日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー143  ( 土佐の南学ー16 ・ 梅田雲浜ー2  ・「 望楠軒 」 講主 )

2009-11-15 00:07:03 | 幕末維新
田中河内介・その142

外史氏曰

【出島物語ー54】

 土佐の南学―16

儒者時代

西国遊歴と上原立斎

 雲浜は、十年間の江戸遊学を終えて、天保十一年( 一八四〇 )、二十六歳のとき、郷里小浜に帰った。 これにて雲浜の修学時代は 終了する。
 雲浜は、天下のために 大いに活躍したいという志を懐いていた。 この志を達成するためには、矢部の次男たる身では、家長に束縛されるし、それに当時 度々発生していた養子話など、とかく煩わしいことも多いので、雲浜は、生家の矢部姓を改め、祖父の実家の 梅田姓 を名乗ることにした。 ( 帰国前には 既に、姓を変えていたと考えられる )。
 雲浜は 江戸から帰国後は、しばらく 父母の膝下 (しっか) にいた。 翌年の天保十二年、二十七歳の時、父の岩十郎が 藩命で西国( 熊本 ) に行く事になった。 しかし、父は既に 六十四五の老齢であったので、雲浜は 旅中を気遣って、自ら藩庁に頼んで 父に随伴し、関西 及び九州諸国を遊歴し、各藩の人情風俗を視察して帰った。 この遊歴において 雲浜は 熊本藩に滞在中に、多くの知己を得ている。 家老の 長岡監物(けんもつ) ・その家来の 笠隼太 (りゅうはやた)( 号 夕山 (せきざん) ) ・その子 左一右衛門 ・儒官 名和桂(けい)之助( 号 桂斎 (けいさい) ) ・横井平四郎( 号 小楠 (しょうなん) ) 等である。 彼らと会して、大いに意気投合し、その後 共に国事の為に 尽瘁 (じんすい) したのである。

 九州から帰ると、また京都へ出て、 以前世話になった山田仁兵衛(にへえ) の家に寄寓した。 当時 大津に上原(うえはら)甚太郎立斎(りっさい) という学者がいた。 近江 高島郡 北畑の生れで、同じ山崎学派の人、資性(しせい)温厚で 篤実 (とくじつ)、学問も深く、近国にその名を知られ、門弟も諸国より集り 盛大であった。 雲浜も予てから その名を聞いていた。 飽く迄も好学心の旺盛な雲浜は、大津に行って 立斎に面会して 鄭重 (ていちょう) に入門を乞うた。
 立斎が 雲浜を見るに、凛然 (りんぜん) として 侵すべからざる威容が 自(おの) ずから備わり、その態度と言葉から、余程の人物であると見た。 そこで立斎は 丁寧に扱って、世間話から、追々学問の話に進むと、雲浜の造詣 (ぞうけい) の深いこと測り知れない。 立斎は驚き 且つ敬服して、
    『 いや 恐れ入りました。 貴殿の学業は 既にすっかり成就して居ります。 拙者が お教え申す所は
     何もありません。 どうか今後は 友人として御交際を願いたいものです。』
 と言った。 立斎は 雲浜より二十一歳上の 四十八歳であるが、一見旧知の如く、忽 (たちま) ち 心で結ぶ友人となり、そして雲浜は 望まれるままに、塾監 (じゅくかん) となって 上原家に足を止めることになった。

 立斎には一男二女がある。 男子は 甚八郎、長女は 信子 (しんこ)、次女は 静子といった。 信子は まだ十五歳である。 しかし 生れついての麗質、父母の薫陶 (くんとう) で 心ばえ いとも優雅に、諸礼儀 ・和歌 ・華道 ・琴 ・薙刀 (なぎなた) など、女子諸芸の修業中であったが、既にみな 相当熟達の域に達していた。 信子が その当時から愛用した薙刀は、藤原行長の在銘で、今もなお奈良の高橋家に保存されている。 ( 「 梅田雲浜遺稿竝傳 」 佐伯仲蔵 編 昭和四年 )。 彼女は後に 雲浜夫人となる。 彼女は 貧窮の中にも、よく夫を支えた事で、日本婦人の亀鑑として、名婦伝には 必ずその名が出てくる女性である。 話は 大分 後のことになるが、雲浜 四十歳の 安政元年九月十八日、プチャーチンを乗せたロシア軍艦が、突如 大坂湾に入って来た。 露艦 大坂湾闖入 をみて、雲浜は 京都守護の目的で 自ら指導訓練していた十津川郷士と共に、露艦撃攘に赴こうとする。 ところが当時、雲浜の家庭は 貧苦に喘 (あえ) いでいた。 妻 信子は 結核で病床にあり、二人の子供は 食事も満足に出来ない有様であった。 それでも振り切って出陣する雲浜は、その胸中を 次の二篇の詩に託した。 

      妻臥病牀児叫飢   妻は病床に臥(ふ) し 兒は飢えに叫ぶ
      挺身直欲當戎夷   身を挺(てい) して直ちに戎夷(じゅうい) に当らんと欲す
      今朝死別與生別   今朝死別と生別と
      唯有皇天后土知   唯(ただ) 皇天后土(こうてんこうど) の知る有り

      大廈欲支奈力微   大廈(たいか) 支えんと欲するも 力(ちから) 微(び) なるを いかんせん
      此間可説小是非   この間(かん) 説く可(べ) けんや 小是非(しょうぜひ)
      賤臣効国区々意   賤臣(せんしん) 国に効(いた) す 区々(くゝ) の意(い)
      憤激臨行帝闈拝   憤激(ふんげき) 行に臨(のぞ) みて 帝闈(ていい) を拝(はい) す

 これを示された信子は 雲浜を励まし、送り出したと伝えられる。 その信子は、翌 安政二年三月二日朝、二十九歳でこの世を去り、そのあとには 十歳の長女 竹と 四歳の長男 繁太郎が残されることになる。 志士の中で 最も貧苦であった雲浜は、信子の並々ならぬ生前の苦労を思って、それ以後 信子の位牌を常に携帯していた。
 
          
          雲浜先生の妻 信子の薙刀 ( 銘 藤原行長 )  高橋家所蔵
          ( 「 梅田雲浜遺稿竝傳 」 佐伯仲蔵 編 昭和四年 より )


湖南塾を開く

 雲浜は、いつまでも 上原塾に止まっていても仕方が無いので、京都へ去ろうとしたが、立斎は どうしても放したくないという風で、大津に塾を開いて永く留まるようにと勧めた。 そこで雲浜は 近江の坂本で 一軒の家を借り受け、二十七歳にして 初めて塾を開き、子弟を教授することになった。 この塾の名を 「 湖南塾 」 という。 その家というのは、小浜藩の蔵元で、鍵屋(かぎや)中村五兵衛 の分家、利助の別宅であった。 その後、塾は 坂本町より 大門町に移っている。
 塾は開いたが、広告などは一切しない。 生活の為に 学問を売るというのではなく、国家有為(ゆうい) の人物を養成するという 崇高な目的であるから、濫 (みだ) りに 入門を許さない。 軽薄な者は いかに金を積んでも 断じて門弟とはしない。 見込がある人物ならば、月謝など一文も出さずとも 熱心に教授するのであった。 そして門弟を教育することは、非常に厳格で、苟も 怠惰の風が見えたり、礼儀を欠くようなことがあると 断じて許さない。 一旦入門しても 怠け者は 窮屈なために 止める者もあった。 それに まだ、名を知られていない故もあろうが、塾は繁昌したとはいえない。 その為、雲浜の貧乏生活は 相変わらず続いた。 然し 貧乏には慣れているので 平気であった。 寧ろ 清貧 (せいひん) を 潔 (いさぎよ) しとしていたのである。 年はまだ若いが、富豪や、上士との交際も多く、その中には 雲浜の人物を好み、或は敬服している人もいるので、望めば 衣食の料には 少しも困らないのであるが、利欲の為には 絶対に 頭を下げれない性質で、理由の無い金品は 我が心を汚辱するものとして斥けた。 然し 客が来れば、必ず酒肴を出して款待するのを例とし、また困っている書生があれば、なけなしの小遣銭を、惜しげもなく与えてしまった。 ( 「勤王偉人 梅田雲浜 」 梅田 薫 著 昭和十七年 より )
 雲浜の湖南塾時代は、二十七歳より二十九歳までの ほぼ二年間程であったが、この間、漸く天下知名の士と交わる端緒をつくり、後の政治活動への準備期をなしたとみることが出来る。
 なお、湖南塾の址 ( 大津市中保町 ) には、大正十三年四月 ( 没後六十六年 ) に 内田周平書の 「 梅田雲浜先生湖南塾址 」 の碑が建てられた。 その後、この碑は、昭和二年十月に 下大門町に移されている。

          
          「 梅田雲浜先生湖南塾址 」 の碑 ( 中保町に在った時の写真 ) 
         ( 「 梅田雲浜遺稿竝傳 」 佐伯仲蔵 編 昭和四年 より )

 開塾した天保十二年の六月三日、矢部家の当主、兄の矢部孫太郎義宣が、江戸勤番中に 三十三歳で病死した。 雲浜はその報に接するや、悲しみに堪えず、直ちに江戸に赴き、兄の葬られた 深川宣雲寺 に詣り、厚くその霊を弔い、また後々の事ども残る方なく取計った。 兄には幼女があったが、男子がないので、弟の 三五郎義章(よしあきら) が 矢部家を相続することになった。 この時、兄の残していった幼女が、後に 雲浜が引き取り、養育することになる 登美子である。
 一方、世の中の動きに目を向けると、天保十二年( 一八四一 ) に、大御所 徳川家斉が 亡くなっている。 そしてこの事を待っていたかの如く、老中 水野忠邦(ただくに) による幕政改革、いわゆる 天保の改革 が始まった。 しかし、時は既に手遅れの感があるのみならず、保守派などの抵抗により、やがて 水野忠邦 は免ぜられ、この幕政改革は失敗することになる。 そしてこの改革の失敗は、幕府の衰亡を方向付けることにもなるのである。


望楠軒講主となる

 足かけ三年を大津に過した雲浜は、二十九歳の同十四年九月、「 湖南塾 」 を閉じて、京都に移り 「 望楠軒 」 の講主、即ち校長の地位についた。 この時より雲浜の名は、俄然 世に顕われて来ることになる。 以後 雲浜は、安政五年( 一八五八 ) に 安政の大獄 で逮捕されるまで 京都に居を置いた。
 望楠軒 (ぼうなんけん) は、崎門学の本山として、百数十年来続いて、最も権威があったもので、しかも 雲浜も少年時代に 学んだ塾でもある。 しかし、当時は漸次衰微して、昔の面影は殆ど失われていた。 そこで、当時、西依墨山 (にしよりぼくざん) の孫 孝博 (こうはく) が教授に当っていたが、この際 是非とも、傑出した学者を講主に迎えて、頽勢(たいせい) を挽回しなければと、関係者が種々相談した結果、同学派の正統を継ぐ学者として、梅田雲浜 を最適任者と認め、この権威と由緒がある望楠軒の講主として選ばれることになった。


 【 望楠軒 】
 山崎闇斎の門流は、三宅観蘭(かんらん)、栗山潜鋒 (くりやませんぽう) など、その一部は、水戸に仕えて 大日本史の編修に協力し、後の水戸学の形成に 大きな影響を与えた。 また その主流は、京都 もしくは 其の附近に在って、幕府に仕えず、諸侯に仕えず、困苦して学を講じ、以て王政復古の機会を待った。 闇斎の門人 浅見絅斎 (あさみけいさい)、その門下の 若林強斎 (わかばやしきょうさい) などである。
 『 靖献遺言 』  の著者としても著名な 浅見絅斎が、正徳元年( 一七一一 )十二月朔日、六十歳で没すると、絅斎の後継者として、人々の期待は、自ずからその門人の 若林強斎 に集まった。 強斎も 御所の前、二条堺町に塾舎を再興したので、一旦離散した絅斎の門下は、あらためて強斎の教えを受けるため、そのもとに集まった。 このようにして 絅斎の学問は 強斎によって正しく継承されることになる。 その強斎が、書斎を 「 望楠軒 (ぼうなんけん) 」 と名付けたのは、楠 正成 を理想とし、その意志を継ごうとする精神を端的に表したからで、強斎は 門下に大義名分と、楠公の誠忠を説き、大いに 尊皇の精神を鼓吹 (こすい) した。  強斎は 諸侯に仕えず、只管 (ひたすら) 師の絅斎の志と学とを伝えることを以て 己の任とした。 しかも貧寠 前に迫れども顧みず、饑寒 後に襲えども動かなかった。 それ故に 全国から 敬慕従遊する者は、漸次多くなって 隆盛を極め、後には 伊藤仁斎 の 古義塾と 殆んど相対峙するまでになった。

 【 若林強斎 】 ( 一六七九~一七三二  )
 『  延宝七年七月八日、京都に生れる。 家は もと 武田信玄の家臣。 名を進居 (ゆきやす) あるいは 新七 と称し、号を 強斎 (きょうさい)、または 寛斎 という。 父 正印は 京都で鍼医を営んでいたが、強斎 二十歳のころ失明し、その後、長く貧困の真っ只中にありながら 勉学に励んだ。 元禄十五年( 一七〇二 ) 二十四歳ころ、浅見絅斎 に師事し、その高足となった。 宝永六年( 一七〇九 )三十一歳のころ、父の疾を契機に 京都から大津に移り、三井寺の支院 微妙寺 の空坊に居を移した。 正徳元年( 一七一一 ) 師の絅斎の没後、その学統を継ぎ、その門下から 山口春水 ・沢田一斎 ・西依成斎 ・小野鶴山 ・松岡雄淵 などの俊才を輩出し、崎門学派の継承に 大きな功績を残した。 享保十一年( 一七三二 )正月二十日没。 』 ( 「 国史大辞典 」  吉川弘文館 参考 )

              
              若林強斎肖像 西依家所傳
             ( 『 若林強斎の研究 』 近藤啓吾 著 より ) 

 享保十七年( 一七三二 )五月、強斎の没後、望楠軒は、その門人にして女婿の 小野鶴山が、その後を受けて 講主となったが、寛保三年、鶴山が小浜藩に聘せられたので、同門の 西依成齋 (にしよりせいさい) がこれに代った。 そしてその後、成齋は 養子の墨山を講主とした。 然るに、墨山も又 小浜藩に聘せられたので、成齋が 再び教授することとなった。 望楠軒の講主は、代々強斎の継承者たるにふさわしい気概に富んだ人々であったが、成齋の如きは、時に年 殆んど七十。 しかも 気力強健にして、夏も袴 (はかま) を解かず、冬も炉を近づけず、峻厳 (しゅんげん) な教育を子弟に施したが、その反面 子弟にに温情を注ぐことも忘れなかった。 かくて 誉望 益々隆んに、望楠軒の学風は、遂に 天下の士気を鼓動し、王政復古の大業を翼賛する原動力ともなっていった。
 前記のように、望楠軒の講主であった 小野鶴山 と 西依墨山 とが、相次いで小浜藩に招聘 (しょうへい) されたところから、望楠軒と 小浜藩との関係が 漸次濃厚となり、成齋の時には、小浜侯から 年々米二十俵を書院に寄付して、その維持につとめ、遂にその建物を管理するようになった。 その後、墨山の子 孝禎 ・孝鐸、孫の孝博などが、望楠軒の教育に従事し、以て 梅田雲浜に至った。 そして雲浜の後は、大澤鼎齋( 雅五郎敬邁 )が 之を継いだ。
 このように 強斎以来 百五十数年来続いて、崎門学の本山として、最も権威あった望楠軒の建物も、残念なことに 元治元年七月、「 禁門の変 」 の兵火により 焼失してしまった。

 雲浜は、崎門学の盛んな小浜藩に生まれ、しかも、久しく同学派の大家 山口菅山 に従遊して、その薫陶を受けたのであるから、純然たる崎門派の正統に属していることになる。 雲浜の学統を わかり易いように系図で表すと、次のようになる。
 山崎闇斎  ― 浅見絅斎  ― 若林強斎  ― 山口春水  ― 山口風簷  ― 山口菅山  ― 梅田雲浜
              
                 
                 望楠軒址 
                ( 『 教学真髄・浅見絅斎の研究 』 大久保勇市 著 第一出版協会 昭和十三年 より )


                  つづく 次回


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