日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー54 ( イギリスの東洋侵略(下)  ・天保の改革、 薩摩藩の改革 )

2008-07-16 12:08:22 | 幕末維新
すごい先生たち-54

田中河内介・その53 (寺田屋事件ー42)


外史氏曰

【薩英戦争ー3】

イギリスの東洋侵略(下)


【 アヘン戦争と天保の改革 】

○天保十一年( 一八四〇 )
 イギリスが清朝に戦争を仕掛け、アヘン戦争が勃発する。

○天保十二年( 一八四一 )
 アヘン戦争に驚いた幕府は、水野忠邦を老中首座として、内憂のみならず外患対策のため、 「 天保の改革 」 に取り掛かった。

 江戸国家はその時々で多くの改革がなされてきた。 中でも将軍吉宗による享保の改革、松平定信による寛政の改革、水野忠邦による天保の改革は江戸の三大改革と呼ばれている。

 江戸国家も 衰退期がさらに進んで混乱期に入ると幕政の抜本的な改革が急がれる。  しかし、大御所としての家斉( 文化文政時代の繁栄を謳歌した ) 存命中は手を付けることが出来なかったが、天保十二年閏正月に家斉(いえなり) が死ぬと、さっそく五月に改革の断行が宣言された。 天保の改革である。

 この天保の改革の目指すところは、内憂外患の深刻化による本格的な危機に対応することである。  なかでも今までの幕政改革と大きく異なる点は、対外的な危機への対応策が大きな比重をしめていることである。
 アヘン戦争で清国が敗れ、次は日本にイギリスが侵攻してくるのではないかという、切迫した危機感から、水野忠邦は改革を急がねばならなかった。

 しかし、すでに混乱期に陥った体制の改革は容易ではない、まさに この改革は、幕府存続にとってのラストチャンスで、江戸国家の存亡を賭けた大事な改革である。


○天保十三年( 一八四二 )
「 アヘン戦争 」 の結果、イギリスと清朝の間に 「 南京条約 」 が締結され、清国は上海・寧波(ニンポー)・厦門・福州・広東の五港を開き、香港などがイギリスに割譲された。

天保薪水給与令
 幕府は清国の次には日本が狙われるのでないかという不安から、 「 外国船打ち払い令 」 の存在が そのきっかけとなることを恐れ、 「 外国船打ち払い令 」 を改め、新たに薪水・食料の給与を許可した 「 薪水給与令 」 を出した。
 要するに 幕府は西欧列強から攻められる危険性を感じ 「 外国船打払い令 」 を取りやめ、 「 天保薪水給与令 」 に転換したのである。 発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。
 交付は一八四二年、アヘン戦争に清朝が敗北し、南京条約が結ばれる一日前である。  幕府が積極的に海外情報を収集、それらを分析し、政策へ反映させた結果である。
 清国で発生したアヘン戦争および、それにつづく南京条約は、 一方では、日本人を震撼させ、国内での攘夷論を益々増大させることとなった。


○天保十四年( 一八四三 )
 幕府の天保の改革は失敗し、水野忠邦は罷免され、安部正弘が老中首座となる。

【 水野忠邦は、嘉永四年(一八五一)二月十日、五十八歳で病死した。 そして、下総山川( 栃木県結城市山川 ) にある菩提寺万松寺の祖先のねむる墓地に葬られた。  その寺はかって忠邦が寺領を寄進し伽藍も造営した寺であったが、今は廃寺となり、一族の墓地だけがひっそりと野の中に残り、さみしく往時を語っているのみである。 】


      水野忠邦



      水野忠邦の墓



天保の改革・失敗の原因とその影響

 天保の改革が取り組んだ内憂・外患は 幕藩体制そのものの根幹に直接にかかわるものであるため、改革に成功するか不成功に終わるかは、幕藩体制の維持そのものに深く関係し、以後の政局に大きく影響を及ぼすものである。

 改革が失敗した最大の原因は、改革に反対する保守派の抵抗であるが、幕府がこの天保の改革に失敗した事は、幕府衰亡を方向付けることになった。
 幕府が天保の改革に失敗し、西南雄藩がこの時期の藩政改革に成功した事が、以後の幕末の情勢を支配する大きな要因ともなった。


○嘉永四年( 一八五一 )
 中浜万次郎らアメリカ船に送られ琉球に上陸した。

 このような内憂外患迫る時代背景のなかで、薩摩藩では島津斉彬(なりあきら) が四十三歳で 第二十八代藩主となった。


○嘉永六年( 一八五三 )
 ペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊の四隻の軍艦が、浦賀沖に姿を見せたのは 嘉永六年癸丑(きちゆう) 六月三日の午後のことである。 この事により 世の中は騒然となった。  幕府はペリー来航への対応として、九月十五日、大船建造の禁令を解き、十一月には中浜万次郎を登用。 十二月には鹿児島藩に大船十二隻・汽船三隻の建造を許した。

 十二月、長州藩では周布政之助を登用する。 以後、長州藩の安政の改革が進められることになる。



【 島津斉彬の改革と薩摩藩 】

 薩摩には 歴代 暗君なしと言われている。 なかでも、第二十八代藩主 斉彬は名君中の名君と評され、その見識・決断力・行動力は 幕末期待の有志大名のリーダーと目されていた。

 斉彬はその短い藩主在任期間に、幕末の薩摩藩の方向を決定する大改革を実施し成功させた。  薩摩藩に於ては斉彬先導による上からの改革がなされたのである。
 外患への対処として、軍制改革と殖産興業に力が入れられ、西洋式兵学・砲術などが取り入れられた。 そして、特に教育政策の徹底により、人材の育成に最大の力が注がれたのである。

教育改革
 第二十五代重豪(しげひで) は藩主として三十二年、子斉宣、孫斉興(なりおき)の時代には、後見人として政治を助け、六十年余りの間藩政を思うままに動かした。  オランダかぶれの 蘭僻大名、日本一のハイカラ殿様ともいわれ、古い伝統の薩摩の国に新風を巻き起こした。 この重豪の開明政策が影響して、財政は悪化、士風は一変して 鹿児島は華美遊蕩の巷と化し、それまでの無骨な薩摩士風を一変させてしまった。

 この重豪(しげひで) の開明政策により、退廃していた薩摩の士風を一変させたのは斉昭らの文教政策であった。  薩摩藩の士風の伝統を回復させ、さらにそれを光彩を放つまでに磨きをかけて大成させたのは 斉彬の至誠であった。

 斉彬は藩校 「 造士舘 」 に新しい息吹を吹き込んだ。 それは実利・実学を尊重し、人材を養成する方向への脱皮である。 その最大の特徴は、鋭敏な時代を見る目から生まれたその時代への即応性であり、また、あくまでも、殖産興業、富国強兵に直結していたところである。
 斉彬の治世は七年半であったが、その教育政策の徹底により、藩校 造士舘は幕末維新にその面目をもっとも発揮し、薩摩藩の幕末維新での地位を決定的なものにした。

 斉彬は時代の傑物であり 大いなる見識を有していた。 中央から離れた辺境の地程、中央の文化に対する憧れが強いものであるが、第二十五代藩主重豪(しげひで) の場合とは異なり、斉彬は中央に背を向けて、西方はるかの広い世界に常に関心を向けていた。

それは列強の軍艦の接近に晒される機会の多い薩摩藩の地理的位置と、属領の琉球を抱えて、外患の情報が入り易い情況とも 関係があるためでもあろうが、斉彬としては常にこれに関心を払い情報を集め、かつ、よく研究し、それに対する対策を練っていた。

 薩摩藩は斉彬により、いわば上から動態化して雄藩へと変貌を始めた。

 安政五年、大老となった井伊直弼による無勅許日米修好通商条約の調印、将軍継嗣の決定などによる幕政の大混乱に対して、内乱の勃発を常に憂慮していた斉彬は、卒兵上洛による幕政改革を決意、西郷を先発上洛させた。

 しかし、卒兵上洛のための軍事調練の最中、七月九日から発熱下痢、そして安政五年七月十六日朝六時前、急死した。 五十歳であった。
 あたかもこの斉彬の死を待っていたかのように、大老井伊直弼による 「 安政の大獄 」 が始まり、時代は激動期へと入る。

 薩摩藩では、斉彬亡き後、次の藩主忠義のとき その父 久光により、斉彬の藩政改革は頓挫、そして後退を余儀なくされた。  また、安政の大獄後、藩内には尊攘激派が抬頭し始めたが、これも久光により粛清されてしまった。

 このような藩の上層部の対応に不満をもった志士たちは脱藩計画を練った。 この精忠組の脱藩計画を、藩主とその父 久光は亡き斉彬の威光を持ち出すことにより止めさせた。
 ここにおいて薩摩藩は下からの動態化の契機をつかんだ。
 そして斉彬の意志は 薩摩藩の動向の根底を貫き、その教え子たちは 幕末維新に大いなる活躍をした。


島津斉彬(キヨソネ画、尚古集成館蔵)

                   つづく 次回

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