「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

斯くして、『日本國』が誕生した。天武・持統の努力。

2019-04-22 | 古代史

『敏達天皇』が、新羅から遣って来た『法興王』である。と考えられます根拠を申し上げます。

 

倭には、応神天皇期に、秦國の流を汲むヘブライ月氏が、韓半島を経由して、大勢の人が渡来しており、

雄略期以後の倭の内部では、親新羅派(日田上宮王家)と親百済派(田主丸町唐島の息長氏=秋永氏が百済王族の受け皿になっています。)の抗争対立が、息長氏連合(福井の継体・田川飛鳥の安閑・佐賀日の隈の宣化)による、日田上宮王家本流(豊受大神・耶蘇杵)の『磐井(石井)』を滅ぼします。527年磐井の乱~531年辛亥の変です。

 

上宮王家の支持基盤で有ります、新羅派の大山橘み系は、継体→安閑→宣化の暗殺を謀り、実行をします。

 

継体と手白香皇女(百済系と考えられます)の間に生まれた欽明期に、日田上宮王家派の要請で(元々新羅シラギは、上宮王家の出先國と考えられます。日高彦穂穂出見尊と、その皇后の豊玉姫・八咫烏(賀茂建角身命・大山咋・久麻加夫都阿良加志比古・琴平神)・玉依姫(八咫烏と伊賀古夜比賣の娘です。豊玉姫の姪になります。)一行は、天日鉾=スサノオ=崇神を新羅王にするべく、新羅シラに置き去りにして、帰って来ています。

そもそもの新羅シラギの始まりは、熊本玉名の阿蘇氏=白氏=白日別と記紀で述べられています。が、鉄を求めて韓半島に拠点シロ→シラ→シラギを造った。事から始まった。と考えています。

新羅との関係が上手くいかないと、何度も新羅に攻め込み、多くの豪華装飾品や貢物を受け取り、関係の修復を迫っています。新羅出張所の『王』も、倭から派遣したものと考えています。)、

 

『三国史記』新羅本紀には、数多くの時代の人名に『葛文王』の文字が冠されていますが、わたくしは、カツブンオウ『葛文王』とは、倭の『葛木氏』(豊日別=白日別と同族の『紀』氏です。『紀』氏とは中国『周』王朝の太伯=太白に先祖を持つ姓、『姫』キシ氏→『紀』キシ氏の事です。)から分かれた人物の『王』である。との解釈をしています。

 

日知葛文王・許婁葛文王・骨正葛文王・仇道葛文王・第22代智証葛文王、そして、第23代『法興王』も『葛文王』と述べられており、此れは、倭の豊後『葛木氏』との関係が詮索され、『法興王』が倭に呼び戻されたものと考える事ができます。

 

 

奈良県法隆寺傍に在ります『藤ノ木古墳』の埋葬者の一人は、新羅王で有った『法興王=蘇我稲目=敏達天皇』であろうと、副葬品(装飾足履・黄金の帯・王冠)と遺骸の状況から、考えています。当時の権力者であります、百済系の藤原氏からは、遺骸を粗雑に取り扱われています。(装飾足履の片方が紛失しています。装飾足履は舶来品で、新羅経由で持ち込まれたものと考えられます。通常は身体に着けてあるべき黄金の帯が、三つ折りにされて、遺骸の足元に、冠と伴に収められていました。)

遺骸は、『南大分』か、『田川飛鳥宮』、又は『うきは朝倉』から運んできたものと考えられます。わたくしは、田川大任町秋永地区(磯長陵)に在ります、古墳(名前が付いていない)から運んだものと考えています。

 

 

新羅国王で有った『法興王』は、倭の王族と其の取り巻きによる権力簒奪争いの惨状を傳聴き(葛木氏の要請で来倭と考えられます)、『仏法精神で國を治める事が、倭には必要である。』との思いで、葛木氏の本貫地であります大分へ遣って来たものと考えています。(西暦540年)

 

『法興王』(敏達=蘇我稲目)は、直ぐに田川飛鳥宮近くの大任町秋永に居たと考えられます、息長真手王の娘の『広姫皇女』を娶り、押坂彦人大兄皇子(この人が蘇我馬子であれば、息長氏の血脈が流れている事になります)を儲けます。その子が田村皇子(舒明天皇=息長足日広額天皇=大任町隣の赤村の※『飛鳥岡本宮』で、皇極=斉明と伴に政務をします。)です。

 

※正しい『飛鳥岡本宮』の解明発表は、斉明期研究の第一人者『福永晋三』さまがなされています。奈良県の飛鳥ではありません。お間違えの無いよう御注意申し上げます。

 

蘇我氏四代は、新羅由来の大分葛木氏親族の、親新羅派政権で有ります。その証拠に、此の時代(500年~663年迄)は倭から新羅への征討は行っていませんし、欽明天皇は任那府の再興を望みますが、新羅討伐は口にしてはいません。

 

亦、蘇我馬子が亡くなる2年前(推古32年・624年)に、推古天皇に『葛木県=大分市』を蘇我氏に割譲を申し出て、断られています。

 

『馬子』の埋葬地は『桃原』とされていますが、大分葛木の丘の直ぐ傍に、『桃園』の地名が在ります。

 

『欽明天皇』の実子で有ります、『用明天皇』は『蘇我稲目』の子の『石寸名』イツキナを娶って、『厩戸皇子』の兄であります、『田目皇子』を儲けています。

『田目皇子』の子が、『高向王』です。

『寶皇女』(後の皇極・斉明)の父は『茅渟王』チヌオウで、茅渟王は押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)の子と謂う事になります。

『寶皇女』は、舒明天皇との結婚の前に、『高向王』との間で『漢皇子』を儲けています。

 

わたくしは、此の『漢皇子』が『天武天皇』の事であろう。と、考えています。

 

そうすると、百済王末裔の『翅支』ギョウキ(中大兄皇子=天智天皇)が、自分の娘を『天武』の妃にした理由が理解できます。

 

舒明天皇が崩御(641年)後の642年に、百済王族の『翅岐ギョウキ』(462年~501年迄、田主丸町唐島に来て居た昆岐王・武寧王・聖明王の末裔で有りましょう。)が、田川飛鳥宮に遣って来て、『皇極天皇』に歓迎・歓待され、上宮王家の血脈であります『欽明』⇒『用明天皇』⇒『厩戸皇子』⇒『山背大兄王』への、蘇我入鹿による襲撃事件が、切掛けになり、

 

645年田川飛鳥宮での『オッシ乙巳の変』を起こします。

 

此の百済王の末裔『翅岐ギョウキ』(元は、北魏に繋がる鮮卑族の拓跋氏)が中大兄皇子の正体で有りましょう。

つまり、天智天皇は百済系です。

 

それに対して、天武天皇は全くの新羅派(九黎族=白族=本貫地は熊本玉名が、韓半島にシラ→新羅を創ります。紀氏=姫氏は、その後に豊後に移動します。豊後紀氏=豊日別。日田に『美濃』が在ります。古来の『美濃』とは日田~うきはを意味しております。壬申の乱を左右したのは、美濃からの援軍と述べられていますが、此れは九州日田・うきはからの援軍と解釈されます。)の人物でしたが、

(天智4年665年9月・天智22歳)唐の郭務宗カクムソウ、高官の劉徳高リュウトクコウが、『倭京』(『倭京』の場所は、上岩田遺跡(小郡市松崎)と想われます。)に、総勢254人で駐留した時(多分、場所は小郡官衙と、想われます。)に、天智が閲兵式をしています。(場所は太宰府政庁と考えられます。)

ありったけの兵を動員して唐兵を迎え、倭のプライドを保とうと、したものと考えられます。

 

667年3月に天智は近江(=淡海=遠賀川中流)の『大津宮』田川糸田町へ遷都(天武から見れば、倭京からの逃避です。)します。667年11月にも、『唐』の使者が筑紫に遣ってきます。

668年1月(天智7年)に、遠賀川の近江=淡海田川糸田町『大津宮』で天智天皇即位します。

 

671年1月~7月李守真リシュシンが倭京へ来ます。其の年の11月に唐兵600名と白村江の戦での倭兵の捕虜1400名が、『郭務宗』が率いて倭京(上岩田遺跡=御原宮)へ遣って来ました。大海人皇子(天武)が『郭務宗』等と対して接したものと考えられます。(郭務宗と懇意を得たものと考えられます。)

 

672年は天智10年で、天智が亡くなった年(天智10年12月3日)です。

そして、672年の『壬申の乱』が起きます。雌雄を決したのは、美濃(日田~うきは)の援軍でした。

 

勝利した天武と持統は、飛鳥浄御原宮=福岡県小郡市松崎上岩田~下高橋=筑後國御原郡で20年程精力的に律令国家への専制政治を行い、

686年天武天皇が亡くなると、妻の持統天皇(高天原廣野姫天皇)は694年藤原京=奈良県に都を移します。(679年の筑後國地震で、上岩田は被害を受けて、政務は小郡官衙へ移動したものと思われます。)

近畿奈良『藤原京』では、『天武天皇』は、藤原不比等(藤原鎌足は天智天皇の側近でした。)に否定され悪口されます。

 

つまり、665年2月迄は第36代孝徳天皇(大分の難波長柄豊碕宮で政務をした人)の間人皇后(中宮天皇)が浮羽町の大生寺で『天璽三宝』を預かり、

その後、中大兄皇子(翹岐=501年12月迄、田主丸町唐島に居た百済昆岐王・武寧王・聖明王一族の末裔と考えられます。)が668年福岡県田川糸田町『大津宮』(糸田町大宮神社=福永晋三氏説)で、天智天皇(天命開別尊)として即位します(支えたのは大分日出町が本貫地の、阿蘇氏一員である藤原氏です。)

が、4年後の天智10年12月3日(672年1月7日)崩御。如何も病死では無くて、宇治=田川で殺害されたものと考えられます。

672年1月9日大友皇子が弘文天皇として、田川『大津宮』で即位。壬申の乱が起こり、大友皇子は672年8月21日首を吊って自殺。

 

『高向王』と『寶皇女』(後の皇極・斉明)の間で儲けた『漢皇子』が、『大海人皇子=天武天皇』の正体でしょう。

 

673年3月20日大海人皇子は、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)として即位して、福岡県小郡市浄御原宮(上岩田遺跡~下高橋官衙跡)で、皇后の『持統=天智の娘』と伴に、『白村江』の戦後処理(捕虜の返還交渉)に邁進。しかし、679年筑後大地震が起きて、土地が隆起し、官衙の建設にも影響を与えたものと思われます。

 

唐兵が遣って来るので、倭の人民は、祭事土器を地中に埋め、仏像は『うきは』の『橘寺』(大生寺)に預けて、殆どが本州・四国へ避難して、倭に残って居なかったもの想われます。『橘寺』の間人皇后(中宮天皇)が亡くなった後、筑後一帯から集められた48体の飛鳥佛(木造の佛は楠木で制作)は、荒廃した『橘寺』から、奈良『法隆寺』へ移されます。

 

唐の『郭務宗』から、唐の国家の行政仕組みの説明に触発されて、律令国家建設(奈良藤原京の造営と将来の遷都・684年天武13年、八色の姓を制定、真人ま ひと、朝臣あそみ・あそん、宿禰すくね、忌寸いみき、道師みちのし、臣おみ 、連むらじ、稲置いなぎ、の八つの姓の制度)を夢見て、目指します。

 

が、『天武天皇』は13年後の686年志半ばで崩御。妻の鸕野讚良姫皇女ウノノササラ(高天原廣野姫)は、子である草壁皇子(662年筑紫生まれ)に継がせようとしますが、持統3年4月13日(689年5月7日)草壁皇子も27歳で亡くなります。

 

傷心の中の2か月後、持統3年6月に、『天武天皇』の目指した『飛鳥浄御原令』(6年に一度の戸籍作成・50戸ごとの律・班田収授等の令)を出します。

 

殯が明けた後、持統天皇(天智天皇の娘・母は遠智娘オチノイラツコ)として、690年2月14日即位。

 

694年正式に奈良藤原京に遷都します。

 

 

 

※三国史記『新羅本記』では、670年の『倭』の条項で、『ヤマト倭』が『ヤマト日本』の名称に成った。とあり、

此れは、668年田川の近江=淡海『大津宮』で即位をした『天智天皇』が、『日本ヤマトの國』を宣言したものと考えられます。

 

 

つまり、693年迄は、九州倭で、政治が執り行われていたものと、考えられます。近畿政権(新生日本國)は、694年の『持統天皇』(藤原京)から始まった。と、考えるべきです。

 

今までは、701年の大宝律令発令(文武天皇=草壁皇子の子)を新生『日本國』の発祥と考えられていました。

 

奈良県飛鳥浄御原宮の解釈は全くの妄想と想われます。近畿説学者の我田引水的な断定解釈の結論は、目に余るものを感じています。

 

『木を見て森を見ず』の諺がありますが、古代史を考える上では、全体を通して物事を捉え、客観的に判断を下さなければなりません。

 

日本書紀・古事記には、多くの(恣意的な)間違いが認められて、他の多くの書物や伝承との比較検討が求められます。

 

倭が九州に在った事は、鉄鏃の近畿と九州の出土数の差・楽浪土器が近畿には出ない事・阿蘇馬門石の石棺が近畿にある事・飛鳥時代の仏像の楠材使用・地名の移動・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の出土地が日田市である事・ホツマ伝の解釈から『ヒタカミ』が『日田』で、『日田』が『飛騨』・『常陸』に移動した事。『鵜飼』文化の伝承地が、(飛騨を有する)長良川と、(雄略天皇が居たと考えられます、)うきは朝倉地区と、(豊受大神一族の日田の、)筑後川沿いにある事。・大嘗祭に措いて、南方系のビロウ枇榔の葉を使用する事。

等々、明白な事と理解できます。

 

宝賀寿男さま・安本美典さま・内倉武久さま・井上悦文さま・福永晋三さま・綾杉るな女史・伊藤まさこ女史の研究を参考にして、考察(洞察)をさせて頂きました。

 

『天武天皇』と『持統天皇』は、白村江の敗北後の『唐』占領軍下での交渉の困難を克服した、『日本建国』の父母で有ります。

 

国家の在り方に対する想いと業績(佛教文化による治世と飛鳥浄御原宮令から大宝律令へ・九州倭から奈良藤原京への遷都)は、125代の天皇中でも、随一で、もっともっと評価されるべきだと思います。

 

新札紙幣の顔にして、国民に知らしてあげたいものです。

渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎も立派な人物ですが、歴史的人物としては、『天武天皇・持統天皇』は、より相応しい感がします。

 

お役人さんの日本の歴史勉強が不足しており、

文部省は、『日本書紀』・『古事記』に頼った日本史の再検討をし、現在の学者に頼らずに、在野の研究者に重きを置いて、将来の一般人が頷ける『日本史』の再編纂を考えるべきです。(ホツマ伝の解釈が大切です。)

 

そう謂う事(歴史的な方向性を示す事)を行うのが、権力を有する者の仕事です。しっかりと、将来への舵取りをお願いします。

 

                                      

                                      大分県ゆふいん温泉在住  秋永祥治

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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予言書 (大日月地大神御霊)
2019-05-30 01:46:22
いつも お世話になっておりますm(__)m

予言書を発見しました、

見ていただけると光栄です。

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