「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

高天原の高木神の思いと執念。

2012-09-24 | 古代史

物事を考える場合、スタート間違えば論理の展開が在らぬ方に向かい、とんでもない結論が導かれる事になります。わたくしは、その轍を踏まぬよう倭の歴史を記紀にて辿ってみる事にしました。

 

朝鮮半島を経由して九州に遣って来た天孫族は本隊を大分県別府湾鶴見岳西方のゆふいん~塚原高原に置き、大分市に尾張氏・津守氏・葛木氏、東方の佐賀関方面に海部氏、大伴氏・佐伯氏を、北部にあたる日出町~杵築市に笠木氏・藤原氏・大神氏・紀氏・賀茂氏・大内氏を配し、九州~四国を治めて居たものと考えられます。

 

天孫族は、太陽神天照大神として大日孁貴(おおひるめむち)が祀り、最高権威としても従っていたものと考えられます。杵築市(豊後紀氏)より出身の須佐之男が新羅王に成り、天孫族のルーツである朝鮮半島から中国大陸に興味を示し、(其の頃は朝鮮半島は人口も少なく)倭の領土を朝鮮半島まで広げて、新羅國をつくり、新羅人が葛城氏と混じって、数多く遣って来ていたものと考えられます。

須佐之男命は杵築の大内宮にて悪事(アマテルの二人の妃に手を付けて、天之穂日命と、宗像三女神を儲けます。)を行い、其れが元にてアマテル=瓊瓊杵尊がゆふいん高天原から、糸島へ移動して『八州巡り』(船での日本一周行脚)を敢行します。

杵築市に居た須佐之男命は豊後紀氏(葛城氏)と伴に島根県出雲市追放されます。須佐之男命は地元島根にて、旧来より居た『白氏』の一族を滅ぼし、後を継いだ大己貴主命の時代までは八重事代主神(この神が銅鐸を祀ると考えられる。)信仰にて山陰~北陸~近畿~中部までの領域を拡大し、勢力を伸ばしていたものと想像されます。

大己貴主命の息子の建御名方命(たけみなかたみこと)が実権を揮って拡大を図っていた時代に、ゆふいん高天原(高躬結び神)の命を受けた建御雷之男神=阿蘇氏(武力を使った神)と天鳥船神(祭祀を司る神)が遣って来て、出雲より以東の国譲りを迫り、結果対立が起こり、かなりの年月の戦乱があったものと考えられます。

 

一方、スサノオが追放された後の高天原(ゆふいん)では高木神が第2代目大日孁貴(おおひるめむち)瀬織津姫穂の子=向津姫を擁して、天照アマテル大神=瓊瓊杵尊を奉って実権を持って居たと想われます。

古事記には、

葦原中国は(天孫族でスサノオを信奉して高天原に反目する集団=出雲以東と九州倭の中の一部)我が御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治めるべき土地である

として、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を将軍として葦原中国(出雲)に兵を送りましたが、平定には到らず、帰還し報告。

高躬結び神が第2代目天照アマテル大神(桜谷瀬織津姫穂の子)と伴に、「八百萬神(やおよろず)」と「思金神(おもしかね)」に相談して「天菩日神(あめのほひ)」を大己貴主命の説得役に決め、国譲りを迫りますが、大己貴主命に媚び屁つらい三年たっても報告に帰って来ませんでした。

帰ってこないので、高御産巣日神と天照大神(桜谷瀬織津姫穂の子)はその後如何すべきかと「思金神」に尋ねると、天若日子(あめわかひこ)を推挙し、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を授けて送り出しますが、大己貴主命の娘の下照比賣(したてるひめ)を娶り、その国(大己貴主命が造った葦原中国)を得ようと企んで、八年経っても報告に戻りませんでした。

高天原では、「思金神」の案で、「雉(きじ)の鳴女(なきめ)」を使者として高天原の命令通り仕事をするように遣わしますが、天若日子側近の天佐具賣(あめのさぐめ)が唆して、「天若日子」「天之麻迦古弓」「天之波波矢」にて「雉(きじ)の鳴女(なきめ)」を射殺します。

その「天之波波矢」高天原に居た高躬結び神の元に届き、その「天之波波矢」を見た高躬結び神は事の真相を悟り、出雲(葦原中国)で朝寝していた「天若日子」に還矢(かえしや)して殺します。

 

そう謂う事で、天照大神思金神(おもいかねじん)に「(大己貴主命の説得に)またどの神を遣わせれば善いか」と尋ね、「建御雷之男神(たけみかづちのおじん)」と「天鳥船神(あめのとりふねじん)」を遣わした。

と記述されています。

 

大己貴主命八重事代主神と息子の建御名方命が納得したら自分は国譲りをして構わないと述べます。八重事代主神とは天鳥船神が交渉し国譲りに納得します。

建御名方命建御雷之男神に力比べを挑みますが負けて長野県諏訪湖まで逃げて、追いつかれ命乞いをして、国譲りを承諾します。

こうして、大己貴主命は己の祭祀のみを乞い、建御雷之男神国を譲る事を承諾したとされています。が、山陰~近畿~長野県の諏訪湖まで追い詰めるのに何月~何年かかったのでしょうか。敵地での戦は簡単には往かなかったものと思われ、山陰・北陸・近畿・中部と相当の時間を要したと考えられます。

スサノオを信奉する大己貴主命側に付いた九州の部族も多くあると考えられ、九州の倭の内でも戦が行われていたものと思われます。佐賀県にある二重環濠集落吉野ヶ里遺跡からは銅鐸殺害されたと考えられる多数の遺骨が出土していますので、大己貴主命側に付いて戦っていたのかも知れません。

後に、久留米市大善寺玉垂宮に居たと考えられる崇神天皇は「大己貴主命祟りかも」と恐れ、大分県杵築市にルーツを持つ大田田根子を久留米の高良内(河内)耳納(山)で見出し、甘木市の大己貴神社にて祀って厄払いをしています。

 

 

 

 

 

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