阿波踊り①
夏休みといえば、盆踊り。
盆踊りといえば、やはり徳島の「阿波踊り」
熱気につつまれて「にわか連」で踊るたのしさ。
ところで、阿波踊りの囃子詞(はやしことば)に、
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」
とある。
阿波おどりは、見るよりも踊るほうがはるかに楽しい。
踊り方には基本があるが、振り付けを覚える必要はなく、初心者でもわずかな練習で踊りを楽しむことができる。
現在の徳島での阿波踊りは、「連」というグループ単位で隊列を組み、大通りには観光客のための桟敷(さじき)が設けられ、その観客席の桟敷(さじき)の間を踊り抜ける形式になっている。
むろん観光客も、「にわか連」に参加できるようになっている。
地元の連と一体になって、誰でもが楽しむことができる、徳島の最大の観光イベントとなっている。
阿波踊りは徳島県下全域で踊られていて、開催期間のお盆には徳島はまさに熱気に包まれる。
現在は、阿波踊り期間中に、130万人近い観光客が徳島を訪れる一大イベントに成長している。
阿波の盆踊りが盛んになったのは、蜂須賀家政が天正十四年(1586年)に、徳島藩主となってからであること言われている。
蜂須賀家政は、吉野川流域が米作に不適であることから、藍や塩、紙などの産業育成を図った。
阿波徳島藩は、表高こそ25万7千石だったが、藍のおかげで、のち実質45万石といわれるほどになった。
藩の財政が豊かになれば、とうぜん領民も、他郷に比べれば豊かになり、阿波踊りや、人形浄瑠璃などの、伝統芸能が育まれた。
徳島城下をはじめ阿波は、そのような芸所として伝統芸能が育まれ、個有の文化が展開したところである。
その背景には、阿波「藍(あい)」を中心とした商人の活動が、広範な全国市場を形成したことがある。
とくに十九世紀に入って、城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉をもとめて顧客が殺到した。
その接待の場となったのは色街であり、さまざまなもてなしの座敷芸能が磨かれた。
また諸国の芸能も受容され、阿波独特の創造を加え、阿波の諸芸として再生産された。
座敷芸、三味線流しや、ぞめき踊り(盆踊り)の変遷や、にわか踊りの波及にも、色街の果たした役割が大きかった。
藍商人が支援者となり、「盆踊り」は年ごとに規模が大きくなっていった。
そこで生まれたのが「組踊り」で、各町から数百人規模の集団で繰り出し、衣装や持ち物を競いながら、毎年、工夫を凝らした踊りを展開していった。
組踊りは、今の「連」の原型といえる。
「評判所」が設けられて、踊り審査が行われたため、次第に華美になっていった。
もう一つ「にわか踊り」がある。
これは店先で、一人ないし数人で、身ぶり豊かな即興劇を次々と演じ、終われば他の店へ駆けていく「走りにわか」や、歌舞伎役者の着る衣装やかつらを身に付け、寸劇を演じる「歌舞伎にわか」などいろいろあった。
この踊りも次第に華美になったため「組踊り」同様、徳島藩の取り締まりの対象となり、幕末になっていったん姿を消した。(つづく)
夏休みといえば、盆踊り。
盆踊りといえば、やはり徳島の「阿波踊り」
熱気につつまれて「にわか連」で踊るたのしさ。
ところで、阿波踊りの囃子詞(はやしことば)に、
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」
とある。
阿波おどりは、見るよりも踊るほうがはるかに楽しい。
踊り方には基本があるが、振り付けを覚える必要はなく、初心者でもわずかな練習で踊りを楽しむことができる。
現在の徳島での阿波踊りは、「連」というグループ単位で隊列を組み、大通りには観光客のための桟敷(さじき)が設けられ、その観客席の桟敷(さじき)の間を踊り抜ける形式になっている。
むろん観光客も、「にわか連」に参加できるようになっている。
地元の連と一体になって、誰でもが楽しむことができる、徳島の最大の観光イベントとなっている。
阿波踊りは徳島県下全域で踊られていて、開催期間のお盆には徳島はまさに熱気に包まれる。
現在は、阿波踊り期間中に、130万人近い観光客が徳島を訪れる一大イベントに成長している。
阿波の盆踊りが盛んになったのは、蜂須賀家政が天正十四年(1586年)に、徳島藩主となってからであること言われている。
蜂須賀家政は、吉野川流域が米作に不適であることから、藍や塩、紙などの産業育成を図った。
阿波徳島藩は、表高こそ25万7千石だったが、藍のおかげで、のち実質45万石といわれるほどになった。
藩の財政が豊かになれば、とうぜん領民も、他郷に比べれば豊かになり、阿波踊りや、人形浄瑠璃などの、伝統芸能が育まれた。
徳島城下をはじめ阿波は、そのような芸所として伝統芸能が育まれ、個有の文化が展開したところである。
その背景には、阿波「藍(あい)」を中心とした商人の活動が、広範な全国市場を形成したことがある。
とくに十九世紀に入って、城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉をもとめて顧客が殺到した。
その接待の場となったのは色街であり、さまざまなもてなしの座敷芸能が磨かれた。
また諸国の芸能も受容され、阿波独特の創造を加え、阿波の諸芸として再生産された。
座敷芸、三味線流しや、ぞめき踊り(盆踊り)の変遷や、にわか踊りの波及にも、色街の果たした役割が大きかった。
藍商人が支援者となり、「盆踊り」は年ごとに規模が大きくなっていった。
そこで生まれたのが「組踊り」で、各町から数百人規模の集団で繰り出し、衣装や持ち物を競いながら、毎年、工夫を凝らした踊りを展開していった。
組踊りは、今の「連」の原型といえる。
「評判所」が設けられて、踊り審査が行われたため、次第に華美になっていった。
もう一つ「にわか踊り」がある。
これは店先で、一人ないし数人で、身ぶり豊かな即興劇を次々と演じ、終われば他の店へ駆けていく「走りにわか」や、歌舞伎役者の着る衣装やかつらを身に付け、寸劇を演じる「歌舞伎にわか」などいろいろあった。
この踊りも次第に華美になったため「組踊り」同様、徳島藩の取り締まりの対象となり、幕末になっていったん姿を消した。(つづく)