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日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー102 ( 鄭成功・伝記ー3  ・国姓爺 )

2009-01-31 22:24:35 | 幕末維新
田中河内介・その101 


外史氏曰

【出島物語ー13】

英仏蘭による植民地支配ー4
( インド、東南アジア、南太平洋の収奪とアフリカ大陸の悲劇 )

 鄭成功物語ー3

国姓の 「朱」 を賜わる

 鄭森( 成功 )は 一六四五年、二十二歳のとき、南京から福建に帰郷、八月、父と共に唐王 隆武帝に謁見した。 この時、隆武帝は 森を一目見るなり、如何にも頼もしげに感じて すっかり気に入ってしまった。 成功は 忠孝伯に封ぜられ、御営中軍都督 ( ぎょえいちゅうぐんととく )、招討大将軍に 任ぜられた。 若年にしては 破格の待遇である。 しかも、隆武帝は 「 森を婿にしたいが、残念なことに朕には娘がいないので 代りに朕の姓を与えよう 」 と言った。 森は 明の国姓の 朱( しゅ ) を賜わった上、駙馬 (ふば、 皇帝の娘婿 ) の殊遇を受けることになった。 このことは、森に対する隆武帝の期待が、如何に大きかったかを 物語るものである。 このようなことで、人は彼を 「 国姓爺 ( こくせんや ) 」 ( 爺は敬称 )と敬称した。 ( 近松門左衛門の名作で 『 国性爺合戦 』 と、「 性 」の字になっているのは、正しい表現ではない。)
 彼は これを機に、名を 森 (しん) から 成功 (せいこう) と改めた。 功を成す、という意味が込められている。 朱成功 の誕生である。 しかし、明朝の国姓 「 朱 」 を使うのは恐れ多いという気持ちがあったのであろう。 幾つかの例外を除き 死ぬまで 鄭姓を名乗った。 鄭成功 である。 人は自分を認めてくれる人のために報いたい。 成功もこの隆武帝のためなら、どんな事でもと、心に期するものがあったのであろう。 成功が 「 抗清復明 」 のより鮮明な旗印を掲げたのは、この時からである。
 鄭成功は、父の芝龍にしたがい、直ちに 抗清復明の戦い に参加していった。



母の来明と自害、父の対清降伏

 これより先、芝龍父子は日本の平戸在住の 鄭成功の母 田川氏のところへ、明に来てほしい、との内容の手紙を出していた。 森の弟の次郎左衛門は、もう十六歳になっていた。 母 田川氏は、次郎左衛門に祖父への孝養を頼み、一足先に単身で日本を船出した。 船が安平鎮に着き、十五年ぶりに母子が再会出来たのは、鄭森が隆武帝に謁見した翌月のことであった。 成功母子は如何に この再会を喜んだことであろうか。 しかし、運命とは残酷なもので、十五年ぶりの再会の喜びにひたったのは ほんの束の間のことで、この母子には大きな悲劇が待っていたのである。

 各地に擁立された明王の中で、清が平定に重きを置いた対象は、南京の福王 弘光帝、福州の唐王 隆武帝、 広州の永明王 永暦帝の三人であった。  
 隆武帝の福建政権は、全面的に鄭氏の武力と財力によって支えられていた。 そのため 隆武帝は何をするにも窮屈で、福建を早く動きたかった。 隆武帝の第一の願望は北伐 ( ほくばつ ) すなわち南京の回復なのである。 翌 隆武二年( 清では順治三年、一六四六年 )、 隆武帝は、鄭一党の力を借りて進発し、二月延平 (えんぺい) に入った。 六月、隆武帝は 成功を 忠勇伯 に封じた。 名ばかりの皇帝として、成功の忠誠に報いるために 出来る事としては、これ位しかなかったのである。 成功を伯に封じると同時に、帝は 鄭軍に 浙江 (せっこう) との境界の 仙霞嶺の 仙霞関 (せんかかん) への出兵を命じた。 鄭軍は 鄭鴻逵 (ていこうき)(成功の叔父) を 大元帥に、鄭彩 (ていさい)(成功の従兄)を 副元帥とし、鄭成功も 従軍していた。
 六月、清の征南大将軍、博洛 (ポロ) は、紹興で 魯王軍 を撃破、魯王は ようやく船で海上に逃れた。  鄭芝龍はこのことを理由にして、北伐に従軍中の鄭軍に 引揚げ命令を出した。 芝龍からの命令が 仙霞関に布陣していた鄭軍に届いた時には、もうそこには 清軍が押し寄せて来ていた。 しかし、鄭軍は 頭領芝龍 からの命令のため、清の大軍を目前にして 一戦も交えることなく撤退してしまった。  芝龍は この時、すでに有利な条件での 清への投降を考えて、このような撤退命令を 出したと思われる。  隆武帝は 仙霞関 (せんかかん) が清軍の手に堕ちたことを知ると、延平を出て 汀州 (ていしゅう) に走ったが、ここで清軍に捕えられた。
 『 帝と皇后と二人の官女とは馬車に乗せられ、二千余人の清兵の警固のもと、福州に押送された。 一行が途中の 九竜渓(福建省中部) まで来たとき、皇后は 突如、車上で立ち上がったかと思うと、身を躍らせて 渓流に身を投じた。 すぐさま清兵が跳び込んで引き上げたけれども、皇后は 遂に蘇(よみが) えらなかった。 福州に着いた隆武帝は 自ら食を断って餓死した。 それがせめてもの抵抗だったのである ( 刑死したという説もある )。』 (明末の風雲児・鄭成功 寺尾善雄著)

 成功は、隆武帝に忠誠を誓っているが、父 芝龍は 元をただせば 海賊の親分、機を見るに敏な男で、自分の利に従って動くのが、その生き方である。 そのため 彼には もともと隆武帝への 忠誠心などない。 その点、清へ投降することに 罪悪感などまったくないといっていい。
 隆武帝の処刑が引き金となり、芝龍は ついに 清への投降を決意した。 芝龍には、どうしても勝ち目のない隆武帝に 入れあげている わが子 成功 の気持が理解出来なかった。 そこで投降に際し 成功を誘ったが、彼は頑として応じなかった。 忠孝伯に封ぜられた鄭成功は、純然たる抗戦派で、「 和平 」 の好餌 (こうじ) にひっかかるような いい加減な人間ではなかった。 逆に、成功は 去り行く父に向って、
 
    「 虎は 山を離るべからず、魚は 淵を出ずべからず 」

と、泣いて いさめた。 また 

    「 古より 父、子を教うるに、忠をもってするを 聞く。 いまだ 子を教うるに、君に貳心 (じしん) せよというを 聞かず 」

とは、成功が芝龍を責めた答書の一節である。 もちろん 芝龍の決意も固かった。  ここで父と子は 別々の道を進むことになる。 芝龍は 北京に赴き、成功は 「 抗清復明 」 の旗印を掲げる。 しかし、鄭芝龍の最期は 哀れであった。 成功の帰順工作が失敗すると、逆に 敵の成功と通交したという罪で 告発され、一六六一年 ( 鄭成功の台湾攻略の年 )、一族ともども 誅殺された。
 益々清が勢力を伸ばし、明王が危険に瀕したときに、芝龍が 清に降った事は、鄭軍にとってのみならず、残明復興闘争も 大きな打撃を受けた。

 成功が洋上にある時 悲劇が起った。 安平城が清軍の攻撃を受け、そして、富庶 (ふうしょ) と堅塁をほこった安平鎮の居城が 清軍の手に堕ちた。 このとき、田川氏( 鄭成功の母マツ ) は、鄭芝龍が 清軍に降伏したことを潔とせず 泉州城内に最後まで踏み止まって 憤死し、日本女性の意気を示した。 ときに 田川氏 四十五歳。 ( 彼女は 清軍の兵士に辱めを受け、それを恥じて 自害したという説もある。)

                  つづく 次回

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