日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー147  ( 土佐の南学ー20 ・ 梅田雲浜ー6 ・ペリー来航―上 ) 

2010-01-12 16:01:32 | 幕末維新
田中河内介・その146

外史氏曰

【出島物語ー58】

土佐の南学―20

尊攘運動時代

国難と うち続く家族の不幸

 梅田一家は、嘉永六年(一八五三)正月、一乗寺村から再び京都市内へ戻った。 やはり一乗寺は、門人のためにも、また天下の志士と交際するためにも不便であった。 それに信子の実父 上原立斎が、昨年の五月からの長患いで、その年の冬、大津から京都の木屋町へ、出養生(でようじょう) をしていたので、その看護も必要であった。 新しい住居は寺町四条下る大雲院中の原隆院(げんりゅういん) という空寺である。 便利な場所に移った雲浜の家には、集まる同志の数が増え、連日連夜、論じ合うまでになった。 一方、安政元年(一八五四)以後の二、三年間に、雲浜の身内には、相次いで不幸が続くことになるが、これらあらゆる苦難を乗り越えて、雲浜は尊攘運動に邁進して行く。 浪人の身となったことで、藩の束縛から逃れ、かえって自由に行動出来るようになった事も 影響しているのであろう。


ペリー来航―(上)

 嘉永六年六月三日午前八時頃、伊豆沖にペリー艦隊四隻が 突如現われて、浦賀に向って快走を続けた。 米国東インド艦隊司令長官海軍代将 ペリーの坐乗する二千五百トンの旗艦 サスケハナ号を初め、ミシシッピー号 ・プリマス号 ・サラトガ号である。 この内、サスケハナ号と ミシシッピー号は蒸気船、プリマス号と サラトガ号は帆船であった。 当時 小型帆船の一隻さえ有していなかった我国としては、正に驚くべき艦隊である。
 ペリーは 昨年十月、軍艦ミシシッピーに坐乗して、米国ノルフォーク鎮守府(ちんじゅふ) を出帆し、セントヘレナ ・ケープタウン ・セイロン ・シンガポール を経て 香港へ来て、他の三艦と合し、本年二月 琉球に行って那覇付近を測量し、次に小笠原に航し、再び 琉球に行き、その後 数日間で、上海から来た給炭船により燃料の補給を終え、五月二十六日(新暦七月二日)琉球を発し、サスケハナ号は サラトガ号を、またミシシッピー号は プリマス号を ロープで曳航しながら 最終目的地である日本へ来たのである。 本国を発してより二百二十六日目、異境(いきょう) の海を 縦横に活躍していたのである。


 現在のアメリカの対日交渉は、幕末のペリー提督の対日交渉に似ている。 その意味でも、ペリーの交渉を知る事は有益である。 そこで ペリー艦隊の来航時の状況を、ここで少しまとめて置きます。

ペリー来航の予告情報

 実は ペリーが日本に開国を迫って来航して来ることは、幕府は 一年も前に把握していた。 嘉永五年(一八五二)八月初めに、長崎のオランダ商館長 クルティウスが長崎奉行に、   「 明年アメリカ使節が来航し開国の要求をする 」   という内容の一通の文書を提出した。 これは ジャワのオランダ総督が 六月になって、長崎奉行に宛てた秘密書簡であって、長崎に入港したオランダ船が クルティウスの許にもたらしたのである。 長崎奉行の 牧志摩守義制 (まき しまのかみ よしまさ) は 自ら江戸に赴いて、この秘密書簡を老中に差し出した。
 これより以前の 弘化元年(一八四四)七月には、オランダ政府は わざわざ特使を 日本に派遣して、開国を訴える国王書簡を 幕府に差し出した。 このとき、幕府は  「 鎖国は不動の国法なり 」   として、その勧告を拒否している。 クルティウスの提案は そのときに次いで 二度目の開国勧告である。 幕府の老中は、このジャワ総督の提案を 真剣に検討すべきであった。 そしてその提案に乗るも 乗らざるも、ペリーが来たときに、どう対応するか、方針を決定し準備をして置くべきであった。 しかし、対応策を協議したり、対策を準備したり ということはなかった。 一年間、ほぼ無策のまま、時間を費していたのである。 
 このときの老中は、筆頭が 阿部正弘(あべまさひろ)、次席が 牧野忠雅 (まきのただまさ)、次は 久世広周 (くぜひろちか)、松平乗全(のりやす)、末席が 松平忠優(ただます) 忠固(ただかた) の五人である。 安部内閣は 混乱するのを恐れて、オランダ商館長からの通報書簡を 極秘にした。 阿部正弘は、この機密文書を 幕閣の一部の者 ( 江戸城の溜間席の諸侯 ) に 廻達しただけで、知らぬ振りをしていたのである。 浦賀奉行さえも知らされていなかったと言われる。 このように 安部正弘は 一見、ペリーの来航に関して、楽観視していたようにも見えるが、種々の国内状況からして、実際にペリーが現われるまで、思い切った海防措置が とれなかったというのが実情であろう。 
 しかし、阿部正弘は、少なくとも人事の面では 人材を抜擢して、ペリーが来る時に備えていた。 弘化四年三月に、浦賀に来る外国船の処置は 浦賀奉行に一任する という決定を下していた。 中央集権的な幕府にしては、珍しく適切な決定である。そして 弘化四年七月には、浦賀奉行は 長崎奉行の次席となり、幕府の目付経験者が就任し、幕政に参画するようになった。
 安部正弘は 筆頭老中に就任すると、軍事外交を担当する   「 海防掛老中 」  というポストを設け、自分と 牧野忠雅が このポストに就任した。 そして  「 海防掛老中 」   を 補佐するスタッフを集めた。 彼等は   「 海防掛 」   と呼ばれ、メンバーは 八人前後である。 正弘は 当時では 選りすぐりの開国派の人材を ここに集めた。 実権を握ってから、安部正弘は 勘定奉行所に 禄高や 門閥や 年功序列に とらわれない人材優先の人事を行い、能吏を抜擢した。 その結果、経済や財政に明るい 勘定奉行と勘定吟味役が   「 ハト派 」  となったのである。 言ってみれば、正弘が時間をかけて布石を打ってきた人事が、かろうじて間に合い、武力衝突を 回避させたということになる。


ペリー 日本来航の目的

 『   アメリカの日本開国の動機については、これまで いろいろな解釈が行われてきたが、主目的は 太平洋航路の開設であったようである。 それは、アヘン戦争の結果、中国の開港地が増加したので、中国貿易の急速な拡大を期待した事と、太平洋岸の領土化を背景とした 熱狂的な膨張主義の雰囲気の中で生まれた。

 一八四六年、アメリカは 太平洋岸と密接な関わりを持つようになった。 オレゴンに関するイギリスとの紛争に決着がつく一方、テキサスの併合問題をめぐって メキシコとの戦争が発生し、その勝利の結果、嘉永元年(一八四八)に至って カルフォルニアを領土に編入し、アメリカは 太平洋に長大な海岸を持つ国家となったのである。  この急速な領土拡大は、 膨張は 「 明白な神意 」 であるとする信念に支えられ、カリブ海、南米、そして太平洋岸での商業活動への期待を高め、活発にした。 メキシコ戦争の最中(一八四七)、議会は 政府の補助によって三つの郵船路を開設し、そのために蒸気船を四隻建造することを決定した。 これは、もと、大西洋航路におけるイギリスとの対抗関係の中で計画されたものであったが、この計画は 西部・太平洋岸 への領土拡大と重なり、新領土を統合する手段ともなった。 そして 一八四八年九月には、カルフォルニアで金鉱が発見されたというニュースが東部に到着した。
 このように、蒸気郵船路の開設、カルフォルニア併合、そして カルフォルニアでの金鉱発見によるゴールドラッシュ といった一連の事件は、西方への膨張運動を 太平洋岸を越えて一気に中国まで駆り立てた。 日本は、この中国への道の経過地、特に石炭の補給地として アメリカ人の視界に登場するのである。 ペリーが日本に来るのも、この一連の運動との関わりからであった。  』   ( 『 ペリー来航 』  三谷 博 著 より )


六月三日

 嘉永六年 癸丑(きちゆう) (一八五三)六月三日 ( 新暦七月八日 ) の午後、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊の 四隻の軍艦が、浦賀沖に姿を見せた。 幕府になんの断りも無く、いきなり江戸湾に入り込み、江戸の鼻先の 浦賀に姿を現した。 といっても、浦賀に外国船が入って来たのは、これが初めてではない。 弘化三年 閏五月二十七日に アメリカの東インド艦隊に所属する ジェームス・ビッドル提督 が軍艦二隻を率いて浦賀に現れ、通商を求めたという前例がある。 また、嘉永二年 閏四月にも、イギリス船一隻が 浦賀に来て、浦賀奉行に 面会を求めた事がある。 この二度とも、浦賀奉行が説得をすると、おとなしく 浦賀を立ち去って行った。 しかし、今回はこれまでとは様相が異なっていた。 ペリーは、 「 今回、我々は何があっても決して 引き下がらない、武力をもってしても、必ず 日本を開国させてみせる。 」  という不退転の決意を持って 日本に乗り込んできたのだ。 事前に 日本に関する種々の資料を詳しく調査・勉強し、日本との外交交渉には、力による脅しが 最も効果的である との結論を得ていた。 そのため ペリーが幕府を相手にやろうとしたのが、軍事力で威嚇しながら、外交的な要求を認めさせる、いわゆる  「 砲艦外交 」 である。
 ペリーは 国家対国家の対等の交渉を行おうとしていた。 また 所謂 日本のぶらかし外交 ( 逃げ口上や小細工や引き延ばし ) は一切認めない。 また 日本が見下すような態度や 侮辱的な態度をとれば、武力行使も辞さないことなどを決めていた。 つまり日本に 開国を受け入れさせるには 「 圧力 」 を加えるしかないと 判断したわけで、アメリカ政府の対日外交のモデル・ケースである。
 ペリーがアジアに赴任するときに、フィルモア大統領は、日本の 「 皇帝 」 に対する親書を預けて、漂着した遭難船に対して 薪水や食料 を補給させる。 自由貿易を開かせる。 石炭の補給地を確保する。 という 三条件の協定 ないしは 条約を 日本と結ぶように訓示した。
 ペリーの派遣は、アメリカ政府が幕府に対して、開国の最後通告をしたようなもので、幕府が拒否すれば戦争である。 だから、幕府も国民も驚愕した。 黒船はすでに今まで見慣れているので 別に驚くことではない。 しかし、四隻の軍艦が 戦闘態勢を整えて、浦賀沖に投錨したので、びっくりしたのである。


『 アメリカ艦隊日本遠征記 』

 ペリー来航時の状況の推移を、主として ペリーの  『 アメリカ艦隊日本遠征記 』  を参考にして辿って見よう。 
     (  この項、 『 ペリー艦隊大航海記 』 大江志乃夫 著、  及び  『 ペリーの対日交渉記 』 藤田 忠 編 による  )

      『  六月二日 ( 新暦七月七日 ) の日没時には 伊豆半島から四十マイルの地点に達したので、夜中は
      船首を沖に向け仮伯した。 翌六月三日午前四時に反転した。・・・風があったにもかかわらず 汽船は
      帆を全部巻き下ろして、八ないし九ノットの速度で進んだ。・・・・我々の船が湾に近づいた時には 提督
      から信号が発せられて、活動準備のために 各甲板はただちに片付けられ、大砲は 所定の位置にすえ
      られて 装弾され 弾丸も配備された。 小銃も用意されて、哨兵及び各員は それぞれ自分たちの部署に
      ついた。 要するに いつでも敵と対戦する前になされる一切の準備がおこなわれたのである。 
      正午ごろ相模崎を通過した。・・・・ 』

 こうして、四隻の黒船は 午後五時に観音崎の南西一・五マイルの浦賀の鴨居沖に投錨した。 ペリーはついに目的の日本に到達した。 しかし、それはペリーが開拓を目指した西回りの道を通ってではなく、西回りの道を可能にする交渉を行う為、東回りのより遠い航路を経てであった。

      『  また ペリーは 旗艦サスケハナ号以外には、日本側の交渉者の乗船を 認めないように との通達を
      全艦に発した。 また、来船する者の乗船人数に 制限を設けないという当時の軍艦の慣習に反して、
      日本人の乗船を 三人に限る事をも 同時に通達した。 そして、乗船を許すのは 高位の官吏のみに
      限るが、ペリー当人は 容易に乗船者には会わないものとした。  』

 この時の浦賀奉行所の構成は、奉行が 井戸弘道と 戸田氏栄(うじよし)の 二人であり、その下に 「 与力 」 として、香山栄左衛門 (かやまえいざえもん)、近藤良次 (こんどうよしつぐ)、佐々倉桐太郎 (ささくらきりたろう)、中島三郎助 (なかじまさぶろうすけ) の四人がいた。 通詞は 幕府の通詞では第一人者と言われる 立石得十郎 (たていしとくじゅうろう) である。 この時は、井戸弘道は 非番のために 江戸におり、戸田氏栄が 浦賀にいた。

      『  ほどなくして、浦賀の副奉行 中島三郎助が オランダ語の通訳を伴って乗船を求め、艦隊側は来航
      の目的、および 奉行と交渉したい旨を説明した。 番船と 舷側での押し問答の結果、二人はようやく
      サスケハナ号の甲板に上がった。 副官が引見したが、その際、故意に彼を待たせて礼遇した。 副官
      が交渉代理人として 副奉行と交渉した。 提督は長官室に閉じこもって会わなかった。
       艦隊側は、合衆国大統領からの親書を携えている事、手渡す日時を定めるために、その写しを受け
      取る しかるべき役職者を サスケハナ号に派遣して欲しい旨伝えた。 日本側の返答は、渉外事項の
      管轄地が 長崎であるために、艦隊は長崎に回航する必要がある との事であった。 これに対して艦隊
      側は、断じて回航の意志のない事、親書を速やかに手渡したい希望と、艦隊の周囲に群がっている
      日本の防備船隊の退去、もし、退去しない場合は 武力に訴えるという事を表明した。 副奉行は 直ちに
      周辺の防備船隊を 退去させたが、これはこの交渉における、合衆国側の 「 獲得した最初の得点 」 と
      なるものであった。 艦隊側の強硬姿勢に畏怖しての事か、交渉の間を通じて、日本側からの表立った
      干渉やいやがらせは 一切行われなかった。 この事は、二世紀以上にわたる日本の対外交渉で例の
      ない事であった。 ただし 艦隊側は、始終警戒体制を解く事はなかった。  』

 トラブルも起こさず、交渉の糸口をつけたという点で、中島等の交渉は まず評価されよう。 奉行の戸田氏栄は 戻ってきた中島から、状況を詳しく聞き、幕府に第二報を送った。


六月四日

 六月四日七時頃、戸田は中島に代えて、今度は 筆頭与力である 香山栄左衛門を サスケハナ号に送った。 彼は 浦賀の応接官長 ( 知事と訳された ) と称し、以後、アメリカ側との交渉の一切を担当した。

      『  六月四日 ( 新暦七月九日 ) の朝には、浦賀奉行と称する 香山栄左衛門が 部下を率いて、二隻
      の船に分乗して来船し、ペリーとの面会を求めた。 ペリーは 彼を乗船させ、自身では会わずに、中島
      より上役 との触れ込みなので、今度は ビュカナン・アダムス両艦長 および コンティー の三名の副官
      に対応させた。  』

 香山は 再三にわたり 浦賀は異国応接の地でないと述べ、日本の国法に従い 長崎に回航するよう繰り返したが、アメリカ側は 江戸にまで進み、力ずくでも 親書を将軍に押し付けるぞ、と威嚇した。 今でも続いている日米の外交摩擦の第一ラウンドが始まったのである。 この一言は 外交交渉の場所として 長崎を固執しようとする幕府側の意図を 打ち砕いた。
 アメリカ側の脅しに屈した香山は、 「 それでは 浦賀に戻り、いっそうの指示を仰ぐ為に 幕府に報告をしてみる。 返事を受け取るまでに、四日間の猶予を願いたい 」 と言う。 アメリカ側は、 「 三日間だけ待とう。 確実に、明白な回答を期待する。 」 と、最後通告に等しい言葉を吐き、四日を三日に削ったのである。

      『  会見の間に、ペリーは 浦賀湾と 港の測量を行わせた。 奉行は、これは 日本の法律に反するとして
      抗議したが、ペリーは 艦隊が合衆国法に従う義務を有しており、それを実行するにあたっては日本法を
      顧慮しない、これは貴下が日本の法律を遵守するのと同様であると回答した。 こうして合衆国法の存在
      と威信を印象付けた事は、この交渉において達成された第二の点であった。 』

 しかし、浦賀湾内は 日本の領海である。 アメリカ側の回答は、日本の領海にも 米国の法律を適用させるという論理になる。 このことは、必ずしも日本に 文明諸国間の関係を適用させようとしたのではなく、日本に対して不平等な国際関係を 強いようとする意図を含んでいることになる。 なを、このとき日本側の記録では、アメリカ側は、 「 開戦の後に、もし急用のことあらば、白旗を立てて来たれ。 しかるときには 発砲を中止せん 」 と言って、白旗二旒(りゅう) をくれた。 ペリーの日記に、この白旗のことが書いてないのは、露骨な恫喝のことを 隠しておきたかったからであろう。
 浦賀奉行戸田は、戻ってきた香山から話を聞き、もはや自分の権限ではどうにもならないと判断して、幕府の処置を仰ぐために、香山を幕府に遣わした。 香山が 早船で江戸の井戸の屋敷に着いたのは夕刻であった。

六月五日

       『  翌六月五日 ( 新暦七月十日 ) は 日曜日だったので、艦隊は敬虔に一日を過ごし、日本側高官たち
      が乗船と 会見を求めても許可しなかった。  』

六月六日

      『   六月六日 ( 新暦七月十一日 ) になると、日本側に圧力を加えるために、ペリーは艦隊のうち ミシ
      シッピー号と 測量船とを 江戸湾に派遣し、同時に湾内の停泊地を探らせた。 その意図は 強力な艦隊
      が 江戸に近づく勢いを見せる事にあった。 そのため、浦賀奉行が再び来船して、艦隊の意図を確認した。
      ペリーは日本到達以前から、日本側との交渉での最善の方策は、断固たる態度を貫く事であると決意し
      ていた。 ペリーは 日本側に対して蔑視的ではなかったものの、いささかも下手に出るような意志は持た
      ず、絶えず矜持に溢れ、この交渉は一種の啓蒙であるとの意見を持っていた。 
      ペリーは 日本人は 形式張って礼儀を好むものと理解していたため。 艦隊側も 同様に 儀礼張った態度
      を崩さず、尊敬をかち得るためには、排他的で頑強な姿勢でいるのがよいと信じた。 意図的に傲岸 (ご
      うがん)な態度をとるのは、日本側の外国に対する驕慢 (きょうまん) と無礼とを矯正するための手段であ
      った。 このように、合衆国の威信を誇示し 尊敬を要求する事は、「 父権主義的な 教育的配慮 」 の側面
      を持つものであった。 また、最後の手段としては 武力行使をも考慮に入れていた。 ペリーの妥協のな
      い交渉姿勢は、彼の性格に由来するものではない。 いずれにせよ、交渉初期段階において、この方法
      は目論見通りに成功を収めた。
      なお 明日 六月七日 ( 新暦七月十二日 )は、提督の要求した回答のある日である。 全乗組員は不安
      と 期待を持って待望した。  』

                         つづく 次回



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