随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

宇宙のパワーを身につけよう

2005-10-15 01:39:41 | 哲学
宇宙のパワーを身につけよう

心の態度が積極的であれば、不可能と思われることを可能にしてしまう。
心を明るく、朗らかに、生き生きと、そして勇気をもって新しいことにチャレンジしてゆくと、その心は宇宙の心と共鳴を起こし、宇宙の無限の力が、自己の生命の中で同化するのである。

宇宙は、その原則に基づいて、その進化と向上とを現実化させるために、人間をこの世の中へ生み出したのだ。したがって、人間がこの宇宙から与えられた使命を果たすべく、真剣に、誠実に、そして勇気をもって、失敗を恐れずに明るく励む限り、宇宙は彼にその絶大なパワーを与えるのである。

宇宙のパワーというと、なにやら新興宗教の文言のように聞こえるかも知れないが、そんな宗教的な話しではなく、この稿では謂わば自然科学の話しなのである。
問題は、宇宙から絶大なパワーが与えられているのに、それがまったく分からない人が多い。
宇宙のパワーを信じない人は、不可能と思われることを成し遂げた人の力を、また奇跡に近いと思われる偉業を成し遂げた人の力は、一体どこから来たと思うのだろうか。
失敗を恐れず、積極的に行動している人々が、みな、何故目的を遂げているのか。 

自分には最高の強い味方が付いている、これからいよいよ宇宙と自己の運命が一体になるのだ。今くじけたら、これまでの苦労が水の泡となる。さあ、本格的な晴れの舞台はここからは始まるのだ。
自分の心の中に、そんな強い言葉が燃え上がってくれば、疲れ果てていた心の中に、いやいや、まだまだ、自分はへこたれないぞと、また勇気が湧いてくる。そんなひたむきな心に、宇宙のパワーが注ぎ込まれ、信じられないような成果をもたらすのである。

宇宙のパワーを受け入れるところは、人間の心である。
心が明るく積極的で、進化と向上にとって正しく、清く大きな心のときには、宇宙のパワーも大きく注がれる。
ところが、自己の利得のみに心を奪われ、心が汚れていて小さくなってしまえば、パワーを受け入れることが出来ない。
もしも、あなたの心が、宇宙のパワーに気がついていなければ、即刻目を覚まして、自分自身を、素直に正しく見直ししてみなければならない。
そこで、この宇宙の恵みを悟り、心を清く大きく持って、何事にも積極的に取り組むことができれば、そのときから大量の宇宙のパワーを受け入れることが出来るのである。

今すぐそれを実行してみることだ。
周りの状況には全く関係がなく、己の心を大きく持って、積極的な心へ変えるだけでよい。
これによって、あなたは必ず生き生きと、香しい人生を享受することができる。
何の代償も必要とせず、たんにあなたの心を大きく、明るく、朗らかにして、失敗を恐れない心に転ずるだけでよいのだ。
まさに、キリストが伝えた言葉と同じで、信じる者は救われるのである。

人並みに仕事はこなしているが、絶えず不安につきまとわれ、何かに怯えたり、あるいは意味もなく右往左往して、迷い続けている。自分が何のためにこの仕事を一生懸命にやっているのか分からなくなり、いつも不満を抱え、いらいらしている。
こんな状況のときは、その心は汚れて小さくなっている。当然宇宙のパワーを受け入れる余地はない。

では、どうすれば善いのか。
まず、自分自身がいまどうなっているのか、じっくり腰を据えて、それをよく見つめよう。
しょうがないからやる、給料のために漫然と仕事を進めるだけでは、旨くいくはずがない。また、やっている自分自身も張り合いがない。惰性や義務感だけでは、何も生まれてこない。そこから先は、なにも見えない。

自惚れ、我が儘、小さな目先の欲望、怠惰、妬み、不満、根拠のない不安、自分にまとわり付いている、こうした汚れたものを全て払いの退けてみよう。
さっぱり垢を取り除いて、清らかになった自分を見つめ直してみよう。
心を汚している邪心、妄念を打ち払い、自己中心の損得を忘れよう。
そうして、見えてきた優しく、美しく、けなげな愛すべき自己の存在が見えてくる。
その心を大切にして、大きな心に育てることで、大量の宇宙のパワーを受け入れることが出来るのである。
自己を信じることは、すなわち自己を創造した宇宙を信じることなのである。


楽天的に陽気に生きる

2005-09-13 12:10:43 | 哲学
人間明日のことは分からない。
いや、極端に言えば、今日一日無事に終わるかすら、分からない。
朝、元気に家を出た人が、自動車事故、列車事故、飛行機事故など悲惨な事故に遭遇して命を落としている。精神に障害を持つ人に、突然襲われることも多い。何時、何が、何処で起きても不思議ではない。
 
事故に遭遇しなくても、突然死を迎えることもある。
友人で、5月の連休に元気に山菜取りに出かけ、小さな川原で突然死んだ男がいる。警察も当然調べたが事故の可能性はなく、医師も突然死と断定した。
何の持病もなく、健康そのものであった働き盛りの男が、何の前触れもなく心肺が停止して、突然死を迎える事があるという事を知った。

そうで無くても、突然リストラを通告されたり、突然会社が倒産することも多い。
安定した収入がある事を前提に、家や車のローンを組、子供を大学に通わせている家庭には、経済的に大波乱が起きるであろう。
四十を超えた男性に、再就職の道は厳しい。特別な技能や、高度な専門スキルを有していれば、再就職は充分可能だろう。
しかし、特段の資格や技能を持たない営業職や企画開発、総務・人事・経理といった事務系の人の再就職は絶望的である。少なくとも、経済的には半分程度の収入を覚悟しなければ、再就職は困難である。

長い人生では必ず、一度や二度窮地に立ち、絶望に襲われることを誰でも経験するだろう。
倒産やリストラで経済的に追い込まれたり、大切な愛する人を亡くしたり、突然の事故に遭遇して身体に不自由を持つ身になったり、自身が病気で寝込んだり、子供が事件を起こしたり、さまざまな状況の中で、絶望的状況に突然襲われることがある。

そんな絶望的日々の中で、どう立ち直るかで人生の明暗が分かれると思う。
どんな悲惨な状況であっても、これは一時的な苦境であり、必ず希望の灯が点るはずだと、自己の未来を信じることである。

自己を信じることは、神を信じることに通じる。
自分は、自己の意志で生まれてきたのではない。
与えられた命を生きているに過ぎない。
与えられた命だから、どのような状況に陥っても、これは試練であり耐えられる範囲の試練である。与えられた体力、気力、知力、その他の能力で、耐えられる範囲の試練しか与えられない。
だから、この超えるべき、与えられた試練を乗り超えれば、輝かしい未来が必ずやって来る。そう楽天的に陽気に信じて、未来に明るい光を見つづけると、間違いなくその光が近づいてくる。

還暦を迎えるまでに、悲惨な「どん底」を何度か経験してきた。
会社の倒産も二度も経験している。家庭崩壊も経験した。
息子が薬物中毒で事件を引き起こして、何度も警察署に脚を運んだことも経験した。
何度か、一時的ながら「もう俺の人生はお終いだ」と覚悟した。

しかしながら、生まれつき楽天的にものを考える性癖があった。
どんな苦境に遭っても、自分を客観的に芝居の客席側から見ている自分がいた。
まだまだ、この程度なら「不幸中の幸い」ではないか。
もっと悲惨な人々がいる。
まだ気力・体力と知力が残されている。
やれるだけの事は、とことんやってみよう。
神は、まだ我を見捨ててはいないはずだ。

裏付けとなる根拠は何も無いが、そう覚悟すると考え方が変わり、悲惨な現状を、取り敢えず受け入れ、状況を分析する余裕が生まれる。
置かれた状況を客観的に観察し、何らかの対策や今後の方策を見いだす。
どん底では、それ以上に落ちることは無いから、開き直りがしやすい。
落ちるところまで落ちたから、後は這い上がるだけだ。
そのように、ポジティブに物の見方が変わると、何かしら努力する勇気が湧いてくる。

特定の宗教や宗派に帰依したことは一度もない。
しかし、「困った時の神頼みは」毎回実施している。
神社の初詣では、必ずお神籤を引いてみる。吉や、中吉、大吉がでると、よし今年こそは運が開けると信じる。
万一、小凶などのお神籤を引くと、これは何かの間違いだと思い、吉や、中吉以上が出るまで、お神籤を引く。少なくとも三回引いて、プラスマイナス合計で、プラスに転じるようにしている。

とにかく、自己を信じることは、神を信じることに通じる。
自分は、自己の意志で生まれてきたのではない。
与えられた命を生きているに過ぎない。
だから、一生懸命生きる努力をしていれば、必ず願い事は叶うと信じて生きてきた。
人生を振り返るにはまだ若い62歳ながら、真剣に願った事は叶えられたと思っている。
今実現していない夢は、まだまだ真剣に願っていない証拠だと、自身に言い聞かせている。

まだまだ、夢を追い続けて生きていきたいものである。