随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

 図書寮(ずしょりょう)

2006-06-21 08:41:21 | 紙の話し
和紙の歴史  (三)紙の伝来と国産化


図書寮(ずしょりょう)

紙漉きの技術の伝来から一〇〇年程してから、本格的な紙の国産化が始まり、天平九年(737年)には美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙が漉かれるようになった。(『正倉院文書』)
大宝律令(701年)によって国史(『古事記』『、『日本書紀』)や各地の『風土記』の編纂のために図書寮が置かれ、紙の製造と紙の調達もその職務に定められていた。
 図書寮では34人の人員の内4人が紙漉きの造紙手で写書手が20人いたと記録されている。更に図書寮の下に、山背国(山城国)に「紙戸」と呼ばれる平民の紙漉き専業家を置き、租税を免除して官用の紙を漉かせた。この他にも各地で紙を漉かせて、これを付加税として徴収していた。
618年に随を滅ぼして唐が建国され、その10年後には唐は全中国を統一している。第一回目の遣唐使は、630年に派遣されている。
ついでながら、唐の影響で初めて年号を定めて、大化元年としたのが、645年であった。いわゆる「大化改新」である。
遣唐使は多量の漢籍や仏典の輸入を伴い、これらを写経して諸国に配布して、仏教の流布を行うため国分寺.国分尼寺が建立された。        
 天平十一年(739年)頃には写経司という役所が設けられ、写経事業の推進のために紙の需要がさらに拡大していった。
『図書寮解』宝亀五年(774年)の記録によると、紙の産地として、美作(岡山北部)、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総(千葉)、武蔵(東京,埼玉)、美濃、信濃、上野(群馬)、下野(栃木)、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江の19カ国に及んでいる。

昭和三十六年に、平城京や長岡京跡の発掘調査が行われ、40点の木簡が出土して話題を集めたが、その後の発掘の進展で数万点の木簡が出土している。平城京遷都が710年で、長岡京への遷都が784年であり、紙はかなり普及していたはずなのに、この時代の遺跡から夥しい木簡が出土している。
ただ出土している木簡は、一簡に書かれたもので、それを紐でしばる册の形の物はないようである。木簡が紙より優れている点は、雨に濡れても破れる事がなく、紙より丈夫で価格が安い。商品の流通に伴う荷札などの用途には、木簡の方が機能的に優れている。また心覚え程度の記録なら、手身近な木簡の方が、安くて便利であったのであろう。



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