随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

フランスの非常事態宣言

2005-11-10 11:51:01 | 政治
フランスで広範囲に拡大した、イスラム系移民の若者による暴動に対して、フランス政府は11月8日に12日間の非常事態を宣言した。
非常事態法が適用されるのは、アルジェリア独立戦争当時の1955年に公布されて以来二度目であり、今回のイスラム系移民の若者による暴動の深刻さを物語っている。

移民の若者による暴動の発端は、少年二人が10月27日に、警察に追われて感電死するという事件を機に発生している。
フランス社会の底辺の貧困層を形成している、400万人のイスラム系移民の若者によるフランス社会に対する不満が、一気に爆発し日々拡大した。主要地方都市からパリ近郊までに波及し、8日現在で車両放火の累計は約5,000台、逮捕者1,200人に達している。

吹き荒れる暴動は、アルジェリアなど北アフリカからフランスに移住した移民の二世・三世の若者によって引き起こされている。
貧しかったアルジェリアの人々は、フランスの移民計画によってフランスへ移住し、それなりに肉体労働や単純労働ながらも安定した仕事を確保して、フランス社会に同化していった。

その移民の二世・三世は、フランス人としてフランス語でフランスの教育を受けながら、仕事は単純労働にしか付けないという差別を受けている。しかも、失業率は全国の10%弱に対して、主要地方都市郊外の移民居住地区では20%~30%に達し、高卒でなければ、失業率は5割にもたっするという。移民居住地区では貧しく、子供を高校へ通わせることすら困難で、平均年収もフランス人平均の四割程度で1万ユーロー(140万)しかない。

失業や社会差別や貧困で、移民居住区では麻薬密売や強盗などの犯罪が発生すると、他の地区よりも大きく報道され、移民居住地区は白人の足が遠のき、ゲットー化が進んでいるという。
移民居住地区に住んでいるというだけで、いろいろ差別を受けるという。
フランスの教育を受けて育った、移民の二世・三世の若者達は、フランス社会で大きな矛盾と絶望感の中で、不満のエネルギーを爆発させた。
単に一過性の一時的感情的な問題ではなく、事態は相当深刻な問題を孕んでいるようだ。

この暴動騒ぎに対して、フランスのサルコジ内相の「彼らは社会のクズ」発言が、火に油を注いだようだ。社会のクズを意味するracailles は、非常に強い侮蔑的な言葉であり、若者の大反発を招いているという。

フランス社会の矛盾したイスラム移民の同化政策と、移民の二世・三世の失業や貧困対策の無策が招いた結果なのである。
若者達は、社会から排除されているという絶望感を抱き、経済的な不正義感を募らせている。
さらには、警察とイスラム系移民との緊張関係がある。
フランス政府が、イスラム移民の同化政策で、2002年に抑圧的な新政策を導入したことにより、状況は悪化している。
つまり、フランスの伝統的価値感を押しつけ、イスラム教の教えに従って女子がヘジャブ(スカーフ)を着用して学校へくるのを法律で禁止した。

出口のない失業による貧困と、根深い社会的差別に、若者の絶望感による不満のエネルギーが蓄積されている。
ヨーロッパで最大の400万人とも言われる移民を抱えるフランス社会は、移民の経済的苦境に対する根本対策を本気で取り組まないと、大変な事態に陥るだろう。
アルカーイダなどが介入してくれば、車を焼く暴動程度では収まらず、大規模な自爆テロに発展するだろう。
その構造的な矛盾に気がつかずに、「彼らは社会のクズ」発言をしたサルコジ内相こそ、フランスの抱えている深刻な状況を象徴していると言える。


ハンセン病補償法訴訟 その二

2005-11-08 09:29:29 | 政治
「ハンセン病補償法」は、らい予防法(1996年廃止)に基づく、国の隔離政策を人権侵害と認めたハンセン病国家賠償訴訟熊本地裁判決(2001年5月)を受けて、元患者の被害回復のため2001年6月に施行された法律である。

戦前・戦後の時期や国籍、現在の居住地を問わず、一度でもハンセン病療養所への入所経験があれば補償対象となる。入所時期に応じて1,400万~800万円が支給され、今年1月1日までに3、445が支給を受けている。

「ハンセン病補償法」は、その前文に「ハンセン病の患者であった者等の、いやし難い心身の傷跡の回復と、今後の生活の平穏に資することを希求して、ハンセン病療養所入所者等がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り」とある。

それ故、国内については私立の療養所の入所者も補償の対象とし、また米軍占領下で日本政府の施政権の無かった旧琉球政府が設置した施設の入所者も対象としている。
前文に掲げた法の精神を素直に受け止めれば、日本が施政権を有し、その下で設置された台湾、韓国の療養所の入所者も、当然に補償の対象となるはずである。

しかし、政府は法の「その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所」という条文で、授権された権利を行使するにあたって、この法の精神をないがしろにして、日本の統治時代の韓国.台湾の療養所の入所者を除外した。

この為、日本の統治時代の韓国.台湾の療養所入所者のハンセン病訴訟が行われたのである。政府は、ハンセン病療養所入所者に、不合理な苦難と苦痛を与えたという責任に加え、この韓国.台湾の療養所入所者を無視するという二重の責任を負わなければならない。

政府が設置した「ハンセン病問題に関する検証会議」メンバーで、日本のハンセン病研究の第一人者の藤野富山国際大助教授は、当初から原告側を支援している。

藤野助教授は、「韓国の療養所では、貧しい食事で護岸工事やれんが造りなど重労働を課せられたうえ、少しでも仕事を休むと罰として断種手術を受けさせられ、麻酔なしで手術を受けるなど、日本と同等かそれ以上に過酷だった」と紹介している。

台湾訴訟については
「当然の判決で、意義を国は謙虚に理解するべき。控訴することがハンセン病回復者に対する人権侵害行為であることを自覚し誠意ある判断を」と評価している。

そのうえで、藤野助教授が入手した、1934~38年のハンセン病患者隔離政策に関する公文書の中で、「官公立癩(らい ハンセン病)療養所長会議出席者」の中に、小鹿島療養所長、台湾楽生園長の名前が記されていることを示し、両施設とも日本の国立療養所であったと証明した。

「ハンセン病問題に関する検証会議」の参加者の1人で、従軍慰安婦問題などに取り組む「めんどり会議」の堀江節子さんは
「日本の植民地だったからには、日本人と同じ補償をするべきで今回の韓国判決は不当だ。
補償の対象は、日本が統治していた地域のすべての患者に及ぶのは当然で、本判決は至極当然の事理を認めない不当な判決である」としている。

11月4日厚生労働省は、韓国と台湾の「ハンセン病訴訟」の原告らを包括的に救済する方針を固めたと報道された。
政府が設置した「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告は、
「日本の隔離政策の一環であり、日本の患者と同様の人権侵害を受けた」と結論を出した。
厚生労働省は、この報告書の線に沿って基本方針として救済すべきと判断したとある。

ただ、あくまでもハンセン病訴訟としては、台湾判決に対しても控訴するという。
あくまでも、韓国と台湾の療養所の入所者は「ハンセン病補償法」の対象外という姿勢を貫くという。
その上で、特別に人道上の救済措置を講じて「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告に基づいて和解をするという姿勢である。

その理由は、日本政府(厚生労働省)が一度判断した事には間違いがないという面子を保ちながら、一定の譲歩をして検証会議の報告に従って救済するという複雑な手法をとる。
「ハンセン病補償法」では、入所時期に応じて1,400万~800万円が支給されている。
そこで、韓国と台湾の療養所の入所者は「ハンセン病補償法」の対象外であるとして控訴して争うが、特別に人道的配慮で超法規的に和解するとしている。
そうする事で、日本国内の療養所入所者の半分程度の金額の和解を目指しているという。
法の平等の精神をないがしろにする行政の判断で、なんという姑息な手段であろうか。

このような日本国政府の手法が、中国・韓国の反発を招き、「過去の日本の歴史に目を背けるものである」と批判されつづけ、戦後60年も経過したのに未だにシコリが取れないのである。

現代の行政訴訟に於いて、本当の社会正義の実現にとって、日本の官僚の自己防衛意識が大きな障害になっている。


ハンセン病補償法訴訟 その一

2005-11-07 00:28:20 | 政治
東京地裁で10月25日にあったハンセン病訴訟判決で、韓国訴訟が原告(入所者)側敗訴、台湾訴訟が勝訴という、相反する結果が出た。
同訴訟は、日本の統治時代に韓国・小鹿島(ソロクト)慈恵医院(現・小鹿島病院)、台湾・楽生院(現・楽生療養院)に強制収容された入所者が、「ハンセン病補償法」に基づいて補償を求めたもので、ほとんど同じ条件なのに正反対の判決が出た。

裁判の判決という「正義」とは何か、を考えさせられる事件である。
本来その時代の社会正義というのは、それほど人によってかけ離れた結論が出るというものではない。
しかし、今回のハンセン病訴訟判決では、まるで正反対の「正義」が示された。

旧厚生省の無作為で、長年隔離政策のまま放置され続けたハンセン病療養所の入所者の、長年にわたって被った精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図るために補償する「ハンセン病補償法」が成立している。
議員立法として、人道上の緊急課題として成立させられた法の精神を考慮すれば、誰が考えても日本の統治時代の韓国・台湾などの療養所の入所者も当然含めて補償すべきものである。
台湾訴訟の判決は、その法の精神を汲んで、
「(補償に)国籍や居住地による制限もない」として、原告の勝訴とした。
これに対して、韓国訴訟判決では、
「外地療養所の入所者に対しては、必ずしも支給が予定されていたということはできない」 「1931年の旧らい予防法が、韓国では施行されておらず、小鹿島(ソロクト)慈恵医院を「(ハンセン病補償法の対象となる)国立療養所と解釈する余地がない」
と判断している。

この韓国訴訟での原告敗訴の判決は、明かに政府への配慮を重視した、非常に政治的な判決と言わざるをえない。
本来、裁判というのは三権分立の精神に従って、政治的配慮とは無関係の「社会正義」を判決で示すものでなければならない。

しかし、国家賠償をともなう訴訟では、殆どの一般人の感じる「社会正義」とは異なる判決、即ち国に有利な判決が多いのはどうした事か。
ハンセン病韓国訴訟は、事実上日本の植民地支配の責任を問う裁判でもあり、その意味で政治的配慮を伴う条件が揃っている。 
韓国訴訟の判決は、ハンセン病訴訟の原告側の勝訴となると、小泉首相の靖国参拝をはじめ、従軍慰安婦問題、強制連行など他の問題にも大きな影響を及ぼすだろうと、裁判長が判断した結果に基づいたもので、非常に政治的な判決といえる。
しかし、このような政治的配慮を裁判官が行うと、社会正義は何処かへ消えてしまう。

また、ハンセン病訴の原因となる、厚生労働省の日本統治時代の韓国・台湾の療養所の人々を救済しないのは、過去の日本の歴史に目を背けるもので、日本政府が「ハンセン病隔離政策」の根幹にあった「排除の論理」をいまだに精算できていない事を内外に示すことに他ならない。 

このような非人道的な韓国訴訟の判決は、社会正義を実現するはずの裁判官が、政治的配慮をすることで、社会正義を抹殺するに等しい。
このような政治的配慮を行い、自己保身に走る裁判官は、やはり弾劾されるべきだと考える。


小泉首相靖国参拝

2005-11-06 01:25:34 | 政治
第三次小泉内閣が発足して、新しい閣僚も活動を開始しているが、今あえて靖国問題を取り上げる。
今年も(10月17日)小泉首相は靖国神社を参拝した。
従来こだわってきた八月十五日を避け、今回は拝殿にも登らず記帳もせず、しかも礼服も着用せずに一般参拝者と同じ方法で参拝した。今回はあくまでも私人としての参拝を演出した参拝であった。

報道によると、中国の李外相は中国外務省に阿南駐中国大使を呼びつけ、首相の靖国参拝について「中国政府と中国人民は、強い憤慨を表明する」と抗議している。両国関係修復のため今週末まで最終調整されていた町村外相訪中も中止なった。
阿南大使は「私的参拝だ」と釈明したが、「良識有る人はそのような弁明を受け入れられないだろう」と反論している。

第三次小泉内閣が発足してからも、中国外務省は、「問題の解決は、靖国神社参拝を止めることだ。特に首相、外相、官房長官の靖国参拝を認めることはできない」と更に釘をさしてきた。

韓国の青瓦台当局者は、小泉首相の靖国神社参拝を受けて、十二月に開催予定の日韓首脳会談の先送りを明らかにした。両首脳は年二回程度、交互に相手国を訪問するシャトル外交を展開していたが、今日以降は日程を検討しているとは言えないとしている。

首相の靖国神社参拝に対する、小泉首相の頑固さと、外交音痴にも驚いているが、中国と韓国のあまりの執拗な過剰反応にも、いささか驚きを禁じ得ない。
無論、確かに、過去に侵略戦争を起こした側と、被害を受けた側との意識の差かも知れないと思いつつも、やはり少し過剰反応ではないかと思う。

両国に対して、過去に何度も謝罪し、二度と過ちを繰り返さないと誓っている。
当然戦後賠償も実施しているし、戦後は平和を誓い、経済面で緊密な関係を維持してきた。
戦後、日本人は軍国主義から解放されて、持ち前の器用さと勤勉さと創意工夫によって、経済大国として復興を果たした。
そして、侵略戦争で多大な迷惑をかけた東南アジアに対して、経済力に見合うODA開発援助も実施して、それなりに貢献してきている。世界からも日本の平和路線は認められ、国連でも重要な役割を果たしている。
中国と韓国は何故に、戦後60年も経つ今日、これほどにも靖国問題を事々しく取り上げるのか。

中国や韓国の一般国民にはそれほど関心もない事柄を、外交の重要課題に取り上げているのには、何か違う別の政治的意図を感じざるを得ない。
中国と韓国ではその抱えている内政の課題は異なるが、兎も角も深刻な内政の問題が表面化しないように、民族感情という非常にネガティブな感情に訴えて、国民の意識を外へ向けている。

中国は今、経済の急膨張期にある。人件費の安さで、世界の工場としてその役割は重要なものとなってきている。
しかし、経済の急膨張に伴い、中国社会の歪みと亀裂は深まる一方である。
都市と農村、沿海部と内陸、そして個人間と、あらゆるところで経済格差が拡大している。
貧困農民や失業者など、社会的弱者の抗議行動は昨年、10年前の7倍以上の7万4000件にも上った。

政府直属の研究機関の最新報告は、格差拡大をはじめとする社会的、経済的問題を今後5年間放置すれば、体制を揺るがす危険水準にまで悪化する、と警鐘を鳴らしている。
中国共産党の第16期中央委員会第5回総会は、「あらゆる手段を尽くして農民収入を増やす」ことを確認したが、都市と農村の収入格差は3倍強に広がっている。一朝一夕には解決できないであろう。

あらゆる問題の根底にあるのが、共産党の一党独裁という、閉塞(へいそく)した政治体制である。中央や地方の党幹部の職権乱用や腐敗に対する不満は募る一方である。
そこで、どうしても民族感情を煽って、国民大衆の不満をそらす必要から、日本叩きを続けているとしか言いようがない。

急成長している中国経済にとって、将来のエネルギー不足も大きな課題である。そこで、なりふり構わず東シナ海で進めている天然ガスの開発問題がある。
東シナ海の海底地下資源開発に関する日本の抗議を、靖国問題を外交上大きく取り上げて、日本を牽制する道具にしているとしか思えない。

小泉首相の考え方にも一理あるが、単なる公約では済まされない重大な外交問題となっているのは事実である。
中国は、冷静に「靖国問題」を上手に外交戦略として利用し、日本牽制に利用している。 
両国とも経済関係でいえば、抜き差しならぬ関係ができ上がっている。日中どちらも相互依存関係を崩すと、世界的な大混乱を招くだろう。
双方が、それぞれの政治的立場をもう少し配慮して、双方ともが冷静な大人としての関係を持たねばならない。

米紙ニューヨーク・タイムズは、小泉首相の靖国神社参拝を「無意味な挑発」と批判する社説を掲載した。
社説では靖国神社が「韓国や中国で日本が働いた残虐な行為について非を認めない見解を広めている」としたうえで、その参拝は「日本の戦争犯罪の犠牲になった人々の子孫を意図的に侮辱するものだ」と断じた。
また、「日本が帝国主義的な征服に再び乗り出す懸念はだれも現実には抱いていない」としながら、「こうした挑発は中国が経済の極めて重要なパートナーになり、最大の地政学的な課題にもなりつつある時代には無用のことに思える」と指摘した。
 そのうえで「今こそ日本は20世紀の歴史に向き合うべきだ」としている。


選挙結果を考える

2005-09-12 11:55:33 | 政治
昨夜八時のNHKの選挙速報の第一報を見て、一瞬耳を疑った。出口調査の結果「自民党圧勝」、300議席に迫る勢いと報じている。
その後の報道でなる程296議席を獲得するという、信じられない程の自民党圧勝となっていった。
私の予想が見事に外れた選挙結果となった。
今まで何度も国政選挙を経験して、これ程自分の予想が見事に外れた選挙結果は初めてである。

今までの国政選挙の結果、ようやく二大政党の流れができてきて、今回の選挙で政権交代の選択ができるところまで来ていると感じていた。日本人の政治意識もかなり洗練されてきたと、勝手に思い込んでいた。
しかし、今回の選挙結果を見て、いかに日本人の政治意識や選挙態度に対しての、私の判断がいかに素人であったかを思い知らされた。

今回の選挙結果をどう解釈すべきかと悩んだが、ふと日本人は農耕民族だったと思い至った。
農耕民族説を持ち出すことで、今回の意外とも思える「自民党圧勝」という選挙結果を解釈してみたい。

農耕社会で稲作を行うために、集団としての力が必要であり、村長(むらおさ)や指導者の指示で、一致団結して農作業を行ってきた。
稲作のためには、水田の潅漑工事のために、大規模な土木工事が必要である。
籾種を保管し、時期が来れば苗代田で苗を育成して、各田圃に配布して一斉に田植えを行う。天候に基づき水の潅漑を管理し、田の草を取りなど、さまざまな重労働としての農作業を果たす必要がある。

秋の稔りを迎えると、また集団農作業で収穫を行い、村長(むらおさ)によって平等な分配と備蓄が行われる。そして豊作の感謝として、村の鎮守の秋祭りの祭礼が行われる。
稲作を中心とした農耕社会では、個人としての能力は殆必要ではなく、村長(むらおさ)の指導のもとに、集団としての農作業に従順に従うことが美徳とされてきた。

農耕社会では、政りごとは、祭りであり、祀りでもあった。
村の鎮守の氏神に祈りと感謝を捧げ、鎮守の御輿を総出で担ぎ、お祭りで一緒にさわぐ事で村人との一体感を高める。
農耕社会の村で生きるには、個人の知恵や才覚は寧ろ邪魔なもので、村の掟に従順に従いうことこそが美徳であり、平和な暮らしを約束するものであった。
万一、村の掟に従うことを拒むと、村八分という凄惨な仕打ちに遇った。

縄文時代から始まる長い農耕社会を経験して、何事にも盲目的に属する集団に従順に従うことが骨身に浸みて、日本人の遺伝的体質となっているようにさえ思える。
つねに属する集団に「すべて右に倣え」で、はみ出すことを極端に恐れてきた。

明治以降、工業化社会として近代化し、商業社会を経験しても、情報を自ら収集分析し、自己の才覚で物事を判断し決断するという、新しい価値観を身につけた人々は極僅かしかいなかったと言える。
それらを身につけた人々は、殆どが官僚となり、政治家となり、企業家となり、新しい社会のリーダーとなった。

日本の経済は一流だが、政治は三流とよく言われる。
その国際的には三流政治家を、選挙で選び続けた国民は、まさに農耕社会で身につけた
「帰属する集団や、社会の動向に敏感に反応する、強い者への従順さ」で、政治的にはまだ未成熟な段階にあると言えるかもしれない。

政治的に未成熟という過激な言い方には、説明が要る。
一つの典型として、国政選挙で「地元への利益誘導」貢献を評価するというのは、まさに政治的に未成熟と言いたい。
国政選挙というのは、本来は国家の将来を託すという選択であり、我が村や我が町の公共事業を促進するための選挙ではない。
にも関わらず、今回も地元応援団は、中央に大きなパイプを持つおらが先生を、何がなんでも地元のために送り込む事に必死になった。
投票する人々は、帰属する地元組織リーダーの言いなりで、おらが先生へ従順に投票したと思える。

もうひとつの典型として、今回特徴的であったのは、刺客候補の擁立であった。
元々地元にあまり地縁血縁の無い、落下傘候補が思惑通りに当選した事である。このことは、政策が評価されてと言うより、やはり地域社会への集団的従順さと関係があると思う。
つまり、祭りには御神輿を担ぐが、今年は新しい華やかな御輿を与えられて、無邪気にそれを担いだと言えるだろう。
元来、担ぐべき御輿そのものを、詮議をするという事は恐れ多い事であり、帰属する組織が、今回はこの御輿を、と指示をだせば盲目に従うという図式であろうか。

さらには、都会の無党派といえる人々の政治意識のことである。
もともと世の中のブームや、流行に敏感な人々がいる。
自己の行動を規定付けるはずの、帰属する明確な集団が無いからこそ、流行を追いかけ、ブームに乗ることで、農耕社会の遺伝体質である「盲目的従順さ」を満足させていると思われる。
彼らの一部は、もともと政治的にはそれ程関心がなく、世の中の流れやブームに乗りやすい体質を持っているから、「勝ち馬」に乗る傾向が強い。

今回の選挙公示前から、「自民党優勢」という新聞報道があり、終盤にきてから更に電話アンケート調査結果で、「自民党が圧倒的に優勢か」の報道があった。
自民党では争点を単純化して「改革を選ぶか、抵抗勢力を選ぶのか」という構図を打ち出した。
そして劇場型選挙として、刺客まで送り込み「抵抗勢力討伐」のような構図を設えた。
マスコミ報道は、小泉政権のシナリオに飛びつき、劇場型選挙としてさらに扇動したから、野党の真面目な政策論は消し飛び、勝ち馬に乗る心理が大きくなり、ブームとして小選挙区で自民党の優勢が雪崩現象を生じたのではないかと考えている。
このことが、投票率が向上したにも関わらず、民主党という最大の野党の惨敗につながったと感じている。

このことは、日本人の農耕社会的政治感覚の未熟さと、日本のマスコミ報道の未熟さがもたらしたものだと思っている。
特に選挙結果について、マスコミ報道の影響が今回ほど出たのは初めてではないか。
このような経緯を考えていると、日本では二大政党化というのは、幻想にすぎないのでは
と思えてくる。

農耕民族は、劇的な変化を望まない。むしろ変化ではなく、安定と秩序を求めている。
それが例え一時的には停滞であっても、変化よりましと考えているのかも知れない。
昔の貧しい暮らしに比べれば、今は、取り敢えずは、日々の暮らしができている。だから、日本の遠い将来のことなぞは、いずれ先生方が善いようにしてくれるはずだ、と考えているのかも知れない。
日本は単一民族社会であり、未だに農耕民族としての掟に縛られている精神では、多民族国家であり、騎馬民族の末裔のような政治のダイナミズムなぞ望むべくものではないと感じた。

騎馬民族でのリーダーは、情報収集能力や対外的交渉能力が不可欠で、そのリーダーの才覚や的確な決断でその集団の運命が左右される。
万一、選んだリーダーがその資質に問題があれば、速やかに次のリーダーがとって代わることが出来なければならない。そのような騎馬民族の世界でこそ、二大政党が実現し、大きな政治ダイナミズムが実現したのであろう。





新聞の選挙予測報道

2005-09-11 10:46:44 | 政治
今日は衆議院選挙の投票日で、当然ながら投票してきた。
今夜遅くから開票が始まり、テレビは選挙報一色になる。刻々と開票結果が速報され、僅かな開票率で早ばやと当選確実が打たれる。出口調査などで有る程度の情報を得ているから、可成りの精度で、当確が打てるらしい。
楽しみでもあり、どのような結果がでるか恐ろしい気もするのである。

さて問題は、昨日までの新聞の、選挙予測調査報道のことである。
殆どの新聞の結果予測では、「自民党有利」、或いは「安定多数確保」となっている。
選挙予測調査の結果が、なんだか、少し違うのではという感じを持った。そんな筈はないはずだ、というのが正直な感想である。

今回の衆議院選挙は、解散からして郵政民営化が否決されたという事を理由とした、報復的とも言える異常な解散であり、従って自民党が分裂した選挙である。
この選挙で自民党が平穏に終わるはずがない、というのが私の読みである。
郵政民営化に反対したと雖も、自民党として実績のある政治家が、37人も自民党から非公認となった上に、対立候補を立てられている。
マスコミはこれを刺客候補、落下傘候補として取り上げ話題となった。しかし、この刺客候補が全員当選するなんて、日本人の良識からはあり得ないと思う。

一般国民にとって、緊急の課題でもなく、特段生活に直結するような重要課題でもない、議論の多い法案一つで国会が解散された。
「郵政民営化に賛成か、反対か」だけを絶叫する小泉首相に、国民の大多数が支持し、刺客候補が全員当選するなんて絶対にあり得ない。
考えられる事は、反対派議員が、同情と過去の地元利益誘導の実績が評価されて、かなり善戦すると思われる。

無論、刺客候補で人気が高く、マドンナ旋風で幾人かは当選するかも知れない。しかし、比例区を除く小選挙区ではせいぜい一人か二人ではないかと思う。
つまりは、旧自民党の反対派議員と、刺客候補の票の食い合いで共倒れとなり、民主党に有利になる地域がかなり出るのではないかと思っている。

私見ながらも、共産党はその特異な考え方から、凋落に歯止めは掛からないと思っている。社民党も、もう時代に取り残されていて、期待を担うパワーがなく惨敗すると思っている。
そして公明党は、自民党と連立を組んで与党化したことで、独自性が失われて魅力を失い、
学会員以外は投票しないだろう。だから、現状維持は困難で若干減少すると思われる。

そうすると、新党が思いの外善戦するとしても、どう考えても民主党が躍進しなければ辻褄が合わない。特に、良かれ悪しかれ、劇場型選挙として近来珍しく関心を集めた国政選挙となるはずである。
ところが、新聞のランダムな電話による世論調査では、どこも自民党有利の結果がでて、そのように報道されている。

選挙は毎回「浮動票」とか、「無党派票」の動向にかかっている。
その無党派の意見が世論調査に現れていないような気がする。無党派は都会に多く、現役のサラリーマンや自営業者などである。
ウィークデーに調査を行うと、共働き家庭が多くまず電話に出る確率が低い。日曜日に調査しても、朝から家族そろって出かける可能性が高い。

必然的に、電話による聞き取り世論調査で被調査者になるのは、圧倒的に保守的傾向が強い、時間的にゆとりのある年齢層に集中している可能性が高い。
その世論調査の結果を、選挙の投票日前に大々的にこぞって大新聞が報道すると、
「今度こそは、世の中を変えるチャンスだ」
と選挙に行く気になっていた無党派層が、
「やっぱり、自民党が強いな。期待して選挙に行っても結果は同じことか」
元々政治に不満を抱きながらも、結果としてまた政治無関心派になってしまう可能性がある。

選挙予測報道は、往々にして「アナウンス効果」があると言われている。
新聞の世論調査の結果を見て、勝ち馬に乗る心理が働き、さらに無党派層は、逆に無力感から選挙に行かないというマイナス行動を生み、結果として新聞報道が裏付けされる事もある。

小泉自民党に逆風が吹いている筈の衆議院選挙で、まるで自民党に追い風が吹いているような、自民党有利の選挙結果を予想して報道すれば、そのような結果になる確率が高まる。

日本の大新聞が、日本の未来を危うくする可能性がある。
なぜなら、結果に偏りが予想される電話世論調査の結果だけを取り上げて、選挙をする前に「自民党が有利」と報道すれば、ますます政治無関心派が増大し、独善的な政権がつづき、政治はますます利権癒着の構造がつづいて、政治の荒廃が続くだろう。

今回こそ、無党派層が立ち上がり、国民を小馬鹿にしたような、
「郵政民営化に賛成か?それとも改革に反対か、が問われているのです」
と叫ぶ、扇動的な詭弁を弄する小泉自民党へ、反対の意思表示をして欲しい。

本当の政治改革とは、やはり二大政党化を一旦成し遂げるべきだと信じている。
選ばれた政権政党が、もし公約に反して独善的になるなら、次の選挙で野に下るという選択肢が持てる二大政党ならば、国民の重要関心事項を政府が裏切ることは決してできない。
その二大政党化の流れに、水を指すような選挙予測報道は、流れを止める可能性がある。

どんなに知恵を絞った選挙予想の調査でも、必ず偏るという事実がある。大新聞が、その予測調査を大々的に報道するのは、世論形成につながる可能性がある。
つまりは、日和見の無党派層の出鼻をくじく結果をもたらす可能性があると思う。

今夜から明日にかけての選挙結果が、大新聞の選挙予想結果を覆して、良識のある無党派層が立ち上がった姿を見たいものである。

台風の正体

2005-09-06 11:39:31 | 政治
大型の台風14号が九州の西の海上を縦断して、やがて上陸し、右折して日本列島を縦断する恐れがでてきた。
毎年、台風が幾つかが上陸し、甚大な被害を生じている。
改めて、台風の正体について考察してみたい。

まずは、台風の発生メカニズムについて。
海面水温が高い赤道近くの熱帯の海上では、熱せられた水蒸気が上昇気流となり積乱雲となる。この上昇気流によって次々と発生する積乱雲(入道雲)が、多数まとまって大規模な渦を形成するようになる。
上昇気流が発生すると、その中心部分の気圧(空気の密度)が低くなる。気圧は水と同じように、気圧の高いところから低い所へ流れて「風」が生じる。気圧の差が大きい程、強い風が吹き、これが暴風となる。
風は、低気圧の中心に向かって反時計回り(左回り)で吹き込んでくる。吹き込んだ暴風は、低気圧の中心を廻って、反時計回りに吹き出す。この渦の中心付近の風速が17.2m/sを超えたものを台風と呼んでいる。

台風は暴風とともに大雨を伴いながら北東へ移動する。
海面で暖められた上昇気流は、上空の冷たい空気に触れて凝集して積乱雲となり、さらに冷えると雨となって地上に落ちる。
台風の場合、垂直に発達した積乱雲が、眼の周りを壁のように取り巻いており、そこでは猛烈な暴風雨となっている。
この眼の壁のすぐ外は濃密な積乱雲が占めており、激しい雨が連続的に降っている。
さらに外側の200~600kmのところには帯状の降雨帯があり、連続的に激しい雨が降り、ときには竜巻が発生することもある。

台風は上空の風(偏西風)に流されて動き、また地球の自転の影響で北へ向かう性質を持っている。そのため通常東風が吹いている低緯度では、台風は西へ流されながら次第に北上し、上空で強い偏西風が吹いている中・高緯度に来ると、台風は速い速度で北東へ進む。
台風は、暖かい海面から供給される水蒸気をエネルギー源として発達し、中心気圧はぐんぐん下がり、中心付近の風速も急激に強くる。つまり、台風は地球の自転と偏西風の影響で移動するが、暖かい海面が広いと上昇気流が連続して発生し、低気圧が継続して周囲から強い風が反時計回りに吹き続け、暴風雨が持続することになる。

日本付近を襲う大型台風の誕生となるのは、日本付近の海面温度による。海面の温度が低いところに来れば、台風はエネルギー供給が絶たれて、温帯性低気圧となって雨を降らせたら消滅してしまう。
陸地に上陸しても、台風はエネルギー供給が絶たれて、やがて温帯性低気圧となって、同じように雨を降らせたら消滅してしまう。
台風は、本来的に中心付近の最大風速は、移動することにより、徐々に弱まる傾向にあるが、暴風の範囲は逆に広がる。

台風は、赤道付近の海洋で年中発生している。ただ、冬場には日本近海の海面温度が低く、また高気圧が張り出している日本に近づけないだけである。

問題は台風のもたらす大雨による洪水の被害のことである。
台風がもたらす雨は大量の雨が短期間(数時間から数日)のうちに広い範囲に降るため、河川が増水したり堤防が決壊したりして水害(浸水や洪水)が起こる。
例えば降雨量100ミリというのは、畳二枚にドラム缶一杯の雨が降るというすざましい大雨である。

近年は治水事業が進み大河川の氾濫は少なくはなっていると言うが、それでも河川の氾濫による洪水が発生している。
また、都市部では周辺地域の開発が進んで保水(遊水)機能が低下していて、水害に占める都市部の被害の割合が増えている。
さらには、山間部では必ず住宅の裏山の土砂が崩壊して、生き埋めの被害が生じている。
一方海岸付近では、満潮時に台風が来て、高潮の被害も確実に起きている。
毎年、必ずと言える程に台風の上陸があり、甚大な被害をもたらしている。
被害が出てから、大あわてで大きな予算を割いて復旧と対策工事を行っている。
いつも後手後手になっているのはどうした事か。

治山治水は、国家なり地方自治体の行う基本的行政ではないのか。
国民の生命財産を守るのが、最も基本的な行政理念でなければならない。
あまり交通量の見込めない所へ、立派な高速道路を建設したり、地方に立派すぎる公共施設の箱物を作るよりも、基礎的な治山治水事業を優先させるべきである。
都市部周辺で無秩序な開発を続けて、自然の持つ保水機能を失わせ、すぐに土砂崩れを誘発している。
海抜ゼロメーター地域での、防波堤の高さを軽々と超えて高潮が押し寄せるというのは、一体どうしたことか。

人知を超えた自然災害ではない。
台風の発生メカニズムも、その構造もその進路も、そしてどの程度の台風が満潮時に来襲すれば、どの程度の高潮が起きるか、ちゃんと計算されている。
短時間に100ミリから300ミリの集中豪雨が降しる事は、何度も敬虔している。その場合に、土砂崩れの危険性がある場所のハザードマップもある。
大都市の今の排水機能では、道路が冠水し地下に水が流れる事も、何度も経験している。
なぜ、国家や地方自治体は、この最も基本的な対策可能な治山治水をきちんと実行しないのだろうか。
詰まるところ、政治課題のプライオリティー(優先度)があまりにも低いという事になる。
人気取りの政策を優先する、つまり道路や箱物建設そして新幹線に血眼になっているからであろう。

郵政民営化も大事な政治課題に違いないが、最も基本的な行政課題に取り組むべきではないかと苦言を呈しておきたい。
台風の被害でいつも犠牲になっているのは、農村地帯や山間部の人々と、沿岸地方の人々であるはずなのに、なぜ政府に声を上げないのだろうか。
今、まさしく国政選挙の時期である。
「政民営化に賛成か、反対か」というような、基本的な国家戦略に欠けた政権を選ぶべきではない。

繰り返すが、国家の基本は「国民の生命財産を守る」ことが前提であり、その底辺に治山治水という基本的国家戦略がなければ、全ては空しい。
台風のもたらす洪水の被害で、全財産を失ったり、尊い命を失っては何をか況やである。
政治も治水と同じである。
留まった水はやがて腐敗する。時々水を入れ替えてやらねばならないと思う。
選挙では、人気に踊らせされるような愚は避けたいものである。






イスラムとテロリズム

2005-09-01 03:06:49 | 政治
世界中で、毎日のようにテロが実行されている。
特にイラクではテロが日常化しているとさえ云える程に、激しい。
殆どがアルカ・イーダが関係しているとの報道もある。それは定
かではないが、とにかく自爆テロで関係のない市民が犠牲になっ
ている。
テロは何もイラクだけではない。先日はイギリスでも地下鉄で大
惨事が起きたばかりである。また、アフガニスタンやイスラエル
に対するパレスチナでもテロが絶えない。
昨日は、「イラクで800人超す死者・テロ情報で混乱、川に転落」
というニュースも飛び込んできた。
悲惨というしか言葉がない。

テロリズムは、政治的主義主張を通すために、無差別に市民に犠牲
を強いるという卑劣な行為で、どのような事情があっても決して許
されるものでは断じてない。
特に、イラクやアフガニスタンには、アメリカを中心とした国際的な
支援活動を行っているが、逆にそれが仇となっているようにも思える。

ニューヨークでの同時多発テロの悲惨さを、世界中がつぶさにテレビ
で見て、世界中が大いに憤った。
その反動ともいえるイラク戦争に他国籍軍がイラクへ侵攻し、フセイ
ン政権はあっけなく消滅した。
消滅したフセイン政権の後に、新イラクを創るべく、治安維持とイラク
復興に世界が協力しているというのが、アメリカ政府の立場だろう。

ここで、浅い知識ながらもテロについて少し考察しておきたい。
そもそも何故、ニューヨークで同時多発テロが起きたのかという事で
ある。
この象徴的テロの構図は、アメリカ対イスラム世界の対立を意味して
いると思われる。
もっと掘り下げれば、キリスト教世界とイスラム世界の対立と言い換え
る事もできるだろう。
謂わばイスラム世界を代表して、アルカ・イーダがキリスト教世界の代
表的アメリカへ宣戦布告したとも云える。
だが、本当の敬虔なイスラム教徒は、テロとは関係ない。イスラムの教
えには、無論テロを容認するような教義は微塵もない。
ただ結果とし、て自爆テロを実行する若者は、殆どがイスラム系の人々
であるという事実でだけであろう。

ではなぜ、イスラムの若者が自爆テロに走るのだろうか。
そもそも、神の言葉とされる『コーラン』や、預言者ムハンマドの言行録
である『スンナ』といったイスラム教徒の聖典(シャリーア)においては、
自殺は禁止されている。
イスラム教では、一般的には戦争は禁止されている。
ただ、自分たちのイスラム信仰共同体(ウンマ)が外部の勢力によって攻撃
された時に、初めてこれ(ウンマ)を守るために、自衛するための戦争は肯定
されている。
つまり、すべての戦争ならびに戦争による人殺しは、信仰共同体を守ること
以外には許されていないのである。
そのひとつの戦術として「自爆攻撃」という手段を網だし、これを「殉教」と
称しているようである。

では、イスラム教徒の若者が、アメリカを中心としたキリスト教世界に
対して、「自爆攻撃」という手段を使ってまで、自衛しようとしているもの
は一体何だろうか。
彼らの中にあるアルカ・イーダ的大義名分は、
「イスラム共同体をアメリカという悪魔的異教徒の暴力から守る」
と教えられたであろう。

しかし、真実は単なる宗教間の争いだけでは無いと思う。
宗教的に考えれば、イスラム教もキリスト教も根源的には一つの源流を元に
している。
途中で枝分かれはしたが、謂わば兄弟のような宗教であるとも云える。
イスラム教の啓典(けいてん)は、イスラム教における唯一神(アッラー)
から諸預言者に下された四つの啓示の書物のことをいう。
その中には、ユダヤ教の『旧約聖書』、キリスト教の『新約聖書』をも内包し
ている。
ムーサー(モーゼ)に下された『タウラート』(『モーゼ五書』)
ダーウードダビデに下された『ザブール』(『詩篇』)
イーサー(イエス)に下された『インジール』(『福音書』)
ムハンマドに下された『クルアーン』(『コーラン』)
また、クルアーン(『コーラン』)を、唯一神がムハンマドを通じて伝えた
言葉として教典とし、これに従うことを、これを六信のひとつとしている。

イスラム教とキリスト教の教えには、根本的にはキリスト教と仏教ほどの違
いは無いと云える。
すると、一体何が争いの底辺に横たわっているかと考えれば、行き着くところ
は、やはり繁栄と貧困問題になる。
湾岸戦争やイラク侵攻では、あたかもテレビゲームのようなアメリカ軍のピン
ポイント爆撃を茶の間のテレビで見た。
戦争の悲惨さがまるで伝わらない、テレビゲーム感覚の戦争であった。
まさに、象徴的に富める国の戦争を見る思いがした。

繁栄するアメリカを中心としたキリスト教国の空爆が終了し、地上に侵攻した
多国籍軍に対して、徹底したした貧者の「自爆攻撃」が開始されたとも云える。
しかし、今のテロは、軍事目標だけでなく、人の集まる場所や時間を計算して、
イラク人同胞までも巻き添えにしている。
詰まるところは、アメリカを中心とした多国籍軍はもとより、彼らに協力する者
全てがテロの標的となっている。
ここまで来ると、まさに卑劣な政治テロであり、全く同情の余地がない。

しかしながら、テロの根本的な解決は軍事力では解決しないは事は明白である。
病気の治療で云えば、対処療法では決して回復しない。
要は原因療法を行う以外に解決の糸口は決して見つからないと思う。
つまり世界の資源を、アメリカを始めとする西側諸国が牛耳る、現在の体制に問
題がある。
一気に今の西側の体制を変革すると、世界恐慌が起きるかもしれない。
せめて、イラクやアブガニスタンに駐留しているアメリカ軍の、甚大な軍事費を
地元の復興資金に使えば、テロは極端に減少することだけは断言できる。
日本の自衛隊もイラクからさっさと引き上げて、その莫大な駐留経費を地元の失業対策事業を兼ねてインフラに投資すれば、テロが減少しどれだけ貧しい人々に潤いを与えるか、考えて欲しい。


政権交代

2005-08-30 12:25:51 | 政治
いよいよ第44回目の衆議院選挙の公示が今日行われる。
久しぶりに「政権交代」の可能性を秘めた国政選挙になった。また、小泉自民党では自民党総裁としてはまれに見る強引とも云える強いリーダーシップを発揮したにも関わらず、否決された「郵政民営化」を掛けた選挙でもある。
特に今回は小泉首相の郵政民営化にたいする執念と、自民党反対議員に対する怨念から「刺客」を擁立したとか、「小泉劇場」などとマスコミが騒ぎ立てている。
特に視聴率を意識過ぎた「人情」を中心とした「三文芝居」的なテレビ報道のやり方に大きな疑問を持っている。特に「刺客」という言葉を多用するのは頂けない。また、小泉首相の政治手法を「小泉劇場」とも揶揄している。
もっと客観的で理性的な報道はできないのか、テレビを中心としたマスコミのあり方について苦言を呈したい。

さて、国政選挙についての本題に入りたい。
いつも国政選挙で思うのは、「人物本位」で投票しようという呼びかけである。そもそも国政選挙というのは、政党本位に選択するべきものだと思っている。どんなに著名人で、見識の優れた人物を選んでも、国政の場では政党の方針に従わざるを得ない。民主主義というのは、最終的には数の合理性で法案が成立するからである。
今回の「郵政民営化法案」についても、最終的には反対票が上回り否決された。そして、反対議員は今回の選挙で自民党から「刺客」候補の擁立を受けて、自民党から排斥されている。
つまりは、議員個人の見識や信条とは関係なく、政党の方針に沿って政治は動くことの証明ではないか。

もう一つの問題は、立候補者が「地元への貢献」を叫び、「地元に必要な人材」として地元組織が支援し、有権者が「地元貢献」を評価して投票するという意識である。
あくまで国政選挙であって、市会議員や県会議員を選ぶ選挙ではない。
国政選挙とは、あくまでも「国の将来を託す」という重要な選挙で、国の制度をどう方向付け、国民の多くの共通課題を解決するかを選択する選挙であるはずだ。
地元利益誘導型の国会議員は排除すべきである。国会議員として実力を付けて、各官庁の官僚トップに働きかけて地元への事業を誘導するというのは、邪道で真の国政ではないと思う。むしろ国政をねじ曲げているとしか言いようがない。
むろん過疎地の活性化や、政治に見捨てられた地域に対して光を当てるというのは大事な国政には違いない。しかし、国会議員が非公式に個別に官庁に圧力をかけて、地元利益を誘導するのは、どう考えても国政では断じてない。

さらに、選挙立候補者が地元を走り回り、やたらと握手戦術をとり、平身低頭しているが、これも何か滑稽ではないか。
国政を担うはずの立候補者が、地元の選挙権者に情で訴えて、それで票を固めるという意識も何か勘違いしているのではと思ってしまう。国政選挙では、当然所属する党の政権公約や、政治理念を判断して投票する。

私の国政選挙にたいする考え方は、候補者の政治理念や人物の評価も当然ながら、所属している政党選択と理解している。何度も言うが、民主政治は数の論理で政策が決定するからである。
自民党でも、民主党でも政治的主義主張の異なる雑居集団とも言える。しかし、最終的には政党の方針に従って法案の採決に従う。従えないような事態になれば、離党している。だから、国政選挙では個別の立候補者の人物評価もさることながら、優先事項はやはり政党選択だと思っている。だから、無所属議員では、一体どのような政治が行えるのかと疑問を持たざるを得ない。国会議員個人では、やれる仕事に限界があり、国政を動かす力にはなりにくいと思う。

そろそろこの稿の結論に入りたい。
こんどの選挙で政権交代を期待している。
政治というのは、マクロで判断すれば、長期政権や長期政権政党では必ず利権癒着の問題が生じている。政治と官僚の癒着問題、政治と企業の癒着問題、官僚と企業の癒着問題など、さまざまな利権に群がる闇の実力者が創られ、腐敗構造が出来上がる。
だから、アメリカのような二大政党化が望ましいと思っている。
二大政党でも問題はあるだろうが、ダイナミックな政治転換が可能だからである。
一つの政党の政治が腐敗すれば、あるいは国民の信任に違反すれば、次の選挙で審判されて野党に追いやられる。だから、政党としては、政権公約を守ることに必死となり大多数の、国民の課題に取り組み、失敗すれば政権交代を余儀なくされる。
アメリカでは、この自浄作用が働いているように思える。政権が代われば、官僚も総入れ替えとなるとも云う。

問題は官僚主導の政治にあるといつも思っている。
そもそも官僚は国民に選挙で選ばれたものではない。単に学業成績が優秀で「上級国家公務員の試験にパスしたに過ぎない。
学業成績が優秀ならば、「高い理想を持ち」「確かな政治理念」を有し、国民の付託に耐える行政を行うとは限らない。むしろ、「特権階級意識」だけが強く、自己の栄達と権力を当然の権利の如く勘違いして、国民の税金を恣意的に利用し、時に私腹を肥やす。
政権政党が代われば、チェック機能が働き、政官業の癒着もいくらか減少すると思う。

小泉政権は、従来の自民党体質をある意味ではかなり改革したと思う。日本の首相としてはまれに見るリーダーシップを発揮した部分もある。
しかし、多くの改革テーマの中で、殆ど官僚に丸投げをしたり、強い抵抗に遭うと妥協して、骨抜きの法案となってしまっている。
やはり、ここらで政権交代する必要があると思っている。
いまの岡田民主党ではどうかという批判もある。しかし、民主党というのは、自民党と一緒で多才な人材がいる。政権を一度とれば、良い方向に収斂されていくと思う。
やらせてみて、国民の付託に答えられなければ、国民の審判で野党に戻せばよい。

保守と革新

2005-08-27 11:04:54 | 政治
戦後政治には、保守と革新の対立軸があった。
保守系は、戦後の農業保護育成のさまざまな補助金行政を基盤として地方に強固な基盤を築いた。このため、農村地帯は、今でも保守王国と言われている。

また、企業も戦後の経済復興の必要から、さまざまの補助金の恩恵を受け、創意工夫に汗を流し、独自の技術開発にも成功し、やがて技術立国、輸出大国に成長して日本経済を支えてきた。だから企業経営者や財界は、基本的に保守系を支援してきた。

革新系は、都市部を中心とした底辺の給与生活の勤労者を基盤とした。給与生活者は、税金や社会保険料は天引きされ、国から何の名目のキックバックもなく、いわば行政の最も御しやすい集団を形成した。不公平感に反発して、おおむね革新系を支援した。
そのような保守と革新の対立軸は、微妙な政治バランスを保ち、時に偏りすぎると揺り戻し現象をおこしながらも、保守本流の命脈を保ち続けた。

戦後60年経ってみると、豊かな農村が確立し、都市部の勤労者も日本経済の高度成長によるインフレで、名目賃金は上昇し続けて、それなりに豊かな経済を実感できるレベルに達した。
まだ日本が経済的に成長段階の時代には、3Cという言葉があった。その3Cであったカラーテレビ、クーラーそしてカーは、たいていの家庭に普及した。
そして、今やパソコンや携帯電話も当たり前の通信手段として普及している。

物質面の充足面でいえば、戦後政治の成功と云えなくもない。
結果として、都市部の勤労者は、政治意識が希薄となり、無党派が増加して浮動票と化した。選挙の投票率も極端に低下して、50%前後となっている。
一時はかなりの勢力を保った、労働者階級に支えられた社会党は分裂し、共産党も今は青息吐息である。
そのような都市部の勤労者の政治離れによって、農村基盤の保守系が相変わらず勢力を保っている。

しかし、物質面では一見豊かになったように見える日本も、置き去りにされた課題が山積している。政治と官僚行政の無策で、先送りされた問題が多すぎる。
突然のように表面化してきたアスベスト公害問題、古くは血液製剤による薬害問題、水俣水銀公害問題、産業破棄物の不法投棄問題など企業の繁栄の裏に隠された弱者の問題が多数残されている。
そして、最大の問題は、企業が人材を育成しなくなった事だと思う。年々正社員を減らし、派遣社員を増加させて、人材を抱えるリスクを避けている。つまりは、人材の使い捨てに走っているとも云える。企業は人なりで、優秀な人材がいなければ、やがてその企業は衰退していくだろう。そのような自明のことに、企業は気が付かないのだろうか。目先の利益のみを追って、企業の将来設計が無いに等しい。
いづれ、中国やインドそのたの成長国に淘汰されるかもしれない。

また、給与生活者の老後を支える筈の年金が、人工減少に伴って年金制度自体の破綻が問題にされているが、これも放置されている。それでいて、一方で年金の無駄使いもあるが、根本的な対策がない。
官僚と民間企業の癒着問題を象徴する「談合」問題も後を絶たない。
鳴り物入りの「道路公団民営化」騒動も、見事に失敗といえる。改革は必要な事ながら、官僚の既得権益を守るすざましい抵抗にあって、専門知識に劣る政治家は、言いくるめられて、骨抜きとなっている。
さらに高級官僚は、さまざまな名目をつけては公社公団や特殊法人を作って天下り、国民の税金を貪っている。さまざまな役所で、闇の資金をプールして、私的な費用に充当している。
役人とは本来国民への奉仕者でなければならないのに、税金の無駄使い集団と化している印象を持ってしまう。
政治かや官僚の行政で、確かに経済は豊かになってきたが、その陰で官僚は甘い蜜にむらがり、それを吸い続けている。

今回の選挙では、自民党は「郵政民営化」を旗印に掲げている。
行政改革は必要な事だが、しかし、たんに郵政を民営化するだけで問題の解決になるだろうか。世界に類のない巨大な民間金融機関や巨大な保険会社をつくるだけでは、問題は解決しない。むしろ、郵便事業を民営化することに対する問題が大きい。議論が不十分であり、細部に渡る設計を充分に施す必要がある。
今の小泉政権は、4年を過ぎて「何とか歴史に残る政治実績を残したい」の一念に駆られているように見える。
あまりの強引さに、身内であった自民党からも造反議員が大量にでた。それに反発して「刺客」候補を擁立するという強引さは、果たして国民がどう判断するか、選挙結果が見物である。
一市民としては、もっと大切な政治課題を解決して欲しいと思う。

外交問題では、北朝鮮の拉致問題も解決の道筋がまったく見えてこない。さらには首相自らの言動で、中国や韓国の民族感情を刺激して、関係を悪化させている。
外交の世界では、いまだに終戦処理が終了していないと云える。ドイツのように、徹底して過去と向き合い、徹底した懺悔を行わない結果である。

戦後の教育も退廃している。その結果若者は生きていくために必要な目標を失い、ニートと呼ばれる不思議な種族が誕生している。学ばない、働かない、社会との関わりを持たない不思議な種族である。なぜこんな無責任な種族が生まれ、それが社会現象化しているのか。
経済的豊かさがもたらした陰と言うべきか。

もはや、保守と革新というような二面的な政治的対立軸は消滅している。
これからの日本に必要なな事は、「政治哲学」であり、「行政哲学」であり、「経営哲学」であり、個人としての「人生哲学」が必要な時代になっていると思う。
つまりは、「あるべき理念」とそれに基づく未来の設計図を持って、政治集団を形成して欲しいと願う。
官僚を採用する条件として、崇高な理念や政治哲学をもっているか、論文を書かせて採用しないと、たんに学業成績だけで採用する時代はもはや終焉している。
自己の立身出世と蓄財のみを願っている官僚や政治家は要らないし、むしろ社会を
退廃への道へ誘導しているととか言いようがない。