1942年(昭和17年)、日本銀行法が制定され、
「従前の兌換銀行券は、本法による銀行券とみなす」
旨の規定がなされ、兌換の文言は法的にも意味を失った。
つまり従来の「金兌換」の約束を、一方的に法律制定で破棄したのである。
つまりは、単なる政府保証の紙幣と位置づけて、表示金額相当の金貨との兌換を中止した。当初の「太政官紙幣」と同じ位置づけに移行した。
これにより、日本は名実ともに管理通貨制度へと移行した。
管理通貨制度とは、紙幣の発行金額に見合う保証物件としての金貨を準備しなくてもよい制度である。
むろん日本国内の経済事情から来ている。
満州事変以降、日本銀行券発行高の増勢が強まり、銀行券の大幅な増産が必要となった。このことから、様式・印刷を簡易化した銀行券が製造された。
1943(昭和18)年に発行された「ろ五円券」は、「日本銀行法」に基づく最初の日本銀行券で、紙面からは「兌換」の文字が消されている。
その後、日本では1988年、新「通貨法」施行で、金本位制度が完全に消滅した。
1940年(昭和15年)年末の日本銀行券発行高は、約47億7700万円となった。
そのうち正貨準備発行高は約5億円で、総発行高の約10%にすぎなくなってしまった。
このため政府は1941年(昭和16年)年3月、新しい法律を公布し、日本銀行券の最高発行限度を大蔵大臣が定める、最高発行額制限制度を導入した。
まことに政府の都合の良い制度にした。
これにより日本銀行券の発行限度は、議会に諮(はか)ることなく、大蔵大臣の権限で弾力的に変更できるようになった。
また、日本銀行券の発行高に対しては、同額の保証物件を保有すれば足りることとし、その保証物件も「金銀貨、地金銀、政府発行の公債証書、大蔵省証券その他確実なる証券または商業手形」とした。
これによって正貨準備発行、保証発行の区別は失われ、金は証券類と同格の準備となるとともに、日本銀行券は「大蔵大臣の定める限度内」であれば正貨保有の制約を受けることなく、発行できることとなった。
日本銀行は「国家経済総力の適切なる発揮を図るため、国家の政策に即し通貨の調節、金融の調節及び信用制度の保持育成に任ずる」、
「専ら国家目的の達成を使命として運営せらしむる」機関として位置づけられていた。
続く。