すごい先生たち-57
田中河内介・その56 (寺田屋事件ー45)
外史氏曰
薩英戦争ー6

『 英艦入港戦争図 』 ( 薩英戦争絵巻 )/ 6月28日、英艦一列に停泊する
六月二十八日、英艦隊が前の浜に停泊するや、午前十時頃、藩主忠義の命を受けた軍役奉行折田平八、軍賦役伊地知正治、助教今藤新左衛門、庭方重野厚之丞( 後の重野安繹 )らは 旗艦ユアライアルス号を訪ね、その来意を糺(ただ)した。
かれ等が将官室で会ったのは、代理公使ニールをはじめ、通訳のシーボルト ( シーボルト事件で日本から追放された かのオランダ商館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子、十七歳 ) らと 将校五、六名である。 イギリス側は 持参した長文の国書を使者に手渡した。 その要旨は、
「 薩摩藩は、生麦事件の犯人を、イギリス人の前で処刑し、また賠償金二万五千ポンド
( 十二万五千ドル、約六万両 )を支払うこと。 もしこれを受け入れない時は、砲撃をするかも知れない。
二十四時間を回答の期限とし、それを過ぎたら自由行動をとる。 」
といった厳しい内容であった。
機転を利かして 使者たちは理由をつけ、回答期限をもう少し延ばすように交渉したので、それはさらに六時間延ばされた。
使者は戻って、ニール書簡( 国書 ) を藩主に見せた。
藩主は直ちに返書を家老に書かせ、「 薩州政府 」 の名でその日のうちにニールに送った。 藩では
「 わが方の外人応接公館で、話し合いをしたいので、幹部の方々は上陸して欲しい。 水や野菜・燃料
などの希望があれば届ける。 」
と、返事した。
これに対するニールの返事は、上陸して交渉することは断るが、薪水・卵・野菜・菓子などを求めたいので周旋をお願いしたい、というものであった。
その夜、キューパー中将は、旗艦ユアライアルス号の艦長ジョスリン大佐、副長ウィルモット少佐、パール号の艦長ボーレス大佐、工兵大尉プラインらに命じて、艦載ボートをもって湾内の諸所を偵察させ、薩摩藩の汽船三隻が停泊しているのを確認した。 これは薩摩が三十万八千ドルで外国から買ったものである。
一方、城中二の丸においては、この二十八日の夜、久光、忠義らが列座して、軍議が開かれた。
薩摩は謀るところがあった
第一案は、ニール以下幹部が上陸し、外国人応接公館に入ったら、すぐに門扉を閉ざし、夜半一同が寝静まるのを待ち皆殺しにし、館に火を掛けるという計画であった。
これは、イギリス人が警戒して、上陸を拒否した事で実現には至らなかった。
第二案は、軍艦七隻を奪取し、イギリス兵士を全滅させ、藩の武威を示そうとする計画である。
久光は、生麦事件の当事者である奈良原喜左衛門と有村武次( 海江田信義 )を呼んで、その為の実行策と人選をかれ等にまかせた。
翌二十九日の朝、薩摩藩は側役伊地知貞馨( のち 琉球在番、太政官修史局に入る ) と伊地知正治( のち 伯爵 ) の両人を 旗艦ユアライアルス号に派遣し、ニール等に上陸をしきりに勧めたが、イギリス側は警戒して上陸を強硬に拒み、旗艦またはハヴォック号を海岸近くに停泊させ、その艦上において会談を行なうことを強く主張したので、第一案は実現不可能となった。
そこで第二案が浮上することになった。
奈良原と海江田は、二の丸において家老の小松帯刀、町田民部らと軍議を開き、藩士の中から決死隊をつのり、スイカや鶏などを積んだ八艘の小舟に分乗して、旗艦ユアライアルス号に二艘、他の六隻に一艘ずつ向かい。 スイカ売りの商人に化けた決死隊は、それぞれの軍艦に乗り移り、砲台からの号砲の合図とともに、イギリス兵を襲って軍艦を奪うといった 「 スイカ売り決死隊 」 作戦なるものを立案した。
奈良原と海江田は この計画を久光に具申したところ、久光はこの計画に賛成したが、合図の号砲には 艦を傷つける恐れがあるので、実弾ではなく空砲を用いよ という指示を与えた。
この決死隊は、志願者の中から選定された。 確定的な人数は定かでないが、七七名から八〇名、九六名など諸説がある。
スイカ売り決死隊に選ばれた者は、二の丸の玄関先に集合し、広庭で藩主より門出の酒肴を賜り、めいめい小茶碗で酒をグイ飲みしたあと下町会所に行って身支度をした。
二十九日午後三時頃、スイカ売り決死隊は、イギリス艦隊へ向かった。
この中には、若き日の黒田清隆(きよたか) ・大山弥助( 巌(いわお)、のち侯爵 ) ・西郷信吾( 従道(つぐみち)、のち公爵 )・篠原国幹(くにもと)( 西南戦争で戦死 ) などの姿も見られた。
それぞれ小舟に分乗して各艦に向かったが、眼光するどく、決死の形相のスイカ売りたちは、イギリス士官に警戒され、手招きでそのようなものいらないとことわられ、乗艦は出来なかった。
しかし、旗艦ユアライアルス号に向かった奈良原・海江田を乗せた二艘は、押し問答のすえ、藩の正式回答も持ってきていると答えると、代表の乗艦が許された。代表が乗艦するとき、同時に多数が乗り込んだ。
ユアライアルス号では 四〇名ほどの日本人が乗り込んできたので、反対側の甲板には銃剣を携えた兵士が整列して始終警戒をおこたらなかった。
交渉役の三人だけが ニールに会って、イギリスの要求に対する藩の回答書を手渡した。
「 生麦事件の犯人はその場で逃走してしまった。 探しているが、いまだに行方不明である。
捕らえたらすぐにイギリスに引き渡す。 また、賠償金の件は、幕府からまだ何も言ってきていないので、
今すぐ支払う訳にはいかない 」
というものであった。
事件の真犯人 奈良原・海江田は目の前にいる、まことに人を食ったような返事である。
ニールは怒ってみたが、どうにもならない。
決死隊は、合図の号砲を、今か今かと待ったが 砲声は一向に聞えない。 いらいらしているところへ、藩から伝達の小舟が近づいてきた。 「 ひとまず引き揚げろ 」 ということであった。 他の六隻には、警戒されて乗り込めなかったからである。
薩摩のスイカ売り決死隊のイギリス艦への斬り込みによる敵艦奪取作戦は、このようにして失敗した。
決死隊が引き揚げてから、イギリス艦隊は警戒を厳しくし、藩のほうでも、事の成り行きを静かに見守っていた。
ニールは、話し合いによる平和的な手段では 解決は最早不可能と判断し、このうえは兵力を使い、強行手段に訴える以外にないと、キューパー提督に対してその旨を依頼した。
七月一日 午前九時頃、薩摩藩の使者( 伊地知ら二名 )がやって来た時、
「 回答は不満足なものであると考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ交渉に応じられぬ 」
と使者に告げた。
この日は 午後から天候が悪化、夜来の東風は次第に強くなってきた。
旗艦ユアライアルス号では 各艦の指揮官との打ち合わせが行なわれ、明二日払暁 戦闘行為を開始するので 準備に入るようにとの布達があった。
一方、薩摩側でも、開戦は最早避け得ないと判断し、この日、久光・忠義らは 千眼寺( 西田常陸山麓 )に移り、そこに本営を移した。 そして家族を 城外の玉里屋敷( 草牟田村 )に避難させた。 また市中も騒然として、避難者たちでごった返した。
つづく 次回
田中河内介・その56 (寺田屋事件ー45)
外史氏曰
薩英戦争ー6

『 英艦入港戦争図 』 ( 薩英戦争絵巻 )/ 6月28日、英艦一列に停泊する
六月二十八日、英艦隊が前の浜に停泊するや、午前十時頃、藩主忠義の命を受けた軍役奉行折田平八、軍賦役伊地知正治、助教今藤新左衛門、庭方重野厚之丞( 後の重野安繹 )らは 旗艦ユアライアルス号を訪ね、その来意を糺(ただ)した。
かれ等が将官室で会ったのは、代理公使ニールをはじめ、通訳のシーボルト ( シーボルト事件で日本から追放された かのオランダ商館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子、十七歳 ) らと 将校五、六名である。 イギリス側は 持参した長文の国書を使者に手渡した。 その要旨は、
「 薩摩藩は、生麦事件の犯人を、イギリス人の前で処刑し、また賠償金二万五千ポンド
( 十二万五千ドル、約六万両 )を支払うこと。 もしこれを受け入れない時は、砲撃をするかも知れない。
二十四時間を回答の期限とし、それを過ぎたら自由行動をとる。 」
といった厳しい内容であった。
機転を利かして 使者たちは理由をつけ、回答期限をもう少し延ばすように交渉したので、それはさらに六時間延ばされた。
使者は戻って、ニール書簡( 国書 ) を藩主に見せた。
藩主は直ちに返書を家老に書かせ、「 薩州政府 」 の名でその日のうちにニールに送った。 藩では
「 わが方の外人応接公館で、話し合いをしたいので、幹部の方々は上陸して欲しい。 水や野菜・燃料
などの希望があれば届ける。 」
と、返事した。
これに対するニールの返事は、上陸して交渉することは断るが、薪水・卵・野菜・菓子などを求めたいので周旋をお願いしたい、というものであった。
その夜、キューパー中将は、旗艦ユアライアルス号の艦長ジョスリン大佐、副長ウィルモット少佐、パール号の艦長ボーレス大佐、工兵大尉プラインらに命じて、艦載ボートをもって湾内の諸所を偵察させ、薩摩藩の汽船三隻が停泊しているのを確認した。 これは薩摩が三十万八千ドルで外国から買ったものである。
一方、城中二の丸においては、この二十八日の夜、久光、忠義らが列座して、軍議が開かれた。
薩摩は謀るところがあった
第一案は、ニール以下幹部が上陸し、外国人応接公館に入ったら、すぐに門扉を閉ざし、夜半一同が寝静まるのを待ち皆殺しにし、館に火を掛けるという計画であった。
これは、イギリス人が警戒して、上陸を拒否した事で実現には至らなかった。
第二案は、軍艦七隻を奪取し、イギリス兵士を全滅させ、藩の武威を示そうとする計画である。
久光は、生麦事件の当事者である奈良原喜左衛門と有村武次( 海江田信義 )を呼んで、その為の実行策と人選をかれ等にまかせた。
翌二十九日の朝、薩摩藩は側役伊地知貞馨( のち 琉球在番、太政官修史局に入る ) と伊地知正治( のち 伯爵 ) の両人を 旗艦ユアライアルス号に派遣し、ニール等に上陸をしきりに勧めたが、イギリス側は警戒して上陸を強硬に拒み、旗艦またはハヴォック号を海岸近くに停泊させ、その艦上において会談を行なうことを強く主張したので、第一案は実現不可能となった。
そこで第二案が浮上することになった。
奈良原と海江田は、二の丸において家老の小松帯刀、町田民部らと軍議を開き、藩士の中から決死隊をつのり、スイカや鶏などを積んだ八艘の小舟に分乗して、旗艦ユアライアルス号に二艘、他の六隻に一艘ずつ向かい。 スイカ売りの商人に化けた決死隊は、それぞれの軍艦に乗り移り、砲台からの号砲の合図とともに、イギリス兵を襲って軍艦を奪うといった 「 スイカ売り決死隊 」 作戦なるものを立案した。
奈良原と海江田は この計画を久光に具申したところ、久光はこの計画に賛成したが、合図の号砲には 艦を傷つける恐れがあるので、実弾ではなく空砲を用いよ という指示を与えた。
この決死隊は、志願者の中から選定された。 確定的な人数は定かでないが、七七名から八〇名、九六名など諸説がある。
スイカ売り決死隊に選ばれた者は、二の丸の玄関先に集合し、広庭で藩主より門出の酒肴を賜り、めいめい小茶碗で酒をグイ飲みしたあと下町会所に行って身支度をした。
二十九日午後三時頃、スイカ売り決死隊は、イギリス艦隊へ向かった。
この中には、若き日の黒田清隆(きよたか) ・大山弥助( 巌(いわお)、のち侯爵 ) ・西郷信吾( 従道(つぐみち)、のち公爵 )・篠原国幹(くにもと)( 西南戦争で戦死 ) などの姿も見られた。
それぞれ小舟に分乗して各艦に向かったが、眼光するどく、決死の形相のスイカ売りたちは、イギリス士官に警戒され、手招きでそのようなものいらないとことわられ、乗艦は出来なかった。
しかし、旗艦ユアライアルス号に向かった奈良原・海江田を乗せた二艘は、押し問答のすえ、藩の正式回答も持ってきていると答えると、代表の乗艦が許された。代表が乗艦するとき、同時に多数が乗り込んだ。
ユアライアルス号では 四〇名ほどの日本人が乗り込んできたので、反対側の甲板には銃剣を携えた兵士が整列して始終警戒をおこたらなかった。
交渉役の三人だけが ニールに会って、イギリスの要求に対する藩の回答書を手渡した。
「 生麦事件の犯人はその場で逃走してしまった。 探しているが、いまだに行方不明である。
捕らえたらすぐにイギリスに引き渡す。 また、賠償金の件は、幕府からまだ何も言ってきていないので、
今すぐ支払う訳にはいかない 」
というものであった。
事件の真犯人 奈良原・海江田は目の前にいる、まことに人を食ったような返事である。
ニールは怒ってみたが、どうにもならない。
決死隊は、合図の号砲を、今か今かと待ったが 砲声は一向に聞えない。 いらいらしているところへ、藩から伝達の小舟が近づいてきた。 「 ひとまず引き揚げろ 」 ということであった。 他の六隻には、警戒されて乗り込めなかったからである。
薩摩のスイカ売り決死隊のイギリス艦への斬り込みによる敵艦奪取作戦は、このようにして失敗した。
決死隊が引き揚げてから、イギリス艦隊は警戒を厳しくし、藩のほうでも、事の成り行きを静かに見守っていた。
ニールは、話し合いによる平和的な手段では 解決は最早不可能と判断し、このうえは兵力を使い、強行手段に訴える以外にないと、キューパー提督に対してその旨を依頼した。
七月一日 午前九時頃、薩摩藩の使者( 伊地知ら二名 )がやって来た時、
「 回答は不満足なものであると考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ交渉に応じられぬ 」
と使者に告げた。
この日は 午後から天候が悪化、夜来の東風は次第に強くなってきた。
旗艦ユアライアルス号では 各艦の指揮官との打ち合わせが行なわれ、明二日払暁 戦闘行為を開始するので 準備に入るようにとの布達があった。
一方、薩摩側でも、開戦は最早避け得ないと判断し、この日、久光・忠義らは 千眼寺( 西田常陸山麓 )に移り、そこに本営を移した。 そして家族を 城外の玉里屋敷( 草牟田村 )に避難させた。 また市中も騒然として、避難者たちでごった返した。
つづく 次回