日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー144  ( 土佐の南学ー17 ・ 梅田雲浜ー3 ・藩主の招を拒絶 )

2009-12-08 17:32:37 | 幕末維新
田中河内介・その143

外史氏曰

【出島物語ー55】

 土佐の南学―17
 
 二十九歳の天保十四年九月、雲浜は「 湖南塾 」を閉じて、京都に移り 望楠軒の講主となった。 最初の住居は、木屋町二条の 僅か二畳敷の狭い一間で、そこから二条堺町の望楠軒に通った。 しかし、小浜藩から一定の食禄(しょくろく) が出るでなく、また 塾から多くの報酬を受ける訳でもなかった。 これは全く雲浜が 舊師に対する報恩のために、義侠(ぎきょう)的に尽そうとする、美しい心から出たもので、無報酬でこの任を引受けたのであった。 雲浜は、操持潔白で、しかも 貧は士の恥じるところでないと 固く信じていた為、以前と変らぬ貧乏生活でも、割合平然としていた。 
 以前雲浜を世話した山田仁兵衛(にへえ) の妻千代は、今回も この状況を見かねて、米は勿論、薪炭の類まで仕送って、その生活を助けた。
 千代は義侠心に富んだ女丈夫で、多くの志士の世話をしたことで知られている。 後に西郷・木戸・伊藤・井上・山県・松方・土方(ひじかた)等、維新の元勲となった人々も、山田家に出入して 千代の世話になったものである。 伊藤博文や井上馨(かおる)などは、千代にはいつも呼捨てにされていたそうである。 木戸孝允(たかよし) の夫人 松子は、小浜藩 生咲(きさき)市兵衛の次女で、十一歳の時から、千代に養われて遊芸を仕込まれ、十三歳から町舞子(まちまいこ) に出て、後に幾松(いくまつ)と名乗って芸者になった。 木戸夫人となってからも、常に千代とは親しく往き来していたという。 ( 「 勤王偉人 梅田雲浜 」  梅田 薫著 昭和十七年 )

 この様な窮境の中でも、雲浜は 門人に対しては 溢れるばかりの温情を示し、ありもしない懐中から 「 お前小遣に困っていないか 」 と訊ねては、金を与えたことが度々ある。 このように雲浜は 大変人間味に富んでいた。 しかし 一度教授の席に上ると、それこそ人が変ったように、厳格そのもの態度で諸生を薫陶した。 これは闇斎以来の 崎門学者に共通の事でもある。 彼らは 単に教義を生徒に注入すれば足りると考えた訓話学者と異なり、経義と共に 気節の尚むべきこと、進退を正しくすべきことを併せ教え、人間らしい人間を養成することを 主眼としたからである。 雲浜は年こそまだ若いが、識見は既に凡俗を抜いていた。 尊王第一主義の下に、経世を主眼として学問を講じるのであるから、書物の字句に拘泥せず、実生活に応用されることに重きを置き、条理は正しく、喩えは巧みで、かつ独特の明快にして、火の如き熱弁を以て説くので、聴く者はみな感動した。 門人で、後に第一流の書家となった富岡鉄斎(てっさい)の手紙に、

      『 雲浜先生は勤王愛国の人、慷慨談は常にして、講書よりも時事を痛論す。 愚生及び同門の吉田玄蕃等、
       毎々先生の 口角泡を飛ばして罵詈(ばり)せらるるを謹聴せり。』

 とある。 また 門人の東(ひがし)久周の話には、

      『 雲浜先生が「 靖献遺言 」を講じる時には、慷慨悲憤、声涙(せいるい)倶(とも) に下った。』

 と。 これ等を見ても雲浜の講義が、如何に熱烈で 真剣(しんけん)であったかが判る。

 なお、雲浜が望楠軒講主になった年(天保十四年)の十一月、雲浜の主君、小浜藩主 酒井若狭守 忠義(ただあき)が、所司代に任ぜられて、京都在勤となっている。


藩主の召を拒絶

 ある時、小浜藩家老 酒井豊後( 主君酒井侯の一門、三千二百石 ) の家来 某と名乗る一人の武士が、主君から豊後に下った上意を伝えに 雲浜の居を尋ねて来た。
 その男が言うには。
  「 殿が、主人豊後への仰せには、近頃梅田は大分有名になったが、試しに何か講義をさせて見た上、儒臣として登用したい との有難い思召しでござる。 そこで 主人豊後には、梅田は 苦辛(くしん)研学十余年、既に立派な学者でござるが、今非常に貧苦に迫られて、気の毒な境遇にあることを申上げ、御登用相成るように、極力尽瘁(じんすい) 致したので、最早御登用は確実相違ござらぬ。 この御生活から急に高禄に出世なさるのでござる。 破格のこと、貴殿もさぞ御満足でござろう。 主人豊後よりも、貴殿の出世の為に、つとめて殿のお気に入るよう講義なさるのが、何より肝要第一でござる。 ゆめ我意など通して、殿のご機嫌を損ぜぬよう、十分の御注意をなさるのがよろしいと、くれぐれもの心添えでござった。・・・・・・」 ( 「 勤王偉人 梅田雲浜 」 梅田 薫著より )
 望楠軒の講主は、今迄 代々酒井家の儒臣として、招聘されるのが通例であった。 しかも雲浜は 元々小浜藩士である。 これを登用しょうというのは ごく自然なことである。 しかし雲浜は、貧乏をしていても、心は飽く迄高潔で、利己の為に卑屈な真似の出来ない性分であった。 使いの者が、藩主から自分の主君に下った雲浜に対する招聘話を、貧乏生活の雲浜を見下すように、しかも恩着せがましくしゃべる事に、無性に腹が立った。
  「 折角の仰せでござるが、お断り申す。」
 と、雲浜はきっぱりと断わった。
 それから四五回も その男や、また他の使者が、立ち代って訪れ、或は高圧的に、或は利を以て、雲浜の心を動かそうと試みたが、雲浜は動かなかった。 一少年に対しても、終日道を説くを厭わないが、権力に屈せず、非礼を許さない彼の真面目がよく現われている。 崎門学者の正統を自負する雲浜にとって、このような非礼は許せないことであった。
 梅田 薫は、その著書( 「 勤王偉人 梅田雲浜 」 東京正生院出版部 昭和十七年 )の中で、このことに関して、次のように述べている。
   「 ・・・・こうして 折角出世の道が開けたのを、我から断ち切ってしまったのである。 著者の祖父は語った。 『 雲浜という男はこんな頑固な男じゃった。 その日の生活にも窮して居りながら、大出世ができるのを 家老の口上が無礼だからといって、家老に来て謝れというのだ。 雲浜でなければいえぬ言葉だ。 そのため 殿様や重役等も 大分感情を害された様子だった。 雲浜は 一体に 下の人には 誠に良かったが、どうも上の人に対しては 頭を下げない男であった。 然し殿様に対しては、忠義の心が深くて、一度たりとも 殿様に対して不平を洩らしたり、非難がましい事は 一切はなかった。』  」 と。


信子を娶る

 雲浜は、上原立斎に見込まれ、そのたっての願いにより、弘化元年、三十歳の時、その長女の 信子(しんこ) ( 十八歳 )を娶った。 信子は雲浜を立派な人物と以前から尊敬していたので、喜んで雲浜に嫁した。 新婚生活は、貧困の中にも 楽しげな生活であった。 雲浜は家計のことは一向構わずに、客があれば 酒肴を出せと命じ、困る人があれば 小遣銭を与えなどするので、家計は愈々苦しいが、妻は少しも心配を掛けないよう、多くの来訪者に、身をつめても款待をつくし、米や味噌が全く欠乏して、夕の食に差し支えても憂いの色を見せず、夫を煩わすことは 少しもなかった。 そして常に笑みを湛えつつ、和歌を詠じ、琴を弾じ、夫を慰め励まし、陋屋の中にも 常に春風(しゅんぷう)駘蕩(たいとう) の空気が満ちていた。


森田節斎 ・梁川星巖 ・頼三樹三郎

 弘化元年( 一八四四 )、京都に来て、丸屋町に寓して教授していた森田節斎( 三十四歳 )が訪れてきた。

    【  森田節斎は、大和五條の人、十五歳の時、京都に出て、猪飼敬所(けいしょ)や、頼山陽に学び、
     才気追々と現われて、山陽も激賞したほどである。 ついで 江戸に出て 昌平黌に学んだ。
     節斎も雲浜と同じく、金銭を見ること 土芥の如く、また仕官することを 好まなかったので、
     姫路侯から篤く招聘されたが 応じなかった。 門人の中でも 山口(しげ)次郎 [ 城洲(じょうしゅう) ]
     ・江帾五郎 [ 吾樓(ごろう)] ・乾(いぬい)十郎 [ 猶龍(ゆうりゅう) ] ・巽(たつみ)太郎 [ 遜斎(そんさい) ]
      の四人は 傑出していたので、世人はこれを「 森田の四郎 」と言った。
      節斎は 備後の江木鰐水(がくすい)、大坂の篠崎小竹(しょうちく) などという、当時有名な学者と、
     文を戦わしたので、その文名は一時に揚り、世に節斎の文章を知らない者はない位になった。 吉田松陰も、
     彼の文名を慕って 嘉永六年二月、五條に節斎を訪ねて その門人となっている。
      節斎は、四十四歳まで婦女を近づけなかったが、大坂の藤沢東畡(とうがい)を訪うた時、
     しきりに妻帯を勧められたので、節斎は、「 しからば貴殿の門人の小倉無絃(むげん)女史をもらおう 」 と言った。
     女史は 容貌は醜かったが、日本一の女(おんな)学者という評判であった。 彼女も 節斎ならばということで
     話はまとまった。
      門人 江帾(えばた)五郎をつれて、大和の郡山へ行った時、講義を乞われたが、節斎は大杯を傾けながら
     「 郡山十五万石などは 相手にならぬ。 我輩の講義の判る奴が一人でも居るか。 江帾で沢山だ。」
     と豪語したほどの彼。 こんな変わり者の豪傑学者と雲浜は、会ったその日から 肝膽相照らす親友となった。
     見識の高い節斎も、後には雲浜の意を受けて、大和十津川の練兵のために 大いに働くようになった。 】
     ( 「 勤王偉人 梅田雲浜 」梅田 薫著より )

 弘化三年( 一八四六 )十二月、梁川星巖( 五十八歳 )、紅蘭夫妻が、美濃から 京都の雲浜の住居の近くに移って来たので、雲浜は さっそく星巖を訪問した。 星巖は雲浜より二十六歳上であった。 京都に於ける、絶大なる勤皇の勢力を作り出したのは、全くこの星巖と雲浜二人の力であるといっても、決して過言ではない。

 【  梁川星巖は、寛政元年( 一七八九 )、美濃安八郡曽根村に生まれた。 十五歳の時、江戸に出て古賀精里・山本北山等に学び、特に詩に秀でた。 妻の紅蘭(こうらん) と共に諸国を遊歴して詩想を練ること二十年、その名声は 大いに高まり、多くの門弟が集った。 その中には大名もいた。 日本の李白といわれ、また、「 文は山陽、詩は星巖 」 と称せられた。 しかし星巖は、全く世の常の詩人ではなかった。 星巖(四十四歳)、紅蘭夫妻は、天保三年( 一八三二 )十月、江戸に入り、詩友、巻菱湖の宅に寄寓、それから十二月十五日には、 八丁堀の借家に移ったが 大変な貧乏暮しであった。 天保五年十一月には 居をお玉ケ池に移し、「 玉池吟社 」 と称した。 玉池吟社 の隣りは 佐久間象山 の住居であった。 天保十四年( 一八四三 )、五十五歳の時には、頼三樹三郎( 鴨崖 ) が訪れて来て詩を問うている。 弘化二年( 一八四五 )六月、五十七歳の時、星巖は 「 玉池吟社 」 を突然に閉じ、江戸を辞して故郷大垣に帰っている。 江戸に下ってからすでに十四年、「 玉池吟社 」 は その弘化二年には、その全盛期にあった。 その繁栄の頂点にあった 「玉池吟社」 を突然閉じて、帰国するということには、相当の理由があった筈であろうが、その真の理由は、謎のままである。
 大垣に帰ってからは、村瀬藤城、江馬細香、小原鉄心 などとの交遊が また旧(もと) の通り繁くなった。 そして弘化三年( 一八四六 )十二月、星巖五十八歳の時、夫妻は居を京都に移したのである。 京都では、木屋町二丁目下る 印房座舗に仮住居している。 そこは 前は鴨川に面し、遠く東山連峰も望むことのできるところで、星巖は気に入っていた。
 尊王、憂国の士としての星巖は すでに江戸を引払った時に決定していたと思う。 京都に住んでからの星巖の交渉のある人物は、小原鉄心、春日潜庵、横井小楠、吉田松陰、西郷隆盛、僧月性、さらに、頼山陽の第三子である 鴨崖( 通称は三樹三郎 )、池内陶所、梅田雲浜などとはとくに親交があった。 のちに星巖を加えたこの四人は、反井伊直弼、反幕、倒幕運動の 「 四天王 」 といわれることになる 。】 

 弘化三年には、雲浜に長女、お竹が生まれている。 二畳一間に親子三人となった。

 嘉永二年( 一八四九 )、雲浜 三十五歳の時、頼三樹三郎( 二十五歳 )が来訪した。

 【 頼三樹三郎( 鴨崖 )は、文政八年( 一八二五 )五月二十六日、京都三本木で、父 頼山陽( 四十六歳 )の三男として生れた。 母の名は 梨影( 二十九歳 )である。 天保十四年( 一八四三 )、十九歳の 閏九月二日、幕臣・羽倉簡堂の一行に加わり、東都( 江戸 )遊学に発程、十月十四日、品川に到着している。 そしてこの年、昌平坂学問所に入り、寄宿寮 「 久敬舎 」 に入った。 三樹三郎は、この遊学中、幕府の驕奢に腹が立ち、上野寛永寺の石灯籠を倒すという 事件を起こしている。 その為に、弘化三年( 一八四六 )三月二十日、二十二歳の時、昌平坂学問所を退校になった。 その後、三樹三郎は 北遊 ( 東北遊歴 ) を企て、四月十二日に途に就いた。 その時は 蝦夷地( 北海道 )にも 足を延ばし、嘉永二年( 一八四九 )正月元旦、京都に帰りついた。 】

 後に幕府側では、梁川星巖・梅田雲浜・頼三樹三郎、それに 池内大学を加えて、悪謀の四天王 といって警戒したしていたと言う事は、以前に述べた。  この四天王の中、星巖は 安政の大獄勃発間際に、急病にかかって死に、池内大学は、一身の危険を恐れて変心したが、雲浜と 三樹三郎とは 最後まで微動だもしない血盟の契りの中に、遂に尊王の為に 一身を捧げた。

 嘉永二年八月二十七日、父、矢部岩十郎(七十四歳)が小浜で没した。

 嘉永四年四月二十一日、熊本藩の 横井小楠( 三十七歳 )が、門人の 徳冨一義(かずよし)( 徳冨蘇峰の叔父 )、笠隼太(りゅうはやた) の子 左一右衛門(さいちえもん) を伴い、福井への招聘の途中、入京して来たので、雲浜は、さっそく訪問した。 小楠(しょうなん)は、 雲浜が二十七歳の時、熊本に行った時に 親密になった間柄である。 小楠一行は 京に二十日間滞在しているが、その間、毎日のように 雲浜が行くか、小楠が来るかして 相会し、学術及び国事を論じている。  五月十日、一行の出発に当り、雲浜は見送りのため、同道して 大津へ行き、小楠を 上原立斎 に紹介した。 翌日は 共に湖上に舟を浮べて遊んだ。 そして十二日、 小楠一行は 雲浜と別れて、大津を出発していった。

 同年七月二十八日、母 義(よし)が 父の後を追うように( 二年後 )、小浜にて没している。 また 同年には、小浜藩士 行方(なめかた)千三郎正言(まさこと) ( 十八歳 )が上京し、雲浜の書生となっている。 一方、雲浜は 此の年の冬から病気になり、百日以上も闘病生活を送ることになる。 志を持った雲浜に、あわただしい日々が流れて行く。

                  つづく 次回

                                   誕生日に枚方にて

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