「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

その後の天忍穂耳命の行方。

2012-10-04 | 古代史

高天原(由布院)に居られた(須佐之男命の子と想われる)正勝吾勝勝速日天忍穂耳命はその後どうなったのでしょうか。

葦原中国の平定の後、老いた正勝吾勝勝速日天忍穂耳命彦山近郊に高木神と伴に『猿田毘古神』=景行天皇が先導して疎開先の由布院(高天原)から移動されたと考えられます。※

 ※ホツマ伝の解釈では、天忍穂耳命は生まれつき病弱で、思兼神とその妻のワカ姫が、ずっと付き添って杵築の八坂川(ヤスカワ)から、タガ若宮(田川香春)に移動し、小石原峠(箱根=荷を運ぶ・峠を行き過う様)を越えて英彦山経由で日田(ケタ壺・ヤマテの宮。その後は、瓊瓊杵尊が新治宮をつくります。)で亡くなります。遺体は『英彦山』に埋葬された。と、叙述されています。

一行は福岡県朝倉に腰を落ち着け、彦山を信仰の霊峰と崇め、『英彦山神宮』には、天忍穂耳命を主祭神として祀っています。その近くには『高住神社』があり、其処では『豊日別大神』が主祭神の一神として祀られています。この『豊日別大神』は『高躬結び神』のことであり、また、此の周辺には、数多くの『高木神社』があり、朝倉市黒川には『高木邑』があります。この高木邑の傍には『佐田地区』があり、『佐田毘古命』は高木神の息子の『耶蘇杵』の子『大己貴命として、朝倉市林田余名持の地で産まれたと考えられます。

後に、第37代斎明天皇が百済の復興を願って福岡県朝倉市に『朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろのみや)』行宮(あんぐう)を営えた理由は上記の歴史を物語る証左でありましょう。

亦、越前を拠点とした、戦国時代の守護大名である朝倉氏は『但馬国養父郡朝倉』が発祥とされ、第9代開花天皇の第3子日子座王の後裔(日下部氏・・・この祖は日田の郡に棲む『邑阿自(おほあじ)』と豊後国風土記では述べられています。)と謂われても居ますが、開花天皇は此の福岡県朝倉の地からも近くの久留米市荒木城島『玉垂宮』に棲んでおられており、田主丸町竹野には正妻である竹野媛とその子、彦湯産隅命(日子坐王)が居られ、その直ぐ傍の朝倉には関係を考える事ができます。

朝倉氏日下部氏も元は此処の朝倉・日田地区から派生したものと、考えるべきでしょう。

 

 

 

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