「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『猿田毘古神』の棲んで居た場所。

2012-09-11 | 古代史

9月8日土曜日の夕食時のテレビニュースで(隣町の)安心院町にて、『安心院ぶどう祭り』が明日(日曜日)まで行われる、と謂うのを見た妻が行きたいと呟きました。

実はわたくしも『猿田毘古神』の痕跡を求めて安心院への途中にある天間(あままを調査したく考えていましたので、一緒に行く事にしました。

 

平成24年9月9日(日曜日)塚原高原を通って天間へ、まず天間八幡神社周辺を散策しましたが、全く『猿田毘古神』の痕跡は見出せず地域の方に尋ねる事にしました。国道500号線の傍にて野菜をご夫婦にて販売されておられる地元の方にも、石碑・伝承等、『猿田毘古神』なるものを尋ねてみましたが、出て来ませんでしたが、塚原の戦川(たたかいがわ)では昔は『金』を採掘していたと伝わっている由。収穫がありましたが、わたくしの頭の中には此処が、『猿田毘古神』がニニギ命一行を待ちうけて居た場所に間違いないとの想いがあり、残念の思いで安心院町を目指しました。

途中、道路案内標識にて『佐田』の文字を見てドッキリしました。

『猿田』では無くて『佐田』かも知れないと。

以前は『佐田毘古神』であったのが『猿田毘古神』に、或いは其の逆も考えられます。たしか、記紀では『猿田毘古神』が迎えたとされて、天間まで迎えに来ていた事になります。

ぶどう祭り会場にて昼食をした後、安心院町佐田地区を訪れました。ここは佐田城跡があり、近くに在る佐田神社には、武内宿禰命・素盞嗚命・大山祇命を祀っていました。此の大山祇神(おおやまつみのかみ)は國神(くにつかみ)の事であり、近くには、佐田京石(さだきょういし)と呼ばれる弥生時代のドルメン(支石墓)ストーンサークル(環状列石)が米神山(475m)にあり、

天神族とは異なる神を祭祀する集団が此の佐田の地に暮していたものと想われ、『猿田毘古神』が重なりました。『佐田(猿田)毘古神』は此の地より、天間(天之八岐)までニニギ命一行を迎えに出たものと考えられます。

自宅に帰り、佐田城を調べますと、応永6年(1399年)宇都宮親景が佐田荘地頭職を継承して、此の地に入り佐田氏を称した。その後城を築いた。とされていましたので、佐田の名称は古くから在ったものと考えられます。

 

 

 

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