随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

お札の話  ②明治通宝(めいじつうほう)

2012-07-12 12:16:32 | 歴史
 


太政官札の発行のあと、近代国家の整備のため共通通貨として「円」を採用し、近代的紙幣を導入した。
このお札が「明治通宝(めいじつうほう)」で、1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた。
 新貨幣の呼称を円とするとともに、金貨を本位貨幣と定め、金1.5g=1円と定めたのである。新貨条例では、本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で1円銀貨(貿易銀)の鋳造と、開港場での無制限通用を定めていた。

 日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として有名である。
 ただ、まだ近代的紙幣の印刷技術がなく、偽造防止のためドイツ・フランクフルトの民間工場で製造された。このことから「ゲルマン札」の別名がある。
 これは「エルヘート凸版」による印刷が、偽造防止に効果があるとの判断からである。
太政官札1両を、明治通宝1円として交換された。
 やがて「明治通宝」に不便な事があることが判明した。
 まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったため、損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった。
その後、当初の契約通り技術移転が行われ、印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった。


儒教の影響

2005-10-10 10:16:47 | 歴史
李氏朝鮮では、十四世紀末の建国後ほどなく儒教を国教とし仏教を排斥した。
李氏朝鮮では、清を「天朝」と呼び、文明の中心(中華)として敬い、自らは小中華をもって任じ、儒教という文明国であることが誇りでもあった。 
李氏朝鮮は、儒教による身分制秩序の維持と、保守的・権威主義的思想で、五百二十年もの長い命脈を保った。

儒教思想の中心は、礼による社会秩序の維持であり、保守的・権威主義的な家族主義である。家族主義では、長幼の序にうるさく、長老が絶対的権威であり、目上の人が居る前では、許しがなければ物を言うことも許されなかった。
儒教は形式を重んじ、ときには形式そのものでもあった。

親への仕え方、祖先への祭祀、血族の序列や尊卑貴賤という、身分制度を固守すること。そのための形式こそ大切であった。特に李氏朝鮮では、中国よりもこの形式に厳格で、つねに他を論難しつねに自他を正すことが重要であった。
「礼は国の幹なり」で、人倫の秩序を守るための基本であり、上下の差別を重んじ、自他の差を服装や儀礼で装飾化することであった。
すべての行動規範は、先例主義であり保守主義であるから、新しい合理的な言動は許されなかった。 

儒教思想のもたらした保守的権威主義思想は、合理主義と相反する思想であり、儒教的社会秩序の維持は、中国大陸と朝鮮半島に実に長い停滞をもたらす原因となった。
中国や朝鮮半島では、科挙制度で儒教が思想の中心として二十世紀に至るまで支配的な思想でありつづけ、儒教思想か生活に染み込んでいる。

268年続いた清朝の後、近代化を目指した中国では、儒教との戦いが必要だった。
家族主義では、合理的な近代化ができず、毛沢東も孫文も儒教と戦った。それでも、厳然と儒教思想は残っており、儒教抜きには中国人や朝鮮人は語れない。
さて、儒教の日本に於ける影響についてである。
日本での儒教は、宋学(朱子学)として平安・鎌倉時代に輸入されている。
中国大陸や朝鮮半島では、知識階級は貴族と科挙制度による高級官僚のみであった。
しかし、日本では支配者が武士であったこと、仏教の影響カが強かったことなどにより、儒教の影響は限られたものになった。

戦国時代は、実力の世界であり、下克上の世界であり、実力で天下を統一していった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、儒教的貴種ではない人々は、儒教などの復古主義、形式主義、礼による社会秩序の維持や保守的・権威主義とは全く無縁であった。
日本は、中華思想で言えば辺境の蕃国であり、儒教の劣等生でもあった。

江戸時代に入って、朱子学はやっと幕府の官学となった。
孔子の思想は、何よりも社会秩序の回復と維持が基本にあり、幕府にとっては都合のよい思想だったのである。
しかし、日本の支配階級で有る武士は人口の一割程度に過ぎず、その他は農工商の庶民であっが、長男以外は家督を継ぐことができず、外に出る必要から読み書き算盤を始め寺子屋で、文字を習い書物を読んだ。
中国や朝鮮では、ごく一部の貴族のみが知識階級であり、残りは無学文盲の民であったのと異なっている。

もっとも数の多い農民の直接管理者は、武士では無く名主、庄家等であったが、彼らは国学の徒で有った。国学(こくがく)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。
国学は、それまでの「四書五経」をはじめとする、儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を、日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問である。

このように日本では、中国や朝鮮のように、儒教を官学として支配的な思想でありつづけたことがなく、儒教思想が末端まで浸透はしなかった。
このため、儒教のもたらす停滞と縁が薄く、明治維新後の近代化を容易に受け入れることができた。
ただ皮肉なことに、江戸幕府が朱子学を官学にしたことで、明治維新の成立に、朱子学が役立っているといえる。

宋学(朱子学)は、過度に尊皇を説き、大義名分論という色メガネで歴史を観、また理非を超えた宗教的な性格があり、異民族を攘(はらう)という情熱に高い価値をおいたイデオロギーであった。江戸時代末期の朱子学は、尊皇攘夷という単純明快なスローガンによって、国論が統一したことである。そのことによって欧米の植民地になることから免れたのである。

日本に於ける朱子学の最大の効用は、脱藩した勤王志士たちが、かつての藩主という主人を否定するという倫理的な負い目を持たずに済んだことである。
また、諸大名による革命勢力が、将軍を否定することにも、倫理的な負い目を持たずに済んだことであった。
本来、臣たるものが主人を否定するなど、不忠の極みなのだが、「朱子学的尊皇」という超越的価値によって藩主や将軍を否定できたのである。

さらには、幕末に広く唱えられた「一君万民思想」が、維新後の近代化を容易にした。
十二世紀末の宋学(朱子学)が、遙かに時代を超え場所を越えて、十九世紀の日本の近代革命に、その思想が影響を与え、功を示したといえる。
三百年近くも続いた封建制度の徳川幕藩体制を打ち壊し、近代民主主義の国家を作る思想的なエルネギーとなった。

ただ、「一君万民思想」の反面の罪は、昭和期に入り軍部や右翼勢力に利用され、結果として亡国の思想となったことである。
朱子学は、理非を超えた宗教的な空論的正確がつよく、宋に於いて皇帝は、絶対独裁という存在であった。
昭和軍閥が、脾弱な国力を激情的な空論でごまかし、さらに空論で自己肥大させ、やがて
天皇を日本史上空前絶後の絶対独裁的立場に奉り上げた。
さらに軍部は、「統帥権」なるものを振り回して軍部独裁に走り、亡国の道をひた走ったのである。



ミワ王朝と大己貴(おおみわ)神社

2005-10-03 01:09:47 | 歴史
博多のど真ん中、博多一番の繁華街「東中州人形町」で、祖父が和菓子屋を営んでいた。太平洋戦争末期に、福岡も再三空襲を受け戦時疎開で、やむなく一家揃って福岡県朝倉郡三輪町に移り住んでいた。
その戦時疎開先の三輪町時代に、私はもの物心ついた。
 
その筑紫の三輪町は、江戸時代には参勤交代の大名行列も通った、秋月街道沿いにあり、地元でも「おんが様」と呼ばれ、多くの人が参拝している大己貴神社(おおなむちじんじゃ)がある。この神社は、かつて「大神(おおみわ)神社」と呼ばれていたことから、「みわ(三輪)」という町名の由来になったとされる。

大己貴神社は、日本最古の神社といわれており、長い歴史を誇るがごとく三輪町に佇(たたず)んでいる。 
実はまことに不思議なことに、大和の「ミワ王朝」の発祥の地である奈良県桜井市三輪に、この筑紫の三輪町と全く同じ地名や、よく似た地名が多く、しかもその地名の方位まで同じ関係にある。
しかも、筑紫の三輪町に日本最古の神社といわれる「大己貴(おおみわ)神社」があるが、大和桜井市三輪にも、同様に日本最古の神社といわれる、別名「三輪明神」ともいう「大己貴(おおみわ)神社」が在るのである。
日本最古の神社が二つあるのは矛盾のようだが、それが同一地名にある同一名の神社だから、むべなるかなである。

さて、大己貴(おおみわ)神社のある、三輪を中心とした地名の関係である。
筑紫の三輪町の北方には、池田、その奥に三笠山があり、北北東には笠置山がある。
そして、大和の三輪にも、北方には、池田、北北東には御笠山があり、北東には笠置山がある。

筑紫の三輪町の東方向には、長谷山があり、そのすぐ東に加美があり、さらにその東方向に田原、山田市、上山田、そして鳥見山がある。
そして、大和の三輪の東方向には、長谷山があり、そのすぐ東に加美があり、さらにその東方向に田原、山田、上山田、そして鳥屋山がある。 

筑紫の三輪町の南東方向には、朝倉、香山、鷹取山、浮羽町がある。
南には、雲梯、筑前高田があり、西側には小田、三井があり、北北西に平群郡がある。
そして、大和の三輪の南東方向には、朝倉、天の香山、高取山、音羽山がある。西側には織田、三井があり、北北西に平群郡がある。

地名の位置関係も、筑紫三輪と大和三輪でほぼ一致しており、地名も殆ど一緒で表記が異なるものもいくつか有る。
三笠山が御笠山であり、鳥見山が鳥屋山であり、鷹取山が高取山であり、小田が織田となり、浮羽町が音羽山となり、星野が吉野等と若干の地名の違いはある。
しかし、三輪町を起点にした方角と、その方角にある地名が殆どうり二つなのである。
こんな偶然は、絶対にあり得ない。当然、筑紫の三輪あった地名に因んで、大和で名付けられたとしか考えようがない。

この筑紫にある三輪町の大己貴(おおみわ)神社と、大和にある三輪の大己貴(おおみわ)神社と、その方位まで一致する同一名の地名の存在など、不思議な一致に着目した学者がいる。
安本美典氏は、古事記、日本書紀などの解折から、卑弥呼と、大己貴(おおみわ)神社に祀られている、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、同一人物ではないかという説を発表している。

つまり、福岡県朝倉郡三輪町付近にあった、古代王朝卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国が、東に移動してやがてその後、大和地方の桜井の地に達して、その地形と邪馬台国発祥の三輪町との地形が酷似している所を選び、大和の三輪王朝を作ったと考えられる。
当然、筑紫時代の三輪と同一の地名や山名を、大和の地の同一方位に名付けたと思われる。
この稿を書くにあたり、三輪町を調べてみると大変なことになった。私のルーツは、なんとあの卑弥呼時代の邪馬台国が最初に作られたという、あの伝説の三輪町を発祥の地としている事になる。
  
福岡県朝倉郡三輪町にいた王朝が、大和の桜井三輪町の「ミワ王朝」の祖である事は間違い無いだろう。そして、三輪町で邪馬台国を創った人々は、渡来系で秦氏と言う説もある。すると何やら、三輪町の遠い先祖は、飛躍しすぎるが「秦の始皇帝」まで遡ることができるかも知れない。