随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

みちのく紙

2006-06-30 11:54:15 | 紙の話し
和紙の歴史 


(三)物語文学と和紙


みちのく紙

平安時代には、漢字を使用する男性は楮の穀紙、かな文字を使う女性は陸奥紙(檀紙)を使用したという。
『源氏物語』には、

「みちのく紙の 厚肥たるに 匂ひばかりは 深からしめたまへり」

『枕草子』には、

「白き清げなるみちのく紙に いとほそうかくべくはあらね 筆して文かきたる」

と、記されている。
 平安後期以後の檀紙は、ダンシと読まれ、原料も楮を原料とした紙で、天平時代の檀紙と別ものであるという説があるが、別の説では、もともと楮を原料とした木綿を原料とした、真木綿紙が転訛して「まゆみ紙」となったという。
江戸時代中期の高名な学者でる新井白石が、宝永二年(1705)に著した『紳書抄』に、

「壇紙は陸奥より始まりける也。俗に引合と云ふは是也。男女の心を通ずる玉章に 此の紙を用ゆる故に引合とは申すとかや。」 

とある。玉章とは手紙のことである。 
また、文化二年(1805)刊の谷川士清著『和訓栞』に、

「ひきあはせ 壇紙をいふ。男女の志を通はす艶書に此の紙を用いしより名づくと いへり西土の書に松皮紙と見えたり。」

とある。松皮紙という名は、壇紙の表面に繭のような荒くて艶のある皺が波打っているところから呼ばれた別名で、鎌倉時代に中国(元)へ輸出され、中国では松皮紙と呼ばれた。
伊勢貞丈の『貞丈雑記』弘化二年(1845)t刊には、

「引合と云う紙は 昔は有て今はなき紙也。色うす黒き紙なる故 うす墨紙とも云ふ。また、陸奥国より出し故 みちのく紙とも云ひし也。」

とあり、また『源氏物語』にみちのく紙とあるのは引合のことであり、うす墨紙も、『源氏物語』須磨の巻などに出ていると書いている。そして、うす墨紙には、引合と宿紙の二種類あるとしている。
 さらに明治七年刊の『大言海』には、

「古へ、檀ニテ製セリトゾ。今ハ、楮ナリ」            

とあり折衷案をとっている。
 『和漢三才図絵』には檀紙について

「厚く白くして...松の皮 繭の肌ににる」
「大高・引合・繭紙・松皮紙などの数名あり。」               

とある。

楮紙ながら穀紙とはちがった紙肌であるため、わざわざ檀紙と命名した可能性が高い。雁皮紙のことを、わざわざその肌合いから鳥の子紙という感性からきたものと思われる。


絵巻物

2006-06-29 14:30:44 | 紙の話し
和紙の歴史 


(二)装飾経と絵巻物


絵巻物

文字ではなく主として絵を描いて巻物に仕立てたものが絵巻物である。
絵巻物形態はの源流はインドであり、中国経由で日本に伝えられた。それらは小判のものであったが、和紙の製紙技術の向上にともない、日本では大判の絵巻物が多く描かれた。
王朝文化とともに発展した大和絵は、屏風絵などとして残っているものはほとんどなく、絵巻物として今日まで残っている。
絵巻物は、紙を横に長くつないで、情景や物語を連続して動的に展開する絵画形態である。
日本での絵巻物の源流は、奈良時代に作成されたもので、仏教説話を主題としている。平安中期からの絵巻物は、王朝文学の物語、説話、歌などの絵による展開を主流とするようになった。内容を述べる詞書とそれに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。

物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『栄華物語』などの文学作品を、独特の表現力で活写している。
 特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩できらびやかな貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹き抜け屋台で描かれており、当時の住まいの状況や建具の使用状況などが一望できる貴重な資料となっている。
 優美な草書体の詞書と絵画を交互に配し、その料紙は紫・紅・黄・青などの淡い間色に打雲やぼかしを加え、金銀箔や野毛、砂子を撒き、さらに松や柳を描き添え、梅花や蝶などの図をあしらった、素晴らしい装飾が施されている。文学と絵画と書道そして料紙の工芸美とで作り上げた総合芸術作品といえる。 
中世には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社の縁起や僧伝の説話絵巻などが多く作られた。





 装飾経

2006-06-27 14:14:12 | 紙の話し
和紙の歴史 


(二)装飾経と絵巻物


装飾経

奈良時代は仏教を「鎮護国家」の基本に据えて、その普及に努め、写経事業も大規模に進められた。これらの写経料紙は、染めて使うのが主流で、主に黄染紙であった。紙を染めるのは、聖なる教典を書き写すため、より美しくするためと、虫害を防いで長く使用するためであった。
より荘厳さを持たせるために、紫紙に金銀泥で書いた装飾経も作られるようになった。この紫紙金字経などから、金銀箔や金銀泥で装飾することがはじまった。このように染めたり、金銀箔をちりばめる加工は、天平文化の中で花開いた。
奈良時代の紫紙金字経に対して、平安時代には紺紙金字経が多く作られた。

 詠草料紙にも紺紙に金銀箔を散らし、金銀泥で書いた者があるが、写経料紙にはもっと細かい技巧が施され、金泥で界線を引き、あるいは金箔を細く切った切金を界線としたものもある。
きらびやかな装飾経の最初といわれ、紫紙、紺紙などに金銀泥で書き、また金銀の切箔・野毛・砂子を散らし、下絵には蓮華をはじめいろいろな草木を配して壮麗な装飾を施したものが装飾経である。
平安時代には、権勢を誇った貴族の手で写経が進められ、浄土信仰と相まって盛んになり、競って装飾経が作られた。此の当時の日記には、写経荘厳、荘厳華美、珍重無極等の文字が示されている。
現存する装飾経で著名なものは、大治元年(1126)藤原清衡が発願してつくつた紺紙金銀泥一切経で、銀界線を引き、金字と銀字を一行おきに交書きしている。


流し漉き

2006-06-26 12:18:32 | 紙の話し
和紙の歴史  (2)和紙の伝統文化


(一) 紙屋院と和紙の成立


流し漉きの確立

 平安時代に入ると、山城国の紙戸が廃され、大同年間(805~809年)に「紙屋院」という(「しおくいん」とも読む)官立の製紙工場が作られ、日本固有の製紙法である「流し漉き」の技術が確立されている。     
 紙を漉く時に、揺すりながら紙の層を形成する方法で、中国の静置して脱水する「留め漉き」と異なり、「ネリ」と呼ばれる植物の粘性物質を使用する事に特徴がある。紙料(叩解の済んだ原料)を水に分散して、とろみのような粘性の物質を加える。ネリを加えることにより、水の粘性があがり、簀の子からの脱水がゆるやかになり、繊維が簀の子の上に均一に並び、薄い紙を漉くことが出来る。さらに、簀の子へのくみ取りが数回に渡ってもうまく層が重なり合い、厚みも自在に調節できる。まさに製紙の画期的な技術革新であり、名実ともに和紙の誕生であった。「ネリ」はノリ,タモとも呼ばれ、ニレの皮やサネカズラの茎の外皮などから作られた。のちに、黄蜀葵の根や糊空木の皮などから作られた。
ネリを使用して漉きあげると、漉きあがった紙を順次積み重ねて、水を絞り乾燥させたあと、一枚一枚に剥がせるという特性がある。そして乾燥して完成した紙には、「ネリ」の影響が全く残らない。




紙屋院

 紙は文化のバロメーターと言われるが、まさに平安時代は紙の需要が急速に拡大した時代であった。
これらの需要に対応するため、「図書寮」と直属の「紙屋院」が造紙技術の中心となって、各地の紙漉きを奨励育成して四十四カ国に及び、紙を生産しない国は数カ国に過ぎなくなった。
藤原時平選『日本三代実録』に、清和天皇崩御の後(880年)、東宮のご息女藤原朝臣多美子が、帝から賜った御筆手書を集め、「漉き返し」をして法華経を写書して敬慕供養を行ったとある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』で、反故紙を使って漉く薄墨色紙はこの事例をもって初めとしている。当時はむろん脱墨技術はなく、「漉き返し」を行うと薄墨色紙となった。
美濃国には延喜以来、官設の紙漉き場「紙屋院」があり、図書寮から役人が派遣され、色紙を抄造して、毎年京都へ送らせて宮中で用いられるようになった。
一条天皇の時代には、宮中で色紙を好んで用いるようになり、その製法も染紙や加工紙などさまざまなものが作られ、天皇の宣命料紙として、紅紙、緑黄紙などが用いられたと、『本朝世紀』正暦五年(995年)の条にある。

堺紙屋紙という名が史料に見られる。
 紙屋紙とは、本来奈良朝の「紙戸」、平安朝の「紙屋院」という官立の漉き場で抄造された紙の称で、紙の品質の高さの証明でもあった。ところが、平安末期の頃には、「紙屋院」では主として「宿紙」と称された、漉き返し紙を抄造するようになっていた。
 「宿」は、旧・久の意であり反故紙の漉き返しの意味に使われ、浅黒くてむらもあり薄墨紙・水雲紙ともいわれた。そして、いつの頃からか漉き返し紙の宿紙を紙屋紙と称するようになっていた。堺紙屋紙は、宿紙である。

 かって輝かしい名であった紙屋紙は、古紙再生の漉き返し紙の宿紙の代名詞となっていった。
この背景には、律令体制の衰退とともに、荘園で盛んになった紙漉きに原料が使用されて、図書寮では原料の確保が年々難しくなった事による。
宿紙の代名詞となった紙屋院は、中性の南北朝期に廃止された。
文治元年(1185)平氏が壇ノ浦で滅び、源氏の鎌倉幕府が成立して、きらびやかで消費的であった王朝文化から、粗野ながらも質実剛健な武家社会が台頭した。紙の消費層も、公家・僧侶から武家・土豪に広がり、実用的な丈夫な紙が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃紙などが流通した。
紙作りの主流は、荘園や守護地頭の下に移っていった。



 世界最古の印刷物

2006-06-24 22:27:02 | 紙の話し
 和紙の歴史  (三)紙の伝来と国産化


世界最古の印刷物                         

 この時代の特筆すべき事項として、宝亀元年(770年)に、百万塔陀羅尼経が完成している。(『続日本紀』)
この百万塔陀羅尼経が、現存する世界最古の印刷物とされている。
印刷の方法は、陽刻に彫った版木に墨を塗り、その上に紙を乗せて摺ったと考えられている。逆に、紙を下にして捺印したという説もあるが、版は陽刻(版が凸状のもの)である。
捺印の歴史は古く、古代オリエント、ギリシャ、ローマ、中国でも印章として使用された。紙以前の印章の版は、すべて陰刻(凹状に溝を彫ったもの)であった。紙が使用されるようになってから、400~500年後に陽刻が登場したといわれている。木版が初めて歴史に登場するのは、随の文帝十三年(593)で、天下の書物を集めて、木版で刷るように命令したという。
書籍の出版が盛んになるのは宋の時代(960~1127)で、その末期(1045年頃)に、畢竟 が陶製の活字を発明したとされている。その後、木製活字が開発され、後代の明になって鉛や銅などの金属活字が作られるようになっている。

陀羅尼は、サンスクリットの写音で、仏前で唱える呪文のことである。
 百万塔陀羅尼経が刷られた紙は、穀紙または黄麻紙などさまざまで、虫喰いを防ぐために黄檗汁で染められている。図書寮やその付属の山城国の紙戸だけでの抄紙能力では不十分で、各地の紙漉き場が動員されたであろう。  
 百万塔陀羅尼経は一行が五文字で統一されており、紙幅が4.5Cmで長さは陀羅尼の種類により一定していないが、15㎝~50㎝ほどである。  
 百万基の小さな三重の塔は、中国渡来のロクロを使用した木製の塔で、陀羅尼の摺り本が納められている。
 この百万塔は、法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺など名だたる十大寺にそれぞれ十万基ずつ分けて納められた。完成するのに6年の歳月を費やしている。  十大寺に分置された百万基の内、現存しているのは法隆寺の四万数千基と、他に博物館や個人所蔵のものが若干残っているだけである。

百万塔の一大事業は、称徳天皇が、藤原仲麻呂の乱を平定したあと、乱に倒れた多くの人々の鎮魂と、国内平和を祈願して発願された。
称徳天皇の名は、再即位したときの名で、最初の即位は孝謙天皇で、女性の天皇として有名である。また彼女が征伐した藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫であり、彼女の母方の祖父も同じく藤原不比等である。つまり血のつながったいとこを粛正したのである。このような複雑な政治的な背景の下に、百万塔の一大事業が発願されたのであった。


 彩色加工紙

2006-06-23 09:40:36 | 紙の話し
和紙の歴史  (三)紙の伝来と国産化


彩色加工紙                             

 『正倉院文書』天平勝宝四年(753年)には植物で染色された、五色紙・彩色紙・浅黄紙などの十数種類の色紙と、金銀をさまざまにあしらった、金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙などの十数種類の加工紙の名がある。
この他に『正倉院文書』には多くの紙の名が見える。           
 原料名を示す麻紙・斐紙・穀紙などの他に、紙屋紙・上野紙・美濃紙などの産地名や固有名詞を冠するもの、加工法を表す打紙・継紙(端継紙)、形と質を表す長紙・短紙・半紙・上紙・中紙、他に用途を示す料紙・写紙・表紙・障子料紙(明かり障子ではなく間仕切り総称としての障子にはるもの)、染料の名を示すもの、色相を示すものなど実に多くの紙の名が見える。
 図書寮が置かれ、官庁の紙の需要増大に対応して、年間の造紙量を二万張(幅二尺二寸長さ一尺二寸)と規定し、さまざまの造紙の工夫がなされるようになった。官営紙漉き場である図書寮とその付属の山城国の五十戸の紙戸が指導的立場で、写経用紙をはじめ夥しい色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが抄造され、華麗な天平文化の一翼を担った。


国産化初期の紙

2006-06-22 12:08:54 | 紙の話し
和紙の歴史 (三)紙の伝来と国産化


国産化初期の紙

最も古くから漉かれた紙は、麻紙で原料は大麻(Hemp)や苧麻(Ramie)の繊維や、麻布のボロや古漁網などから漉かれた。
 麻は繊維が強靱なので、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦りつぶしてから漉いた。漉きあがった麻紙は、表面が粗いので紙を槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平滑にした。つぎに空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布する。さらに墨のにじみ(遊水現象)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行う。取り扱いが難しく、次第に楮に取って代わられ、一時期は消滅してしまった。

麻と同様に繊維が強靱で、しかも取り扱いが易しい、増産に適した穀紙と呼ばれる楮を原料とした紙が次第に普及していった。
 穀は梶の木のことで、楮の木とも書き、楮と同属の桑科の落葉喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用する。抄造は麻紙と同様に煮熟して漉いた。繊維が長くて丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずにそのまま用いられた。紙のきめや肌がやや荒いが、丈夫で破れにくく、衣食住のさまざまな分野に応用されて使用されていくことになる。
『正倉院文書』の神亀四年(727年 奈良時代)の写経料紙帳に、麻紙、穀紙、染紙が使用されたとある。                      
 同じく天平十九年(747年)の条には、斐紙の名が見られる。斐紙は雁皮紙のことで雁皮を原料とした紙で、繊維が短く光沢があり、きめの細かいつやのある紙になる。さらに天平二十年には檀紙の名が見える。檀は真弓とも書き、主に弓を作る材料に利用されたニシキギ科の落葉亜喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用する。檀紙は陸奥紙とも書き、みちのくのまゆみ紙といわれ、厚手で白色の美しい紙であった。  



 図書寮(ずしょりょう)

2006-06-21 08:41:21 | 紙の話し
和紙の歴史  (三)紙の伝来と国産化


図書寮(ずしょりょう)

紙漉きの技術の伝来から一〇〇年程してから、本格的な紙の国産化が始まり、天平九年(737年)には美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙が漉かれるようになった。(『正倉院文書』)
大宝律令(701年)によって国史(『古事記』『、『日本書紀』)や各地の『風土記』の編纂のために図書寮が置かれ、紙の製造と紙の調達もその職務に定められていた。
 図書寮では34人の人員の内4人が紙漉きの造紙手で写書手が20人いたと記録されている。更に図書寮の下に、山背国(山城国)に「紙戸」と呼ばれる平民の紙漉き専業家を置き、租税を免除して官用の紙を漉かせた。この他にも各地で紙を漉かせて、これを付加税として徴収していた。
618年に随を滅ぼして唐が建国され、その10年後には唐は全中国を統一している。第一回目の遣唐使は、630年に派遣されている。
ついでながら、唐の影響で初めて年号を定めて、大化元年としたのが、645年であった。いわゆる「大化改新」である。
遣唐使は多量の漢籍や仏典の輸入を伴い、これらを写経して諸国に配布して、仏教の流布を行うため国分寺.国分尼寺が建立された。        
 天平十一年(739年)頃には写経司という役所が設けられ、写経事業の推進のために紙の需要がさらに拡大していった。
『図書寮解』宝亀五年(774年)の記録によると、紙の産地として、美作(岡山北部)、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総(千葉)、武蔵(東京,埼玉)、美濃、信濃、上野(群馬)、下野(栃木)、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江の19カ国に及んでいる。

昭和三十六年に、平城京や長岡京跡の発掘調査が行われ、40点の木簡が出土して話題を集めたが、その後の発掘の進展で数万点の木簡が出土している。平城京遷都が710年で、長岡京への遷都が784年であり、紙はかなり普及していたはずなのに、この時代の遺跡から夥しい木簡が出土している。
ただ出土している木簡は、一簡に書かれたもので、それを紐でしばる册の形の物はないようである。木簡が紙より優れている点は、雨に濡れても破れる事がなく、紙より丈夫で価格が安い。商品の流通に伴う荷札などの用途には、木簡の方が機能的に優れている。また心覚え程度の記録なら、手身近な木簡の方が、安くて便利であったのであろう。



 書物の初伝

2006-06-20 09:42:57 | 紙の話し
和紙の歴史  (三)紙の伝来と国産化


書物の初伝

日本への製紙技術伝来以前に、むろん紙そのものは書物としてもたらされているはずである。                        
 応仁天皇十六年(285)に百済の王仁が『論語』十巻と『千文字』一巻を伝えたのが、日本における書物の初伝とされている。(『古事記』)       
 ところが、『千文字』の作者は、応神天皇よりも百年も後の人で、太安万侶(おおのやすまろ)の『古事記』の内容には誤りがあり、はっきりしないが、四世紀から五世紀には書物として、紙が伝来していると推測されている。
西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から140年以上も経過している。
またこの時代は、製紙法が秘密にされていたのである。
すると、高麗王が、製紙技術者を日本へ派遣したのは、希有の暁光であったと言わざるをえない。
高句麗王朝は古く、蔡倫が紙を発明する以前から成立しており、後漢の王朝と親交があった。このために、最初に製紙法が伝えられたと考えられる。
飛鳥時代は、朝鮮半島から仏教やさまざまの技術や文物などがもたらされ、人の交流も盛んな時代であった。このような状況が、製紙の伝来を、西方世界よりいち早くもたらすという事になったのであろう。


 紙漉きの伝来

2006-06-19 09:20:48 | 紙の話し
和紙の歴史  (三)紙の伝来と国産化


紙漉きの伝来

製紙の日本への伝来は、地理的条件からヨーロッパへの伝来に比較して500年以上も早く、飛鳥時代の610年に高麗僧「曇徴」(どんちょう)によって紙漉きと墨の製法が伝えられた。(『日本書紀』)

「・・・高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また能く彩色及び紙墨を作り、併せてみず臼(水車を利用した臼)を造る。」

と、ある。                             
 高麗王が、先進技術者の二人の僧を日本に派遣したのである。
水車を利用した石臼は、紙漉きの原料の麻のボロや麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ためのものであろう。
石臼とは碾き臼のことである。二枚の円形の石を重ねて擦りながら回す、いわゆる「ロータリーカーン」のことで、西南アジアで小麦の栽培が普及し、小麦を粉にするために発明され、長い時間をかけて改良された。
 米食圏では碾き臼は必要でなかった。稲は脱穀し、木臼と杵でつくだけでよかった。小麦圏では、粉にするために石臼が発明され、さまざまの試行錯誤がなされた。当初はむろん人力で小型の石臼を動かし、次第に牛や馬の力で大きな石臼を回した。そして中央アジアで、河の流れを利用する水車で石臼を回す水臼が開発された。小麦圏には一気に広まったと考えられる。そして、シルクロード経由で中国にも伝えられ、紙の発明とともに、原料の麻の繊維の叩解に利用されるようになったと考えられる。

余談ながら、この水の流れを動力とした水臼の発明は、紙の発明にも劣らない偉大な発明であった。水臼は、人類が手にした最初の自然の力を動力として使った機械といえる。マルクスは『資本論』のなかで、

「すべての機械の基本形は、ローマ帝国が水車において伝えた。」

「機械の発達史は、小麦製粉工場の歴史によって追求できる。」        

と、述べている。