田中河内介・その136
外史氏曰
【出島物語ー48】
土佐の南学―10
山崎学の波紋ー宝暦・明和事件
宝暦事件
竹内式部は、浅見絅斎が病没した翌年の 正徳二年 ( 将軍家宣の終世 )、 新潟の医家に生れた。 若くして上洛し、徳大寺家に勤仕し、篤学 息(や) まず、ついに 山崎学の門戸を張り、まず、主家の 徳大寺公城(きみき) ( 大納言 ) を感化し、さらに他の公卿にも及び、下(しも) は 地下(じげ) の人々、及び 諸国の各層に亘り、大よそ 七八百名の門弟を有するに至った。
式部には 著書はなかったが、式部の座右には 「 靖献遺言 」 があった。 式部は、毎年、学祖闇斎の祭典を執行したが、その祝詞(のりと) の中で 「 天皇朝廷宝位(ほうい)、天壌無窮(むきゅう)、神道於(を) 学比(まなび)、尊比(とうとび)、敬(うやま) 布(う) 輩(やから)、学業成就、信心確如(かくにょ) 」 などと誦している。 ことによっても、平生、その思うところが想像できる。 【 天壌無窮 (てんじょうむきゅう) :天地と共に きわまりなきこと 】
さらに、式部が罰せられる前年に、堂上の諸門人に与えた式部の筆に成る唯一の文言 「 奉公(ほうこう) 心得書 」 を見ても、皇統の淵源を説き、臣道の大本としては、ひたすら 天津日継 (あまつひつぎ) の天皇に 奉仕すべしと、文字通り 奉公の心得を書き記したものであって、そこには、なんら過激なる言辞は 認められない。 しかし、禍機は 式部の身に迫っていた。
式部の勢力の基盤は 公卿であった。 ことに、徳大寺卿を はじめ、正親町 (おうぎまち) 三条公績(きみのり) ( 帥(そつ) 大納言 ) ・坊城 (ぼうじょう) 俊逸 ( 中納言 ) ・西洞院 (にしのとういん) 時名(ときな) ( 少納言 ) ・岩倉恒具(つねとも) ( 權中納言、具視(ともみ) 六代の祖 ) ら 新進気鋭の公卿は、式部の講説に感激し、それを桃園天皇に及ぼそうとした。 研学の気象にあふれる天皇は、これを喜ばれた。 ところが、これに対して、公卿中の名門、摂家(せっけ) の面々から 嫉視・排擠 (はいせい) の感情が巻起り、摂家の面々は、式部らに倒幕の陰謀ありとして、京都所司代に訴えた。 訊問 (じんもん) に逢った式部は、一度は 釈放されたが、摂家側の再度の訴えで、ついに京都を追われることになった。 天皇に親信された 平(ひら) 公卿も、式部の門弟として 職を解かれ、堂上より一掃された。 ときに 宝暦八年 ( 将軍 家重の治世で、一七五八年 )、 この事件を 宝暦事件と呼んでいる。
宝暦事件に於ては、式部に謀反の事実などは 微塵もなかった。 もし、摂家と平公卿との葛藤(かっとう) が なかったならば、式部の講説は 見逃されており、式部は 天命を全う出来たであろう。 式部に対する断罪書の正文にも、 「 経(けい)学計(ばか) り指南いたし候由を申し候え共、靖献遺言等、堂上方へ講談致し、其の上、三本木へ堂上方の参られ候節、罷り越し、酒宴いたし、都(すべ) て教え方(かた) 宜しからざるに付き、堂上方、弟子の分、御咎、仰せ付けられ候 」 と、あるのであって、これでは、なんら罪すべきものではない。 式部は、堂上人の権力争いのとばっちりを受けただけで、とんだ災難であった。
しかし、事件には 尾鰭(おひれ) がつけられ、これより八年後に起る 明和事件とともに、倒幕の暗流を構成する上に、少なからざる材料を提供した。
その明和事件の時には、式部は 藤井右門との関係を疑われ、その寄寓する宇治山田より拘引され、審問の結果、嫌疑は晴れたが、追放の身で京都に入ったことがあるとの理由で 八丈島への流罪が決定。 しかし、その途次、三宅島に寄港中に 病没した。 五十六歳であった。
明和四年の三宅島病死より 正に百一年目に、王政復古が成され、初めて式部の志が成された。 そして、明治二十四年十二月十七日、正四位を追贈され、また 昭和七年九月十五日、三宅島の 竹内式部謫所において 分骨奉告祭が行われ、翌昭和八年九月十七日、新潟市四ツ谷町(やちょう) に於て、竹内式部の墓碑が建立され、その死後 百六十六年にして 再び故郷に迎えられた。
竹内式部墓碑 新潟市本覚寺所在
( 『 竹内式部 』 大久保次夫 著 より )
明和事件
『 明和事件の立役者である 山県(やまがた)大弐(だいに) は、竹内式部より 十三歳の年少である。 享保十年、甲斐国巨摩郡篠原村 ( 山形県中巨摩郡龍王村 ) に生れた。 彼の祖先は、武田信玄麾下の 高名な 山県三郎兵衛昌景 であると言われている。 家は代々甲府にあり、大弐も、はじめ 甲府の与力であった。 しかし、なかごろ江戸に出て、医を業とし、ついで 大岡忠光( 岩槻侯 ) に仕え、忠光の推挽で 勝浦代官に補せられた。 忠光は 若年寄から将軍の側用人と累進したので、大弐も忠光の許へ帰って 侍医・儒官をつとめ、羽振がよかった。 ついで 宝暦十年、八丁堀に 経(けい) 学の門戸を張り、同十三年には 藤井右門も来塾している。 大弐の学問は 多面に渉ったが、その奉ずるところは 山崎学で、門弟は 一千名を越えたという。
大弐の主著 「 柳子新論 」 は、宝暦事件のあった翌宝暦九年に開版されている。 この書には、孫子にならって 十三篇の題目があり、その主脳は 劈頭の正名論であった。
「 我が東方の国を為すや、神皇基(もとい) を肇め、緝燕(しゅうき) 穆々(ぼくぼく)
力(つと) めて利用厚生の道を作(おこ)す。 明々たる其の徳、四表(ひょう) に
光被(ひ) する者、一千余年。 」 ―もと漢文― ( 柳子新論 )
かくて、政権の武門に移ったことを論じ、そして、政治の複本位を不可とし、
「 今夫(そ) れ、衰乱の国、君臣、其の意を二(ふたつ) にし、禄位(ろくい)、其の本(もと) を
にす。 故に、名を好む者は彼に従い、利を好む者は此(ここ) に従う。 名利相い屈せず、
而して、情欲分(わか)る。 即ち、我徒、将た安くに依らむ。 富を頒つ者( 幕府 ) は
貴(たつと) からず。 貴きを売る者( 朝廷 ) は富まず。 富貴相い得ずして、威権別(わか) る。
即ち我徒、将た安くにか依らむ。 」 ―もと漢文― ( 柳子新論 )
と、現状を批判している。 この論旨、竹内式部の表現に比べれば、さらに露骨であり、過激であった。 それだけに大弐は、筆禍を惧(おそ) れて、世に公けにする際には、先人の遺稿であると、その序説に書いて偽った。 すなわち、
「 享保の初(はじめ)、数(しばし) ば水患を被(こうむ) る。 修築及ばず。
因(よつ) てその宅を移し、故地(こち) に植(う) ゆるに菽麦(しゅくばく) を以てす。
畝間(ほかん)、偶(たまた) ま一石函(かん) を獲たり。 中に銭刀(とう) を蔵(おさ) む。
皆、元明(みん) 以上鋳(い) る所の者、函底(かんてい) に一古書あり。 題して、
柳子新論と言う。 」 ―もと漢文― ( 柳子新論 )
この慎重の故か、大弐が幕譴(けん) をこうむったのは、この著書によってではなかった。 この書は、大弐が幕譴をこうむったが故に、かえって注目されるにいたったのである。
大弐の門戸に、上州小幡藩の国老で、吉田玄蕃(げんば) というものがいた。 玄蕃は一廉(かど) の人物で、藩侯( 織田信邦 ) の信任が厚かったので、これを妬む同藩の松原郡(ぐん) 太夫に、大弐と共に異図あるを構えて讒(ざん) 言された。 それだけに止まれば、たんに小幡藩の問題に過ぎなかったが、そのころ、大弐の門に 桃井久馬という浪人がおり、久馬は、小幡藩の問題が飛火して 大弐と共に裁かれる日の来らんことを惧れ、且つ、同門の 藤井右門にも 含むところがあったので、一網にして 彼らを陥れることが、自ら嫌疑を免かれ、怨みを晴らすことであるとし、徒党を組んで、大弐の経学が 幕府に不祥のものであると出訴した。 大弐の門戸には、有象無象が出入りしていた。 素性も定かでない浪人も多く、その中には 藤井右門のごとく、大言壮語するものもあり、大弐は 結局、右門らの 不用意な言動に誤られたというべきである。 』 ( 「明治維新の源流」 安藤英男 著 )
かくて、明和四年 ( 将軍家治の治世、一七六七 )八月二十二日、関係者は 処分された。 最重科は 藤井右門で、鈴ヶ森で磔殺 ( 実は事件の結審に先立って獄死していた )、 大弐は 死罪で 江戸伝馬町牢に於て処刑された。 時に 大弐は 四十三歳、藤井右門は 四十八歳であった。
大弐の辞世に言う
曇るとも 何かうらみん 月こよひ
はれを待つべき 身にしあらねば
これが、明和事件と呼ばれるものであるが、大弐に対する判決文によっても、大獄を構成するほどの理由は、そこには 全く見出されない。 要するに、明和事件は、単に 藤井右門らの 高談放言というにとどまった。 しかし、問題の意義は、その事実ではなく、如何にも、この事件が、大それた謀反が準備されていたような印象を、世間に与えた影響にあろう。
山県大弐 山県神社所蔵木彫額
( 『 山県大弐正伝 』 飯塚重威 著 より )
また、この事件では、竹内式部までも、藤井右門との関係を疑われ、その寄寓する 宇治山田より拘引され、審問の結果、十月、反逆者と目された大弐、右門とは 何等関係なく、しかも 反逆の事実 全く無しと断定されたにもかかわらず、八丈島へ流罪と決定したという事は、虚構とされていた追放の身で 京都に潜入したという事実 ( 恐らく京都所司代よりの報告に基づくものであったろう ) の有無によるものではなく、彼の思想が 著しく大弐の思想に類似している点に 幕府が不安を覚えたからであろう。 このような思想を 芽のうちに根絶しなければ、幕府の安泰は 保障出来ないと考え、彼らに対する判決は、出来るだけ 峻烈苛酷な罪科を以て臨んだ。 なお、式部は、二ヶ月程遅れた同年十月、遂に八丈島へ流罪と決定したが、その途次、船中で病を得、三宅島に上陸し、十二月五日遂に病没した。 時に式部は五十六歳であった。
宝暦事件と明和事件とは、二つの 偶然の出来事であったろう。 しかし、明和事件の後、一説に 藤井右門の著述と称する 「 宝暦一紀事 」 が伝播した。 これには、相当詳細に 倒幕の義挙に関する計画と称されるものが述べられており、また、 「 明和風土記 」 「 明和遺芳 」 「 宙斎(ちゅうさい) 記 」 「 直温(ちょくおん) 筆記 」 などの史談書も 続々と流布されており、これらは 無稽(むけい) の小説であったが、宝暦・明和事件が、前・後篇として 仕組まれ、読者をして、式部・大弐・右門を中心にして、倒幕義兵の挙を謀議し、勅命を乞うて 事を興さんとしつつあったとしていることも、この事件が 人々に訴える處の強かったことを物語っている。 幕府の全盛期に於ては、このような謀反などという風聞さえもなかった。 それが、たとえ風聞とはいえ、このように伝播するに於ては、裏では 底流として 知らず知らずの内に、幕末への暗流が 動き出していた証拠でもありましょう。
エピローグ
上州小幡藩の 織田家は、奥州出羽国 高畠へ転封させられ、後、同じく出羽国 天童に移り、この所で 明治維新を迎えた。 吉田玄蕃(げんば) の子孫は 代々同家の重臣として藩公を補佐し、戊辰戦争に際して、庄内藩との抗争の際 勇名を轟かせた 吉田大八(だいはち) は、実に彼 玄蕃の曾孫であった。
藤井右門は、後、明治二十四年、従四位を贈られたが、彼が京都に残した三人の子供の内 二人は夭折したが、末っ子 忠三郎の子孫からは、後、安政五年戊午以後、その父祖の遺志を継ぎ、薩・長・水の志士と交わって 国事に奔走し、維新成るや 宮内省陵墓守長となり、死後 従五位を贈られた 藤井九成が現れている。
山県大弐の墓所は、 ( 『 山県大弐正伝―柳子新論十三篇新釈 』 飯塚重威 著 三井出版商会 昭和十八年 ) によると、 『 茨城県新治郡林村字根小屋の泰寧寺には首を、四谷全徳寺 ( 明治八年廃寺となり、隣接する全勝寺に移管 ) には 死屍を埋めたとされている。 やや遅れて 安永二年には、当時駿府にいた 兄昌樹が、ひそかに郷里の篠原村に帰り、金剛寺の 山県家墓所に、彼の墓を建立している。 以上三基の墓碑は それぞれ現存している 』 とのこと。
なお、山県大弐は 明治二十四年、正四位を追贈され、大正十年には 山県神社 ( 龍王村金剛寺の墓畔 ) が建立され、県社に列せられた。
つづく 次回
外史氏曰
【出島物語ー48】
土佐の南学―10
山崎学の波紋ー宝暦・明和事件
宝暦事件
竹内式部は、浅見絅斎が病没した翌年の 正徳二年 ( 将軍家宣の終世 )、 新潟の医家に生れた。 若くして上洛し、徳大寺家に勤仕し、篤学 息(や) まず、ついに 山崎学の門戸を張り、まず、主家の 徳大寺公城(きみき) ( 大納言 ) を感化し、さらに他の公卿にも及び、下(しも) は 地下(じげ) の人々、及び 諸国の各層に亘り、大よそ 七八百名の門弟を有するに至った。
式部には 著書はなかったが、式部の座右には 「 靖献遺言 」 があった。 式部は、毎年、学祖闇斎の祭典を執行したが、その祝詞(のりと) の中で 「 天皇朝廷宝位(ほうい)、天壌無窮(むきゅう)、神道於(を) 学比(まなび)、尊比(とうとび)、敬(うやま) 布(う) 輩(やから)、学業成就、信心確如(かくにょ) 」 などと誦している。 ことによっても、平生、その思うところが想像できる。 【 天壌無窮 (てんじょうむきゅう) :天地と共に きわまりなきこと 】
さらに、式部が罰せられる前年に、堂上の諸門人に与えた式部の筆に成る唯一の文言 「 奉公(ほうこう) 心得書 」 を見ても、皇統の淵源を説き、臣道の大本としては、ひたすら 天津日継 (あまつひつぎ) の天皇に 奉仕すべしと、文字通り 奉公の心得を書き記したものであって、そこには、なんら過激なる言辞は 認められない。 しかし、禍機は 式部の身に迫っていた。
式部の勢力の基盤は 公卿であった。 ことに、徳大寺卿を はじめ、正親町 (おうぎまち) 三条公績(きみのり) ( 帥(そつ) 大納言 ) ・坊城 (ぼうじょう) 俊逸 ( 中納言 ) ・西洞院 (にしのとういん) 時名(ときな) ( 少納言 ) ・岩倉恒具(つねとも) ( 權中納言、具視(ともみ) 六代の祖 ) ら 新進気鋭の公卿は、式部の講説に感激し、それを桃園天皇に及ぼそうとした。 研学の気象にあふれる天皇は、これを喜ばれた。 ところが、これに対して、公卿中の名門、摂家(せっけ) の面々から 嫉視・排擠 (はいせい) の感情が巻起り、摂家の面々は、式部らに倒幕の陰謀ありとして、京都所司代に訴えた。 訊問 (じんもん) に逢った式部は、一度は 釈放されたが、摂家側の再度の訴えで、ついに京都を追われることになった。 天皇に親信された 平(ひら) 公卿も、式部の門弟として 職を解かれ、堂上より一掃された。 ときに 宝暦八年 ( 将軍 家重の治世で、一七五八年 )、 この事件を 宝暦事件と呼んでいる。
宝暦事件に於ては、式部に謀反の事実などは 微塵もなかった。 もし、摂家と平公卿との葛藤(かっとう) が なかったならば、式部の講説は 見逃されており、式部は 天命を全う出来たであろう。 式部に対する断罪書の正文にも、 「 経(けい)学計(ばか) り指南いたし候由を申し候え共、靖献遺言等、堂上方へ講談致し、其の上、三本木へ堂上方の参られ候節、罷り越し、酒宴いたし、都(すべ) て教え方(かた) 宜しからざるに付き、堂上方、弟子の分、御咎、仰せ付けられ候 」 と、あるのであって、これでは、なんら罪すべきものではない。 式部は、堂上人の権力争いのとばっちりを受けただけで、とんだ災難であった。
しかし、事件には 尾鰭(おひれ) がつけられ、これより八年後に起る 明和事件とともに、倒幕の暗流を構成する上に、少なからざる材料を提供した。
その明和事件の時には、式部は 藤井右門との関係を疑われ、その寄寓する宇治山田より拘引され、審問の結果、嫌疑は晴れたが、追放の身で京都に入ったことがあるとの理由で 八丈島への流罪が決定。 しかし、その途次、三宅島に寄港中に 病没した。 五十六歳であった。
明和四年の三宅島病死より 正に百一年目に、王政復古が成され、初めて式部の志が成された。 そして、明治二十四年十二月十七日、正四位を追贈され、また 昭和七年九月十五日、三宅島の 竹内式部謫所において 分骨奉告祭が行われ、翌昭和八年九月十七日、新潟市四ツ谷町(やちょう) に於て、竹内式部の墓碑が建立され、その死後 百六十六年にして 再び故郷に迎えられた。
竹内式部墓碑 新潟市本覚寺所在
( 『 竹内式部 』 大久保次夫 著 より )
明和事件
『 明和事件の立役者である 山県(やまがた)大弐(だいに) は、竹内式部より 十三歳の年少である。 享保十年、甲斐国巨摩郡篠原村 ( 山形県中巨摩郡龍王村 ) に生れた。 彼の祖先は、武田信玄麾下の 高名な 山県三郎兵衛昌景 であると言われている。 家は代々甲府にあり、大弐も、はじめ 甲府の与力であった。 しかし、なかごろ江戸に出て、医を業とし、ついで 大岡忠光( 岩槻侯 ) に仕え、忠光の推挽で 勝浦代官に補せられた。 忠光は 若年寄から将軍の側用人と累進したので、大弐も忠光の許へ帰って 侍医・儒官をつとめ、羽振がよかった。 ついで 宝暦十年、八丁堀に 経(けい) 学の門戸を張り、同十三年には 藤井右門も来塾している。 大弐の学問は 多面に渉ったが、その奉ずるところは 山崎学で、門弟は 一千名を越えたという。
大弐の主著 「 柳子新論 」 は、宝暦事件のあった翌宝暦九年に開版されている。 この書には、孫子にならって 十三篇の題目があり、その主脳は 劈頭の正名論であった。
「 我が東方の国を為すや、神皇基(もとい) を肇め、緝燕(しゅうき) 穆々(ぼくぼく)
力(つと) めて利用厚生の道を作(おこ)す。 明々たる其の徳、四表(ひょう) に
光被(ひ) する者、一千余年。 」 ―もと漢文― ( 柳子新論 )
かくて、政権の武門に移ったことを論じ、そして、政治の複本位を不可とし、
「 今夫(そ) れ、衰乱の国、君臣、其の意を二(ふたつ) にし、禄位(ろくい)、其の本(もと) を
にす。 故に、名を好む者は彼に従い、利を好む者は此(ここ) に従う。 名利相い屈せず、
而して、情欲分(わか)る。 即ち、我徒、将た安くに依らむ。 富を頒つ者( 幕府 ) は
貴(たつと) からず。 貴きを売る者( 朝廷 ) は富まず。 富貴相い得ずして、威権別(わか) る。
即ち我徒、将た安くにか依らむ。 」 ―もと漢文― ( 柳子新論 )
と、現状を批判している。 この論旨、竹内式部の表現に比べれば、さらに露骨であり、過激であった。 それだけに大弐は、筆禍を惧(おそ) れて、世に公けにする際には、先人の遺稿であると、その序説に書いて偽った。 すなわち、
「 享保の初(はじめ)、数(しばし) ば水患を被(こうむ) る。 修築及ばず。
因(よつ) てその宅を移し、故地(こち) に植(う) ゆるに菽麦(しゅくばく) を以てす。
畝間(ほかん)、偶(たまた) ま一石函(かん) を獲たり。 中に銭刀(とう) を蔵(おさ) む。
皆、元明(みん) 以上鋳(い) る所の者、函底(かんてい) に一古書あり。 題して、
柳子新論と言う。 」 ―もと漢文― ( 柳子新論 )
この慎重の故か、大弐が幕譴(けん) をこうむったのは、この著書によってではなかった。 この書は、大弐が幕譴をこうむったが故に、かえって注目されるにいたったのである。
大弐の門戸に、上州小幡藩の国老で、吉田玄蕃(げんば) というものがいた。 玄蕃は一廉(かど) の人物で、藩侯( 織田信邦 ) の信任が厚かったので、これを妬む同藩の松原郡(ぐん) 太夫に、大弐と共に異図あるを構えて讒(ざん) 言された。 それだけに止まれば、たんに小幡藩の問題に過ぎなかったが、そのころ、大弐の門に 桃井久馬という浪人がおり、久馬は、小幡藩の問題が飛火して 大弐と共に裁かれる日の来らんことを惧れ、且つ、同門の 藤井右門にも 含むところがあったので、一網にして 彼らを陥れることが、自ら嫌疑を免かれ、怨みを晴らすことであるとし、徒党を組んで、大弐の経学が 幕府に不祥のものであると出訴した。 大弐の門戸には、有象無象が出入りしていた。 素性も定かでない浪人も多く、その中には 藤井右門のごとく、大言壮語するものもあり、大弐は 結局、右門らの 不用意な言動に誤られたというべきである。 』 ( 「明治維新の源流」 安藤英男 著 )
かくて、明和四年 ( 将軍家治の治世、一七六七 )八月二十二日、関係者は 処分された。 最重科は 藤井右門で、鈴ヶ森で磔殺 ( 実は事件の結審に先立って獄死していた )、 大弐は 死罪で 江戸伝馬町牢に於て処刑された。 時に 大弐は 四十三歳、藤井右門は 四十八歳であった。
大弐の辞世に言う
曇るとも 何かうらみん 月こよひ
はれを待つべき 身にしあらねば
これが、明和事件と呼ばれるものであるが、大弐に対する判決文によっても、大獄を構成するほどの理由は、そこには 全く見出されない。 要するに、明和事件は、単に 藤井右門らの 高談放言というにとどまった。 しかし、問題の意義は、その事実ではなく、如何にも、この事件が、大それた謀反が準備されていたような印象を、世間に与えた影響にあろう。
山県大弐 山県神社所蔵木彫額
( 『 山県大弐正伝 』 飯塚重威 著 より )
また、この事件では、竹内式部までも、藤井右門との関係を疑われ、その寄寓する 宇治山田より拘引され、審問の結果、十月、反逆者と目された大弐、右門とは 何等関係なく、しかも 反逆の事実 全く無しと断定されたにもかかわらず、八丈島へ流罪と決定したという事は、虚構とされていた追放の身で 京都に潜入したという事実 ( 恐らく京都所司代よりの報告に基づくものであったろう ) の有無によるものではなく、彼の思想が 著しく大弐の思想に類似している点に 幕府が不安を覚えたからであろう。 このような思想を 芽のうちに根絶しなければ、幕府の安泰は 保障出来ないと考え、彼らに対する判決は、出来るだけ 峻烈苛酷な罪科を以て臨んだ。 なお、式部は、二ヶ月程遅れた同年十月、遂に八丈島へ流罪と決定したが、その途次、船中で病を得、三宅島に上陸し、十二月五日遂に病没した。 時に式部は五十六歳であった。
宝暦事件と明和事件とは、二つの 偶然の出来事であったろう。 しかし、明和事件の後、一説に 藤井右門の著述と称する 「 宝暦一紀事 」 が伝播した。 これには、相当詳細に 倒幕の義挙に関する計画と称されるものが述べられており、また、 「 明和風土記 」 「 明和遺芳 」 「 宙斎(ちゅうさい) 記 」 「 直温(ちょくおん) 筆記 」 などの史談書も 続々と流布されており、これらは 無稽(むけい) の小説であったが、宝暦・明和事件が、前・後篇として 仕組まれ、読者をして、式部・大弐・右門を中心にして、倒幕義兵の挙を謀議し、勅命を乞うて 事を興さんとしつつあったとしていることも、この事件が 人々に訴える處の強かったことを物語っている。 幕府の全盛期に於ては、このような謀反などという風聞さえもなかった。 それが、たとえ風聞とはいえ、このように伝播するに於ては、裏では 底流として 知らず知らずの内に、幕末への暗流が 動き出していた証拠でもありましょう。
エピローグ
上州小幡藩の 織田家は、奥州出羽国 高畠へ転封させられ、後、同じく出羽国 天童に移り、この所で 明治維新を迎えた。 吉田玄蕃(げんば) の子孫は 代々同家の重臣として藩公を補佐し、戊辰戦争に際して、庄内藩との抗争の際 勇名を轟かせた 吉田大八(だいはち) は、実に彼 玄蕃の曾孫であった。
藤井右門は、後、明治二十四年、従四位を贈られたが、彼が京都に残した三人の子供の内 二人は夭折したが、末っ子 忠三郎の子孫からは、後、安政五年戊午以後、その父祖の遺志を継ぎ、薩・長・水の志士と交わって 国事に奔走し、維新成るや 宮内省陵墓守長となり、死後 従五位を贈られた 藤井九成が現れている。
山県大弐の墓所は、 ( 『 山県大弐正伝―柳子新論十三篇新釈 』 飯塚重威 著 三井出版商会 昭和十八年 ) によると、 『 茨城県新治郡林村字根小屋の泰寧寺には首を、四谷全徳寺 ( 明治八年廃寺となり、隣接する全勝寺に移管 ) には 死屍を埋めたとされている。 やや遅れて 安永二年には、当時駿府にいた 兄昌樹が、ひそかに郷里の篠原村に帰り、金剛寺の 山県家墓所に、彼の墓を建立している。 以上三基の墓碑は それぞれ現存している 』 とのこと。
なお、山県大弐は 明治二十四年、正四位を追贈され、大正十年には 山県神社 ( 龍王村金剛寺の墓畔 ) が建立され、県社に列せられた。
つづく 次回
悲しいことに私は、くづし字がスラスラとは読めません。どこかに活字化されたものがないかと思うのですが、ないでしょうね。