随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

和紙の歴史  紙祖蔡倫伝 二

2006-06-15 13:47:27 | 紙の話し
(二)紙の発明と伝播


紙祖蔡倫伝 二

紙の発明者として名高い蔡倫は、宦官(かんがん)であったが故の、後宮の政治抗争事件に引き込まれ哀れな最期を終えている。
長い中国の歴史で、多くの人々が去勢されて宦官に仕立てられた
世界史でも中国にしかなかった宦官の制度は、去勢されて後宮に仕える官職で、主に罪を犯して宮刑(腐刑ともいう)に処せられたものが用いられた、との暗いイメージがある。事実、宮廷という密室の中で、政治的な暗躍を図り、私腹を肥やし事実上の政治権力を壟断した宦官も多い。
 しかし、数多い宦官には歴史に名を残した優秀な人材も多い。     
 『史記』で名高い司馬遷は、自己の良心に忠実な発言のため、武帝の怒りに触れて屈辱的な宮刑に処せられている。

宦官の歴史で、優れた宦官の双璧とされているのは、蔡倫と明の鄭和とされている。明軍が元軍を撃破して各地を制覇した時、将軍たちは明の皇帝に献上する美少年を物色し、十二歳の眉目秀麗の鄭和を献上品に選んだという。
鄭和の家系は、雲南のイスラム教徒の有力者で、チンギスハーンに従って功績があったという。敗戦国の奴隷のような立場で、皇帝への献上品にされてしまったのだろう。
 鄭和は去勢されて明の永楽帝に仕え、後にその才能を認められ、七回に渡るアラビヤ・アフリカまでの大航海の総司令官を勤めた。

さて、蔡倫のことである、字は敬仲、現在の広東省に近い湖南省南部の桂陽の出身である。去勢の経緯は記録に残っていないが、やはり少年の頃に去勢されたと推測されている。
後漢は幼帝が相次ぎ、皇太后の摂政が多かった。           
 蔡倫が仕えた和帝には、異母兄がいた。和帝の父の章帝の正妻の皇太后には実子がなく、和帝を実母から引き取って育てた。皇太后は和帝を即位させるために、すでに皇太子であった和帝の異母兄の劉慶の実母宋貴人(そうきじん)を陥れ、劉慶を皇太子の座から追放した。
この宮廷内部での政権争いの事件に、必然的に宦官である蔡倫が利用された。権力者の皇太后から事件の事実調査を命じられた蔡倫は、宋貴人に不利な結論を出さざるを得なかった。
章帝 が死んで、和帝が十歳で即位すると、和帝の育ての親の皇太后の天下となった。蔡倫は和帝即位後、宦官の幹部級の中常侍に昇進している。後にさらに昇進して、尚方令に任命され、その職務のなかで紙の発明を行うことになる。
 話は複雑に展開して行き、蔡倫はその出世の契機ともなった事件の因果で、時代が代わった時に、自刃に追い込まれるという哀れな最期を迎える事となる。
 権力欲の強い皇太后の摂政の下に、皇太后の兄達が実権を握り、政治を私物化していった。あまりの乱脈ぶりに、和帝もやがて危機感を抱き、逆クーデターを起こし、皇太后の一族を粛正した。このクーデターに力を貸したのが、皇太后により皇太子を廃された異母兄の劉慶の清河王であった。                          
 蔡倫が紙を発明して和帝に献上するのは、このクーデターの十三年後の事である。 紙の発明のあと直ぐに、和帝が二十七歳の若さで死ぬ。和帝の子供は皆幼児期に死亡しており、やむなく和帝の異母兄の清河王であった劉慶の子で十三歳の劉祐 が即位する。これが安帝である。安帝が即位したことが、蔡倫にとって不幸な結末になった。
 安帝はまれにみる暗君で、後漢の衰亡は彼に始まるといわれている。先帝の皇后が亡くなり、安帝の親政となると、まず手がけたのが四十年以上も前の祖母であった宋貴人の怨みを晴らすことであった。
かくして、安帝の祖母を陥れた本人が居ない以上、犠牲にされたのは当時の事件調査報告者の役割を演じさせられた宦官、蔡倫に他ならない。