「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

第2代綏靖天皇の墓地探し。

2012-10-01 | 古代史

9月15日土曜日所用が在って大分市に出かけました。3時間程時間が空きましたので葛木地区へ調査を兼ねて訪ねました。此処は、わたくしの考えでは近畿に在る葛城以前の本拠地であり、第2代綏靖天皇がこの地に居られていたと、考えられるようになったからです。以前のブログにては『第2代綏靖天皇は、神武天皇の存在が考えられる糸島~博多の近くではないか。』として、下記の様に述べていました。

 

第2代綏靖(すいぜい)天皇は『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)に住み、倭の桃花鳥田丘(つきだのおか)、(古事記では衝田岡になっています。)に埋葬した。となっています。

『葛城の高丘』(かづらきのたかおか)は特定できません。探し出せませんので、多分飛鳥の葛城に居たとも想われます。しかし、倭とわざわざ書いて有りますので、北部九州。博多の早良区か西区に埋葬したとも考える事も出来ます。

 

根拠は、第5代孝昭天皇の項で『葛城の掖上の博多山』が早良区に在った為、葛城(此の

言葉は、固有名称ではなく、状況を指す意味にも解釈出来ますので全国至る所で葛城の名称が使われます。)を一応、神武天皇・綏靖(すいぜい)天皇の出身地と思しき地に近い所と考えました。

 

そう仮定しますと、第6代孝安天皇の処で検討しました、吉武・高木遺跡の王墓の主かも知れません。

 

(その後、尾張氏が、大分市が本貫地であった事を発見し、追加記述をしています。 )

 

《追補》

葛城の高丘』(かづらきのたかおか)は、最近大分市明野台にある葛木(かつらぎ)の事ではなかろうか、と感じています。高丘と謂う地形的に合致して、衝田岡(つきだのおか)のイメージを彷彿致します。尾張氏の本貫地でもあり、大いに可能性を感じています。

 

 

と、考えが変わり第2代綏靖天皇の墓は大分市明野台にある葛木(かつらぎ)地区に在るものと想われるようになったからです。

大分市から国道197号線を鶴崎方面へ10分程行きますと乙津川がありこの近くは桃園地区となっていました。その右側にある50m程の丘の上が葛木地区になっています。(後で、桃園を調べました処、以前はこの地区は桃園村となっていて、合併にて桃園の地名が残った由。)どうも『桃花鳥田丘』は此処のようです。

都市化の中、大分家屋が建て込んで来ている葛木地区に登ってみますと、此処には古社と思しき鉾神社(ほこじんしゃ)があり、伊邪那岐命伊邪那美命との間に生まれた御子神である級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しながとべのみこと)を祀っていました。

級長(しな)とは息が長い事を意味し、風の神とも、息長氏の元祖、天目一箇神天之御影神)の事とも謂われ、鍛冶神を指します。正に此処が尾張氏・葛木氏の本貫地であろう。と想われました。ひょっとしたら、最初は、天之御影神は此処に居たのかも知れません。近くにはの台の地名もあり、製鉄に必要な藤葛が沢山あったものと考えられます。此処の葛木の名前は、以前は葛城村と書いていたそうですが、明治22年に葛木になった由。鉾神社は近くにもう一つあり、『お旅所』と謂い御神輿が休まれる処とされています。

此の葛木地区は、亀塚古墳五十瓊敷入彦命を葬ったと考えられる)ともそう離れてなく、五十瓊敷入彦命川上麻須郎女の孫になり、この川上の地名は由布院にあり、此の地(葛木)に呼び出した川上(鍛冶)を使って刀1千口を作ったとも考えられ、其れが鉾神社と関連があるのでは?と勘繰られます。

 

この鉾神社の近く[衝田岡(桃花鳥田丘)]綏靖天皇の墓があると想われ、探す事にしました。時間の限られる中、出きる限り視て周り、調査の必要を感じさせられる墳墓を発見しました。江戸時代から棲んでおられる方が管理されています土地にあり、以前は庄屋をされて居たらしく、『定』と書かれた寛永年間の藩令板が二枚保存されており、管理をされていない江戸時代以前の古い墓地と思しき不可思議な石を敷き詰めた地があり、霊感を生じ、発掘の必要を感じました。今後、大分市文化財課に懸けあい調査を行いたく現地を後にしました。

 

 

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