日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー148  『日本』掲載 「天領日田の一風景・1」  広瀬淡窓と咸宜園ー1

2010-10-12 09:21:30 | 幕末維新
          

          

          


   「天領日田の一風景」 広瀬淡窓と咸宜園

                             矢 野 宣 行
                               「博士の家」代表


   
   はじめに

 幕末の天領日田(ひた)(現、大分県日田市)に生れた広瀬淡窓(ひろせたんそう)は、儒学者、尊王家、経世家、漢詩人、徳行家、教育家など多面で優れた人であった。 中でも漢詩人としては、菅茶山(かんちゃざん)、頼山陽(らいさんよう)、梁川星巖(やながわせいがん)などと共に、当時一世を風靡(ふうび)した。 また教育家としては、近世最大の漢学塾であった私塾・咸宜園(かんぎえん)を起し、多くの優れた門人を育成したことで特に知られている。

 しかし、このような淡窓は 一朝一夕に生れたのではない。 頼山陽が、竹原(現、広島県竹原市)の塩田文化に培(つちか)われた文化的な土壌の中から起ったように、淡窓もまた 天領日田の町人文化という土壌の中から起り、また広瀬家伝来の家風と教訓も、その人格形成に大きな影響を与えた。
 一方では この咸宜園は、優等生は養成したが、幕末の動乱期に臨んで、国事に奔走する志士を輩出しなかったことも特徴的であろう。 ここでは この辺りの事も考慮しつつ教育者淡窓と咸宜園について考えて見たい。



   淡窓・その土壌

 北九州のほぼ中央に位置する 山間の水郷(すいきょう)日田は、古来から交通の要衝として、また近世には天領として栄えた。 日田代官の支配高は、次第に増加して十万石をこえ、明和年間(十八世紀後半)ごろからは、西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)と呼ばれるようになり、西国大名ににらみを利かせていた。 この日田の町は 大きく分けて、政治の中心地である豆田町(まめだまち)と 商人の町である隈町(くままち)とに 分けることが出来る。
 代官所の業務には、天領からの年貢米の収納、廻送、販売、売上代金の保管、大坂や長崎などへの輸送、さらに領内商品の集荷、販売など様々があるが、代官所ではこれらの業務を 日田の信頼出来る商人に委託した。 この商人は 掛屋(かけや)(=用達(ようたつ))と呼ばれ、後には金融業も兼ね、大名貸しも盛んに行った。 この運用金は 日田金(ひたがね)と呼ばれ、日田は金融の中心地ともなり 莫大な財力が蓄積された。
 また 江戸や上方、福岡や長崎との往来も盛んで、その上風光明媚な地でもあったので、多くの人が集まり 活気に溢れていた。 金の集まるところ美人集り、文人墨客来たりて、この山間の盆地に大いなる文化が発達した。

 このような日田の掛屋の一つに、広瀬淡窓の生れた「広瀬家」(博多屋)がある。
 淡窓の祖父 久兵衛は 博多屋の三代目で、その処世訓は 「 人は心は高く、身は卑(ひく)くすべし 」 であった。 そしてこれが後に広瀬家の家訓となった。

 淡窓の叔父 平八(へいはち) (号は月花(げっか)・秋風庵(しゅうふうあん))は、四代目で久兵衛の長男である。 広瀬家は 二代 源兵衛の代から御用商人として代官所への出入を許されていたが、正式に掛屋となったのは 平八の時からである。 しかし 平八の本領は俳諧であった。 また 平生病気がちで、世間の人との交際も苦手だったので、三十五歳の時 家督を 弟の三郎右衛門に譲り、町の郊外の堀田村に隠居して 秋風庵(しゅうふうあん) をつくり、ここで俳諧三昧の生活を送った。 この平八は 幼年時代の淡窓に大きな影響を与えた( 淡窓は二歳から六歳まで 平八の元に引き取られて育てられた )。

 淡窓の父 三郎右衛門は、広瀬家五代目で久兵衛の次男である。 「 眼前の利得を貪(むさぼ)らず、陰徳を行って子孫に残す 」 というのが 処世訓であったという。

 広瀬淡窓 ( 通称は寅之助・求馬(もとめ)、名は 簡・建、 字(あざな)は 廉卿(れんけい)・子基(しき)、 号は 淡窓・青渓(せいけい)・苓陽(れいよう)・遠思楼(えんしろう)主人など )は この博多屋三郎右衛門(三十二歳)の長男として、天明二年(一七八二)四月十一日に生まれた。 生来の学問好きで、幼少の時から家業を習わず 勉学に専念、十六歳の時、筑前福岡の 亀井塾に入門、南冥(なんめい)、昭陽(しょうよう)父子に就いて学問に励んだ。
 当初の志では ここで五六年勉強した後、上方や江戸へも上り 大儒者についてさらに学業を進めるつもりでいたらしいが、十八歳の時、病気の為 やむなく亀井塾を退塾して日田に帰った。 それ以後 故郷に閑居、師につかず 療養のかたわら独学で学問を進め、その為 どの学派にも偏らない独自の学問を確立した。
 幸にこの時の大病は、妹アリの献身的な看護と、肥後の医師 倉重湊(くらしげみなと) の適切な処方により治ったが、その後の淡窓の一生は、それこそ病との闘いの連続であった。
 日田に帰ってからの淡窓は、自分の前途が定まらずに 長い間悩んでいたが、二十三歳の時、倉重に思い切ってその悩みを相談、そしてこの時の倉重の忠言によって、教育の業に専念する決心をした。 それは 文化元年(一八〇四)の年の暮れの事である。 そしてこの翌年、淡窓は広瀬本家六代目を 次弟の久兵衛に譲り、初めて私塾を開いて 教育者としての生活を本格的に始めた。 爾来五十年間、七十五歳で没するまで 全力を子弟教育につくした。 そして六十一歳の時には、子弟の教育が広く及んだ功を賞せられて、永世苗字帯刀を許され、日田代官所に直属することとなった。



   咸宜園教育

 咸宜園教育の最大の特徴は、三奪法 (さんだつほう) と 月旦評 (げったんひょう) (成績表)に代表される徹底した実力主義にある。 塾名は 「 ことごとく宜(よろ)し 」 という詩経の句から執(と)ったという。 その名のとおり、入門については年齢を問わず、入塾前の学歴を言わず、生家の家柄を無視し( これを「三奪法」という ) 全ての者に門戸を開放した。 そして 塾中での学習課程の成果、課程の高低を重視し、成績の順位により 尊卑を決めるというやり方である。 これは封建制のもと 身分制度の厳しかった当時としては 画期的な事である。

 そのために 九級上下、無級を含めて 総計十九におよぶ月旦評が用意されていた。 入塾者は 全員が 無級からスタートし、月九回のテストに一定の点数をとったものが 一級下から順次昇級していった。 最終ゴールの九級上に到達するには 相当の努力と年月が必要で、ふつう 四、五年程度、なかには 十年近くを要した者もおり、多くはゴールに至るまでに退塾(卒業)している。
 そのため全課程を終了した卒業生には、すでに一個の独立した学者として通用するだけの学力が備わっていたので、諸藩藩校の教官に抜擢(ばってき)される者もかなりいた。 このような立身出世の可能性も、咸宜園に多数の入門者が集った要因の一つになっている。
 更には 塾生の個性の尊重にも力を入れた。 それは塾生を戒諭するために淡窓が戯作した 『 いろは歌 』 の中でも次のように歌われている。

 鋭きも鈍(にぶ)きも共に捨てがたし 
      錐(きり)と鎚(つち)とに使いわけなば


 淡窓は 病身のため、肥前大村藩と 豊後府内藩などの近隣の藩に招かれた以外は、ほとんど家郷にあったが、文人 ・墨客 ・名儒 ・名僧の来訪が絶えなかった。 頼山陽(らいさんよう) ・梁川星巖(やながわせいがん) ・帆足万里(ほあしばんり) ・原古処(はらこしょ) ・田能村竹田(たのむらちくでん) ・貫名海屋(ぬきなかいおく) ・末広雲華(すえひろうんげ) らとも交友があった。

 頼山陽は 文政元年(一八一八)、堀田村の秋風庵に隣接した場所に新築移転して間もない咸宜園を訪ね、「 広瀬廉卿(れんけい)を訪う 」 と題する七言律詩

 「咿唔(いご)の声する処 柴関(さいかん)を認む 村塾 新に開く 松竹の間・・・・・」 ( 『 山陽詩鈔 』巻之四・原漢文 )
        
を作り、その盛況ぶりを詠んでいる( 咿唔とは書を読む声 )。

 塾生の出身地は 全国六十八カ国のうち 隠岐、下野、甲斐、大隈 を除く六十四カ国( 北は現、青森県 )におよび、淡窓が私塾を開いて以来 約五十年の間には、門人の数も三千名以上( 咸宜園の全期間では五千人に近い )という盛況であった。
 そして、その門人からは、高野長英 ・大村益次郎 ・松田道之 ・平野五岳(ごがく) ・大隈言道(おおくまことみち) ・長三洲(ちょうさんしゅう) ・上野彦馬 ・広瀬旭荘(きょくそう) ・広瀬青邨(せいそん) ・帆足杏雨(ほあしきょうう) ・楠本端山(たんざん) ・楠本碩水(せきすい) 等の 優れた人物が輩出し、明治維新後も、政治家・実業家・医師・軍人・僧侶・神官など 社会の各方面で活躍した。

 九州の僻遠(へきえん)の地に 全国からこれほど多くの塾生が集ったのは、淡窓自身の人柄や学問に魅力を感じたというより、むしろその徹底した実力主義の教育システムに魅力を感じた為と言われる。 また 淡窓自身が特定の学派にこだわらず、しかも個性を塾運営に及ぼさないように心掛けたことも、入塾に対しての敷居を低くしたと言われている ( 『日本の私塾』 「咸宜園」 高野澄(きよし) 著 )。

          

          広瀬淡窓

 何故志士の輩出がなかったのか

 このように盛況であった咸宜園も、幕末の動乱期に志士の輩出が無かったとよく言われて来た。 そのあたりの事を 次回に少し考えてみよう。

                    つづく 次回

最新の画像もっと見る