日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー80 ( 清河八郎  ・一之橋 暗殺一条ー下 )

2008-09-30 22:41:44 | 幕末維新
田中河内介・その79(寺田屋事件ー68)


外史氏曰

 清河八郎

 山岡鉄舟は 清河八郎が 暗殺されたのを知ると、義弟の 石坂周造を呼び、八郎が身に付けている同志の連判状と、その首級をとってくるように命じた。 其の時の状況は  『 鉄舟居士の真面目 』  圓山牧田 編 によると、以下のようになる。 ( なお文中、居士とは、山岡鉄舟を指す )

     『  文久三年四月十三日の夜。 清川八郎氏が赤羽根(あかばね) 橋で殺されし時。  
     其兇報(きょうほう) が逸早(いちはや) く居士(こじ) の許へ達すると。 居士直(すぐ) に
     義弟石坂周造氏 ( 氏は居士夫人の妹婿 ) を召(よ) び。 清川氏が肌身に着けてゐる
     同志の連判状と。 清川氏の首級(しゅきゅう) とを取って来いと命じられた。
     そこで石坂氏は宙を飛んで 現場へ馳(は) せ付けて見ると。 幸(さいわい) に未だ検視の
     役人は出張せず。 町役人等が見張番をして居(ゐ) る所であったので。 念の為め
     町役人に コハ何人(なにびと) であるかと訊(き) き。 町役人が清川八郎なりと答ふるや。 
     石坂氏は突然一刀引抜き。 大音声(だいおんじょう) でヤア年来探し居(い) たる不倶戴天
     (ふぐたいてん) の敵(かたき) 清川八郎奴(め) と喚(よ) ばゝりつゝ。  清川氏の
     首級(くび) 打落とせば。 町役人等驚(おどろき) 慌(あわ) てゝ駆(かけ) 寄らんとすると。
     石坂氏は血刀(ちがたな) 振翳(ふりかざ) しハッタ睨(にら) んで。
     吾(わが) 仇打(あだうち) の邪魔なさば汝(なんじ) 等(ら) も 亦(また) 敵(かたき) の一味。 
     鏖(みなごろ) しにして呉れんと身構へたので。 町役人等震(ふるえ) 上(あが) って
     後へ引退(ひきさが)る。其間に素早く清川氏の内懐(うちふところ)より連判状取出し。
     脱兎(だっと) の如く夜陰に没して馳(はせ)帰った。 而して連判状を居士(こじ) に
     手渡しゝ。  清川氏の首級(くび) は窃(ひそか) に地中へ埋めて了(しま) った。が若し
     此連判状が幕吏の手に入ったならば。 何かの罪名の下(もと) に。 居士を始め同志の者は
     皆捕縛され。 又清川氏も梟首(さらしくび) を免(まぬが) れなかったのであると。 』

 なお、文中、清川八郎とあるは清河八郎である。 赤羽根(あかばね) 橋は一之橋が正しい。  また連判状を取出した件は、後に石坂本人が書いたものにも、八郎の遺骸から五百有余人の連名簿を取り出し、これを収めたとある。 しかし、この件に関しては異説もある。 ( 『 官武通紀 』 には  「 殺害の節、連名帳を取り上げ、ただちに 御目付へ訴訟仕り候者これ有り 」 とある 。 )


【 石坂周造 】
 天保三年(1832) 信濃国水内郡桑名川村、渡辺彦右衛門の次男に生れる。 文久元年二月 (三十歳)、清河八郎と相知る。 維新後、明治四年、石油開発に転身。明治三十六年、七十二歳で死去。 東京・下谷の全生庵に墓が建てられる。

          
          石坂周造 晩年 ( 明治三十二年の撮影と推定される )
          ( 「石坂周造の研究」 前川周治 著 より )



清河八郎の首級及び遺骸のその後

 八郎の死は 直ちに 金子与三郎から 神田馬喰町の井筒屋にいる石坂と、小石川鷹匠町の山岡とに 知らされた。 石坂周造は、すぐ早駕籠で 馬喰町の井筒屋を出て一之橋の現場に走った。 馬喰町から 室町・日本橋・銀座・新橋、そして 金杉橋で古川を渡り、右折して古川に沿って 赤羽橋・中之橋、そして 一之橋へ、全行程は一里半、石坂は それこそ ぶっ飛ばした。 現場に着いた時には あたりは もうすっかり暗くなっていた。 柳沢家の人々が 高張提燈の下で、筵で覆われた 八郎の死骸を 監視しており、そのまわりには 人垣が出来ていた。 とっさに 奇計を思い付いた石坂は、念の為、監視人に この人は誰であるかと聞き。 清河八郎である と答えるや。 彼等の見守る中で   「 これは わが不倶戴天の仇である。 我にも一刀を報いさせて貰いたい 」    と 刀抜いて 清河の首をすばやく斬り取ると、八郎の着ていた魚子(ななこ) の羽織に その首を包んだ。 監視人達は 呆気にとられて 見ているだけであったという。 そこに 和田理一郎、藤本昇ら 十数人の同志も走りついたので、首を持って一目散に駈け出し、人ごみの中に姿を消した。 このようにして 山岡鉄舟宅に 八郎の首は持ち帰られた。
 山岡は 首を酒樽につめて 夜半に自宅の床下に埋めたが、夏になって悪臭がし始めたので、山岡・石坂両人は 密かに庭の隅のグミの下を 五尺ばかり掘下げて その首を埋め直した。 その後 山岡鉄舟が、親交ある伝通院の側寺である 処静院住職 琳瑞和尚の協力によって秘密裏に 之を 伝通院境内に葬った。 そして山岡は 私費で八郎の墓を建て、その側に前年獄死したお蓮の墓をも建ててやった。 一は 「 清河正明之墓 」 一は 「 貞女阿蓮之墓 」 の 二基の石碑で、共に 山岡鉄舟の筆である。

 その後、明治二年 斎藤家 ( 八郎の弟 熊三郎による ) では、郷里 清川村の歓喜寺に 分骨して別に墓を建てた。 「 正秀院殿忠正明居士 」 がその法号である。


          
         清河八郎の墓( 小石川伝通院・東京都文京区小石川 )
       八郎( 中 )、お蓮( 左 ) ( 「清河八郎」 成沢米三 著 より )


          
         清河八郎の墓( 歓喜寺・山形県立川町清川 )
       清河八郎( 右 )、お蓮( 左 ) ( 「清河八郎」 小山松勝一郎 著 より )


 一方、八郎の遺骸の方は 久しくその行方が判らなかった。 八郎の弟 熊三郎は 八郎の一味と見られていたので、八郎暗殺後 すぐ捕えられて入牢していたが、明治二年に出獄した。 出獄後 直に藩吏の手を経て 遺骸の所在を舊幕府の役人に尋ねたけれど不明であった。 ところが明治四十五年、図らずも その遺骸の存在場所が判明した。 それは 此の年四月十四日、浅草伝法院で正四位を追贈された八郎の 五十年祭を営んだ時、祭典に列座した一老人の談話により 判明したのである。
 その老人は 麻布霞町の 柴田吉五郎で、十一歳のときに 八郎暗殺の現場を見た一人であった。 其の時には、遭難者の首は 未だついていたとのことである。 幾月か経って吉五郎は、遭難者が 清河八郎という 偉い人であるという事、並びに屍骸は 柳沢家の手で 麻布宮村町正念寺に葬られたという事を聞き知った。 その後、正念寺は 明治二十六年十月に廃寺となり、その寺籍は 同町長玄寺に合併された。 其の時に 柴田老人は 檀家総代として万事を処理し、無縁の白骨凡そ三万を、下渋谷羽根沢の汲江寺に移葬して 無縁塚を建てた。 八郎の遺骨もその一部分となっているので、この話を聴くや否や、八郎の遺族 斉藤治兵衛は、四月二十日に 汲江寺を訪れ、その塚の土を掘って 甕に納め、之を伝通院境内の墓石の下に葬った。( 「清河八郎」 大川周明 著による )


幕府は何のために清河八郎を暗殺したのか

 清河八郎の掌中にある浪士組に、幕府を無視して、朝廷から 攘夷の勅諚が下ったことが 最大の要因である。 幕府は、和宮降嫁を願う条件として 攘夷を行うことを 朝廷に確約していたが、そもそも 幕府には 攘夷をやる気など 当初より 毛頭なかった。 それに 清河八郎は 朝廷より 直接攘夷の勅諚を賜っているのであるから、極端を考えれば、幕府と無関係に 独立独行で 攘夷を行うことも出来る。 しかも当時の攘夷は 討幕と極めて近い関係にあった。 清河八郎は 文久三年四月十五日を期して 五百の浪士を動員し、横浜を襲撃して外国人を斬殺し、甲府を本拠として 討幕の義兵を挙げる計画を進めている。 幕府にとって清河八郎の存在は 最早許されるものではない。 これが暗殺の主因である。
 次に 小栗上野介が、偽浪士を使って 江戸市中を騒がせ、悪名を 清河八郎 並びに浪士に負わせようと画策した事が 却って裏目に出て、清河や浪士組に対して申し開きが出来なくなった事も 多少の要因になったかも知れないが、主因は 何と言っても 勅諚問題そのものにあった。

 もし 清河八郎が 幕府の詭計に斃されなかったならば、彼は 浪士組を率いて 幕府と衝突し、寺田屋事件で一蹶した京都挙兵のやり直しを、さらに 一層大きな規模で展開し、維新史上に 著大の事件を仕遂げたことであろう。 その意味でも、一人の人間の死により、幕末の歴史が大きく変ってしまったと言っても 過言ではない。 清河八郎とは それ程の人物であった。


金子与三郎の事

 八郎は 予てより 金子とは 別懇の間柄であった。 金子は、学問も気力も共に 抜群の士であったから、八郎は このような金子に 何事も打明けて相談していた。 但し 山岡は 八郎が余りに金子を信用するのを 警戒していた。 浪士組の一人であった 草野剛三、即ち 中村維隆の自伝にも、山岡が八郎に向って、金子の招宴に応ぜぬよう忠告したと書いている。――-

     『  鉄太郎及び浪士の領袖等これを聞き、曰く 近時幕吏の状を窺うに、挙止の疑うべき住々
     あり。 且与三郎なる者は、水野閣老の文学教授の職に在りて信任せらる。 卿彼と断金の
     交あるも、彼の反覆測り難し。 君子は危きに近づかず、殊に積年の宿志を達するに
     近きに在る吾人は、進退動止最も持重(じちょう) せざるべからず。 卿が今日の行、
     甚だ之を危ぶむ。 願わくは之を謝絶せよと、蝶々勧告するも聴かず。 然らば同志二三を
     同行すべしと。 亦肯んぜず  』  と。
 
 山岡 及び 友人の此の忠告は、遭難当日の事でなく、恐らく 数日以前に 金子からの招待を 話した時のことであろう。 而して 諸友の心配は 不幸にも 事実となったのである。 ( 「清河八郎」 大川周明 著 )

 金子が 八郎の謀殺に与っていた第一の証拠は、上山藩士 増戸武兵衛の談話  ( 史談会速記禄 第百四十四輯(しゅう) 掲載 ) で明らかである。 これは 清河八郎伝には 貴重な資料であるが、長くなるので、その紹介は ここでは省略する。 要するに 金子が 八郎の暗殺に 関与していた事は、間違いが無いという事を、数例の事実を挙げて 延べているのである。

 また 八郎が暗殺された 二三日後、八郎の弟 斎藤熊三郎が、清河八郎が 金子に預けて置いた著述物を 金子宅に 受け取りに行った。 其の直話によれば、金子に会ったら 兄の仇を討つ積りで、決死の覚悟を抱いて出かけた。 金子宅に着いて 名を通じると、暫く待たせた上で 客間に案内された。 入ると 金子の左右には 壮士数名が並んで 守護している。
 そんな訳で 刀を抜くことも出来ず、只 著述物の入っている行李だけを受け取り、無念の涙を呑んで帰ったという。

 蓋(けだ) し 金子は、たとえ 勤王攘夷の志はあったとしても、断じて討幕の精神はない。 彼は 八郎に討幕の志があるのを知り、且つ 攘夷決行の企図を打明けられ、幕府のために説得されて 謀殺に加わったものらしい。 当時の人も皆 金子が関係しているものと 信じて疑わなかった。 ( 「清河八郎」 大川周明 著 )

 清河八郎には 日記類も含め 著作が大変多い。 ともあれ これらが無事に 後世に伝えられたことは 不幸中の幸であった。 これにより 現在 我々は、清河八郎その人の 人となり、および 幕末史の重要な一部分を かなり明確に 知る事が 出来るのである。


                  つづく 次回


最新の画像もっと見る