才尊天と笠法稲荷大明神は大日如来尊や不動明王(大日如来尊の化身)と伴に最も大切な扱いをされています。

 

福岡県糸島市長野に在ります(仲哀天皇の遺体を仮埋葬したと伝わります)宇美八幡神社の伝承には、三韓征伐から帰還の折、神功皇后(息長帯比賣命)が船上にて神懸かり、『自分は青瀧権現である。』と述べられた。とあります。

 

息長氏(秋永氏)と弁財尊天と笠法稲荷明神と青瀧権現は真言宗にて繋がります。

 

亦、空海(唐滞在3年)・最澄(唐滞在8ヶ月)と一緒に唐に渡った近江出身の『息長丹生真人長人』(45歳の時に唐に渡った)は唐にて『霊仙三蔵法師』の称号を憲宗皇帝より日本人で唯一人授かっています。

『息長丹生真人長人』(759年生~827年没 在唐23年 山西省五台山にて68歳の生涯)や『空海』は、五百数十年先祖の息長水依比賣命(=辛国息長大姫大目命)が魏から『ソクド人が持ち込んだゾロアスター教の火を使った護摩焚き』と『中国に伝来した原始インド仏教』を倭(香春)に持ち込んだ事を知っていたものと推察されます。

此処豊前は秦氏(新羅経由の秦にルーツする中国人と考えています)の本貫地であり、英彦山・求菩提山・等は古代より息長水依比賣命や秦氏が齎した修験者の聖地であり、修験者は祈祷師と施薬師・医術師を兼ねていたものと考えられ、最澄や空海は渡唐前後の時間を近畿熊野・近江の修験地では無く、香春(豊前)の地を暫くの間うろついています。

また、第31代用明天皇=橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)(第29代欽明天皇の子)の病気の時、『豊国法師』を呼んだと用明記には述べられ、大任町には『大行事』の大字名が残っており、最新の施術師を求めて豊前(香春~大任~彦山)には修験者の賑遇いが有ったものと考えられます。

大任町大行事には秋永の小字名があり、姓氏辞典では、秋永の発祥は田川(鷹羽)とされ、近くの香春神社では辛国息長大姫大目命=息長水依比賣命(息長氏として最初に登場されたお方)がおられ、神紋・家紋が『違い鷹羽』で一致し、息長氏と秋永氏が繋がり、

息長氏の発祥は、此れまでの近江息長氏をルーツに唱える近畿説を覆した『宝賀寿男』さまの最新説であります『田川(鷹羽)が息長氏の発祥である』が正解でありましょう。

 《追補》

最初に香春に居た天之御影神(稲荷大明神=高躬結び神)と秦氏は近畿に渡り、『秦伊呂巨はたのいろこ』が後の京都伏見稲荷神社を創っています。此れは 天之御影神が秦氏等から崇拝されて居たと考えられ、一部の秦氏は天之御影神(高躬結び神)と伴に倭に遣ってきたものとも考えられます。

応神天皇期には弓月君(ゆづきのきみ)が大勢で豊前に来ており、此の弓月君はウイグル・カザフスタンの近くの弓月国(クンユエ)=景教(初期ユダヤ教=拝火教)の王であったと謂われ、ソクド人も初期ユダヤ教(景教)と関係・影響を受けたものと考えられます。ひょっとしたら、息長水依比賣命(辛國息長大姫大目命)が齎した『護摩焚き』に影響を与えた儀式は原始インド仏教と景教(ユダヤ教)であったのかも知れません。それとも、ソクド人は出イスラエルのユダヤ人であったのかも知れません。

 

 

 

 

 


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