随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

電子書籍を公開しました

2012-07-15 12:09:42 | 紙の話し


  「booklog」という電子書籍の作成や公開ができるサイトがあります。


 だれでも、自由に「無料」で電子書籍を作ったり、公開したりできる便利なサイトです。
 商業用にも利用でき、また有料で販売もできます。

 自分でPDFで作成した電子書籍をアップロードすることも可能です。
 私は、PDFで作成したものをアップロードし、1000円で有料公開しました。

 「和紙と 日本の伝統文化」

 この書は、長年にわたり襖紙・壁紙業界に席を置いていた関係から、約20年の歳月をかけて集めた資料を基に、
一冊の「和紙に関する研究書」を作成し、限定本として一部の人に配布したものです。

 
電子書籍が普及しつつある状況から、電子書籍向けに改訂し、写真と図版を大量に組み入れました。
 写真や図版を眺めるだけでも、和紙や日本の伝統文化にふれることが出来るように編成しました。
 かなり専門的に追求した資料もあり、和紙研究者には体系的な資料として役に立つものと思います。
 サイトは、下記のアドレスにアクセスしてください。

  http://p.booklog.jp/book/53648

 またgoogleなどの検索で「ハブー」でサイトにたどり着けると思います。
 「和紙と 日本の伝統文化」という電子書籍にアクセスするには、

 上記アドレスのbook/53648の部分が該当します。


お札の話  ⑤日本銀行 銀貨兌換券

2012-07-14 15:31:21 | 紙の話し

 日本銀行兌換だかん銀券  一般には「大黒札」と呼ばれた。
 現在日本国で通用する貨幣(法貨)としては硬貨を含め最古である。
「兌換銀券」とは事実上銀本位制であった当時、銀貨との引き換え証券であった。
 兌換文言:「此券引かへ尓銀貨壹圓相渡可申候也」が刷り込まれている。
しかし、現在は不兌換券(額面1円の日本銀行券)としてのみ通用するという。



 明治10年に西南戦争が始まり、その費用のために大量のお札を発行した結果、激しいインフレーションが起き、物価騰貴を招いて社会が混乱した。
 そこで、明治15年に、国家の「中央銀行」として日本銀行法を制定し、日本銀行が設立され通貨の一元管理が開始された。
 明治18年(1885年)日本銀行兌換(だかん)銀券が発行され、政府が発行した「太政官札」、「明治通宝」、そして国立銀行が発した「国立銀行紙幣」などを順次回収を始めた。
 日本銀行法では、日本銀行の目的を、「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」と規定している。

 しかしこの初めての日本銀行兌換(だかん)銀券は大きな欠陥があることが分かった。
 まず、紙の強度を増すために、蒟蒻(こんにやく)の繊維を混入していたが、それが仇となって、ネズミや虫にかじられる被害が多発した。つまり箪笥預金に被害が続出したのである。
 さらには、写真製版の偽造防止のため、鮮やかな青色で印刷された。ところが、このインクにも問題があった。このインクは硫黄の成分に化学反応して黒く変色してしまうことが判明した。温泉から上がって、財布を開けたら、紙幣の色が変色していた。
こんなトラブル続きで、日銀は、製造元の政府の印刷局に被害補償を請求したほどである。大黒さんのシリーズは、結局4年ほどで、お払い箱になってしまった。



 ところで、日本の貨幣制度は江戸時代では、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ通用を認められたてい。
 いわゆる三貨制度が存在していた。
 その流通実態は、東日本では主に金貨、西日本では主に銀貨が流通するというものであった。
つまり徳川幕府の財政は、その基本が米(こめ)経済であったから、全国に通用する貨幣というものに無策であった。
むろん徳川幕府は、大判小判などの金貨の鋳造を行い、体系化された貨幣制度を持っていた。しかし、世界は「銀本位制」を採用していたから、主に西日本で通用していた銀貨の流通も容認していた。
 このため、必ずしも貨幣価値が「地金価値」を表していたわけではなく、日本の本位貨幣制度であったとは言いにくい。
 日本では特に「銀」は、世界相場と比較すると、金に対して低く評価されていた。
 鎖国していた江戸時代、唯一貿易を許されていたオランダは、金貨を持ち込み、銀に取り替えて、莫大な利益を上げている。
 明治時代でも、国内と海外との取引は主として銀建てでおこなわれており、その意味では、事実上銀本位に近い状態にあったと考えられる。
 このため中央銀行の日本銀行券も兌換「銀券」であった。

 

紙衣 紙衾(かみこ かみふすま)

2006-08-10 10:09:49 | 紙の話し
和紙の歴史


(六)和紙の多彩な用途


紙衣 紙衾(かみこ かみふすま) 

紙はもともと、麻の衣料のボロを原料として漉き始められたことから考えれば、紙を衣料や寝具として利用しても不思議なことではないが、世界でも珍しい紙の応用例である。
平安中期になると、紙の生産量が飛躍的に増加して、紙の生産コストも低下して、紙の需要も増大し日常生活にも浸透し、さまざまの応用も図られた。丈夫な和紙は、揉んで柔らかくして衣料に応用とすると、想像以上に暖かい。さらに、柿渋や寒天やコンニャクノリなどで加工すると一層丈夫になり、耐水性も増す。
紙衣は、カミキヌ、カミコロモと称され、衣服の代用として使用され、紙衾は夜具として利用された。紙衣は、いつの頃かカミコと呼ばれるようになり、紙子と表記されるようになっている。
天明の頃(1780年代)に書かれた伊勢貞丈の『安斉随筆』に、

「布子、刺子、これらの子の字は、訓をかりて用ふるなり。実は子の字に非ず。衣の字なり。コロモを下略してコと云うなり。源平盛衰記、今昔物語等に、紙子をかみきぬと書きたり。きぬは、衣の字なり。」

とある。
 浄土真宗の開祖、親鸞上人(1173~1262)も紙子を着ていたという句碑が、東本願寺の別荘渉成園に建っている。

「勿体なや 祖師は紙子の九十年」

 とある。書写山円教寺を開いた性空上人は、円融、花山の両上皇がたびたび教えを受けに訪れて有名に成ったが、書写山の性空上人が紙子を愛用していたことが、京都の街なかまで知られていたという。書写山のある播磨の国では、早い時代から優れた製紙技術をもって、大量の和紙を生産しており、正倉院文書にもその名がある。武家になくてはならない紙として杉原紙があるが、これも播磨の杉原で漉かれたものである。紙子は、貧者の使用するものとのイメージが強いが、一方で高度な紙漉きの技術と紙の加工技術を必要としていた。
紙衣を作るには、特に粘り強い紙が必要で、「美濃十文字紙」は漉簀を縦方向だけでなく横方向にも揺する、いわゆる十文字漉きで繊維の絡みが強い。さらに紙衣とするには、柿渋を引いては乾かしを数回行ってから、晴天の日に一夜夜露に晒したものを、足で踏んだり手で揉んだりして柔らかくして用いた。 
 また紙子や紙衾は、戦場を駆ける武将や、旅に放浪する俳人たちが愛好したことはよく知られている。松尾芭蕉(1644~1694)の俳句に、

「いくとせの 寝覚め思へる 紙衾」

とあり、元禄二年(1689)に、美濃の大垣に滞在したときに書いた『紙衾ノ記』には、
「出羽の国の最上といふ所にて、ある人のつくり得させたる也。越路の浦々、山館野亭の枕の上には、二千里の外の月をやどし、・・・・昼はたたみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終に頭しろくして美濃の国大垣の府にいたる。なをも心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ。」

とある。紙衾は、中に綿や藁などを入れたものも作られ、平安中期から江戸時代に至るまで、庶民なかでも概して貧しい人たちに広く用いられた。


紙扇

2006-08-02 09:43:27 | 紙の話し
和紙の歴史

(六)和紙の多彩な用途


紙扇

扇は中国の発明で、団扇のような形で伝えられ、七世紀末の『万葉集』に詠まれている。今日の扇子のように折り畳めるようになったのは八世紀の頃である。
 この扇は、檜の薄くて細長い板を綴り合わせて作られたもので、檜扇と呼ばれた。やがて、扇の骨に絹や和紙を貼って、折り畳めるものが工夫された。この和紙を張った紙扇は日本の発明である。
円融天皇の天禄四年(973)に、宮中で扇合わせが行われたという記録がある。扇合わせは、多種多様な趣のある扇を持ち寄って、宮中で見せあって、その優劣を競い合う遊びであった。紫檀の骨に、赤、浅緑、青などに染めた羅(薄絹)の張られたものや、金の骨に朽葉色の紙を張ったもの、沈香の木の骨に、朽葉の羅を張ったものなどの記録がある。
骨に絹や紙を張った扇をかわほり(蝙蝠の別称)と呼んだ。
『和名類聚抄』には、扇と団扇を区別している。実用には団扇を用い、儀礼的な場では扇を用いた。さらに、公式の場合は檜扇を用い、日常的な儀礼には紙扇を用いた。
 紙屋院で、美しく丈夫な紙が多く漉かれるようになって、竹の骨に和紙を張った扇は、華やかな流行になって、殊に貴婦人の必需品となっていった。
十一世紀初期の一条天皇の時に、扇の献上が行われ、扇の骨に蒔絵をしたり、金、銀、沈香、紫檀の骨に象嵌を施したり、彫刻をしたり、各種の和紙を張って、それぞれに趣向を凝らして、詩歌や名所の風景などを描いて献上した。
 このとき、藤原行成(972~1027)は、大納言の位にあったが、骨に漆だけを塗り、黄色に染めた唐紙の地模様の美しいものを張り、白楽天の詩「楽府」からとった文を鮮やかな楷書で書き、裏面には緩やかな草書で書いて献上した。
 天皇は、ややシンプルな藤原行成の扇を最も喜び、大切にしたと、平安時代の歴史物語『大鏡』に記されている。

平安時代の後半には、紙扇も公式の場に使用されるようになり、天皇が毎月一日に内侍所へ参拝する為の御月扇が月ごとに新調された。また毎年、絵所から賢聖御末広として、表に古代中国の賢聖、裏面には金銀砂子に草花を描いた扇が献上された。秋の七夕には、宮仕えの女房たちには、美しい扇が下賜された。公家達もそれぞれの家柄を象徴する紙扇を用いた。
このころの紙扇は、いわゆるぼんぼり扇で、一枚の紙を片面に張ったものであった。現在の扇のように、両面に紙を張ったものは、室町時代の頃から現れた。
骨の数も次第に多くなり、細工も洗練されてきた。先の方が開いたような形の中啓という形も現れ、これは能楽に欠かせない小道具になり、末広という縁起を担ぐ呼び名も生まれた。そして、この頃から扇子(せんす)とも呼ばれるようになった。
扇子を権威の象徴とする気風は、武家社会にも引き継がれ、黒い骨に真紅の地紙を張り、金色の日の丸を描いた軍扇が愛用された。
平和な時代が続いた江戸時代では、昔通りの白扇が殿中扇とも言われて、武家社会の作法に取り入れられている。
 和紙を贈り物にする風習は、公家社会に始まり、武家社会にも引き継がれ、「一束一本」とも言われた。武家社会では、杉原紙を愛用したため、杉原紙一束(一◯帖)に扇子を一本添えた。このような仕来りは、やがて庶民の日常生活にも浸透していった。
 日本で発明された紙扇は、団扇の本家の中国に伝えられて珍重された。
ポルトガルの中国進出に伴い、扇はヨーロッパに伝えられ、もてはやされた。十七世紀のパリでは、扇を扱う店が一五◯軒もあり、ヨーロッパ風に装飾された扇を手にするおしゃれな貴婦人がヨーロッパ全土にあふれたという。

扇面には、さまざまの意匠を凝らした絵柄が描かれたが、日常の調度品にも、扇の意匠が使用されている。江戸時代に制作された『扇面源氏蒔絵文庫』は、文庫の蓋おもてから側面にかけて、いっぱいに広げた扇を二面描いている。扇面には、『源氏物語』のそれぞれの場面が描かれている。
江戸時代初期の俵屋宗達の、扇面散屏風も同じ趣向で描かれており、京都醍醐寺三宝院などに秀作が残っている。
扇は、今日でも子供のお宮参り、冠婚葬祭、新築、開業、襲名など、さまざまな儀礼に使用されている。また、芸能界でも、長唄、清元、落語家、日本舞踊家なども、扇を使いこなしあらゆる表現に用いている。茶道の家元でも、形式ばった扇子を用いているが、千利休好みのものが受け継がれているという。
日本特有の竹と和紙の性質を巧みに活かした扇は、格調高い日本文化を支える重要な演出効果を果たしている。


浮世絵版画

2006-07-29 13:41:44 | 紙の話し
和紙の歴史

(六)和紙の多彩な用途


浮世絵版画

浮世絵は、江戸時代に開花した和紙が産んだ庶民の芸術である。江戸期の泰平の世に咲いた町人文化を、自由奔放に演劇や遊里の世界に表現している。
 浮世絵の開祖と云われている菱川師宣は、元禄期(一七世紀)の人で、当時の狩野派や土佐派の画家が支配階級に隷属するようにして奉仕している様子に反発して、庶民大衆を相手に絵を描いたことに始まると云われている。
 当初は、十二本骨の扇子に粋人好みの絵柄を描き、経済力を持ち始めた町人階級に流行し、浮いた庶民の世間を粋に描かれているため、自然に浮世絵と呼ばれるようになった。
井原西鶴が天和二年(1682)に刊行した浮世草紙『好色一代男』に、当時の粋人が服装に凝って、「扇も十二本骨祐善が浮世絵、小菊の鼻紙」を持って遊びに出かける姿が描かれている。これが「浮世絵」という言葉が文献にみられる最初である。
浮世絵は木版画として摺られて、町人階級に広く流布した。初期は墨一色で摺られたが、無名の職人による「見当」という道具の発明によって色彩を塗り重ねて摺れるようになった。多色摺りの技法が鈴木春信によって完成され(1765)、錦絵とも呼ばれる華麗な作品が生まれた。多色摺りの技術によって浮世絵の黄金時代が続き、喜多川歌麻呂、東州斎写楽、安藤広重、葛飾北斎などが輩出した。
江戸時代の商工業の発展によって、町人階級の経済力が高まったが、身分制度に縛られているため、その財力は享楽的な面に集中し、歌舞伎や遊郭がにぎわい、役者絵や美人画が流行した。題材が風景画にまで広がるのは江戸末期が近づいてからのことである。

浮世絵は、十九世紀初頭以来長崎からオランダ人によって非常に多くの版画作品がヨーロッパに伝えられ、当時の印象派の画家たちに大きな影響を与えた。
 浮世絵の形の単純化、要約された描線、鮮明な色調など、一見単純で有りながら複雑な余韻を残す表現方法に、印象派の画家たちは驚嘆し共鳴した。
 マネ、モネ、ドガ、ゴッホたちは好んで浮世絵を描き入れたり、その手法を取り入れた構図を描いた。
このように日本人の美的感覚が高い評価を受けたのも、美しく丈夫な和紙の上に精密で正確な表現ができたことによる。
高度な紙漉きの技術から生まれた丈夫な和紙と、印象派の画家をうならせた構図と大胆な描線を描いた絵師、木版の彫師、摺師などの緊密な共同作業から、浮世絵が完成した。
印刷用の和紙は、十数回の摺りに耐え寸分の狂いも出ない寸法安定性と強靱性が要求されるため、越前奉書紙、伊予柾紙、西野内紙などの楮を原料とした丈夫な紙を用い、顔料の滲みを防止するため、ドウサ(膠とミヨウバンを溶いた液)を引いた。


紙胎仏(したいぶつ)

2006-07-28 14:01:26 | 紙の話し
和紙の歴史

(六)和紙の多彩な用途


紙胎仏(したいぶつ)

紙胎仏は乾漆仏像のことである。紙胎仏は、木枠を中心に粘土で大体の形を模造し、その上から漆を塗ってから和紙を貼り、さらに漆を塗って和紙を貼りと何回も重ね貼りを行い、次第に形を整えてゆき、最後に中の粘土を取り除くという方法で作る。 木彫の仏に比べて、制作が容易でしかも微細で優美な表現ができる。仕上げの漆塗りの後、金箔を貼ることができ銅製の仏像と変わらない出来映えになる。製作期間の短いこともあり白鳳時代には盛んに制作された。
 代表的な現存する紙胎仏は、中宮時にある文殊菩薩立像で、文永六年(1269)に制作されている。
京都山科の随心院の本堂には、小野小町文張地蔵尊が安置されている。
これは小野小町が宮中に仕えていたころ、その美貌と歌人としての才能を慕い、多くの男性が恋文を送ったものを、下張りとして紙胎仏を作ったものと伝えられている。 絶世の美女と伝えられている小野小町は、身元も生涯もあやふやで伝説の人物に近いが、六歌仙の第一人者として評されており、小倉百人一首にも選ばれている有名な歌がある。

「 花の色は うつりにけりな いたづらに

        わが身世にふる ながめせしまに 」



明かり障子  

2006-07-19 12:09:03 | 紙の話し
和紙の歴史


(五) 和紙と建具 


明かり障子

明かり障子のすばらしさは、壁や遣戸のように外界との遮断をせず、外界の雰囲気を、光と陰で豊かに取り入れ、住む人に自然との融和の中での安らぎを与えている。 西欧の住まいは、歴史的に自然や外敵から身を守る堅固な砦の発想に基づき、外部との遮断が基本にある。居住性よりもむしろシェルターのような安全性の機能が優先されていた。この点が日本の伝統的な和風建築との決定的な相違となっている。
開閉自在の引き違い建具、遣戸とふすま建具の発明は、必然的に明かり障子の発明へと連なっていった。                  
 縁側に設けた遣戸は、開閉自在ながら閉めてしまえば室内が暗くなる。冬場でも、明かり採りのためには、寒くても遣戸を少し開けておかねばならない。冬場の昼間の明かり採りの必要から、明かり障子が発明された。    
 当初の明かり障子は、ふすまと同様に薄絹が貼られたようである。  
 ふすま障子は、組子構造になっており、絹や唐紙の代わりに中様の楮の和紙を片面に貼ることで、採光と防風,防寒を両立ちさせたと、考えたいが少し回り道をしたようだ。
 明かり障子の発想は、まず遣戸の杉板の代わりに、薄絹を張り採光を果たしたと思われる。
 此の当時の明かり障子は、『平家納経』の図録によると、四週に框を組み、数本の竪桟と横桟をわたし、片面に絹または紙を貼ったと見られる。 
 明かり障子も当初は寝殿造りなどの貴族の邸宅に採用され、ふすま障子と同様な漆の塗子の障子で引き手には総が付けられていた。 

 今日的な組子桟の明かり障子は、『春日権現験記絵』『法然上人絵伝』など鎌倉時代の絵巻物に数多く描かれている。
 『平家納経』の太い框と太い竪桟、横桟の明かり障子から、細い組子桟へと改良されている。
 今日の発想から考えれば単純な連想だが、ふすま障子の発明から明かり障子の発明まで凡そ100年の歳月を必要とし、平安末期に至った。    
平安末期の嘉承二年(1107)の『江談抄』に、文書を曝すときに四面に明かり障子を立てると記されている。
平清盛の邸宅六波羅泉殿は、それまでの寝殿造りとは異なり、建具が多用されている。特に寝殿北庇の外回りに「アカリショウジ」が三間にわたって使用されている。

 治承二年(1178)の『山槐記』には、六波羅泉殿の寝殿や広庇について、「庇の明かり障子を撤去する」とか「明かり障子を立つ」などと記されている。
 明かり障子もふすま障子と同様に、障子全面に紙を貼っていた。
 ところが、風雨の激しいときには、障子の下の部分が濡れて破れやすい。実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀戸を釣って内側に明かり障子をたて、下半分の蔀戸は立て込んだままになっている。
 このような状況から、明かり障子の下半分に板を張った腰板つきの障子が考案された。腰高は約80㎝で、ちょうど半蔀戸と同じ腰高となっている。
南北朝時代の観応二年(1351年)に描かれた、真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に、僧侶の住房に下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が二枚引き違いに建てられているのが描かれている。 

『徒然草』一八四段には、松下禅尼が明かり障子の破れたところを張り、息子の北条時頼に質素倹約を教えた話を記している。
 鎌倉時代以降書院造り建築が増えるにつれて、明かり障子が普及していった。『大乗院寺社雑事記』には、長禄二年(1458)十二月の条に、障子用として厚紙一三○枚を用いたとの記録がある。毎年の歳末には障子紙を張り替える習わしであった。
室内を明るくする採光を目的とした明かり障子は、透光性のよい薄い紙が良いが、破れにくい粘り強さが必要であり、また価格も安い物が好まれる。
 このような条件を満たす紙としては、壇紙や奉書紙、鳥の子などは不適当で、障子紙としては雑紙や中折紙など、文書草案用や雑用の紙を用いた。
 なかでも美濃紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても多用され、美濃雑紙が明かり障子紙の代表として評価されるようになった。 



源氏物語とふすま障子

2006-07-12 13:43:54 | 紙の話し
和紙の歴史 

(五) 和紙と建具 


源氏物語とふすま障子

『源氏物語』は、紫式部という宮廷の才女によって書かれた、一大長編物語であり成立は1011年頃である。『源氏物語』の中に、

「開きたる障子を 今少しおし開けて ・・・ こなたの障子は引きたてたまいて」

と、あり、また障子に歌を書き付ける話が何度か出てくる。       
明かり障子に文字を書くことはなく、襖障子には歌などを書き記すことが行われた。当時は、物事を直截に表現しないのが習わしであり、間仕切りはすべて障子と称した。しかしながら、前後の文章から明らかに「襖障子」の事であることが知れる。『源氏物語』の中には、ふすま障子をありふれた情景として描いている。この頃になると、貴族や上流階級の邸宅には襖障子がかなり普及していたと判断できる。『源氏物語』が書かれてから凡そ一〇〇年後の、藤原隆能の描いた「源氏物語絵巻」は、日本最古の絵巻物語である。家屋はすべて屋根や天井を省略した吹き抜け屋台となっているため、室内の様子が良く分かる。      
また、平安末期の『餓鬼草紙』『病草紙』、鎌倉時代の『春日権現験記絵』『法然上人絵伝』『一遍上人絵伝』などの多くの絵巻物に、数多く「からかみ障子」が描かれている。
 これらの絵巻物のおかげで、衝立、机帳、御簾、屏風などの建具の使用状況と、襖障子に大和絵などが描かれているのも分かる。



からかみ

2006-07-10 09:49:49 | 紙の話し
和紙の歴史


(五) 和紙と建具 


からかみの国産化

絹織物は高価であり、紙漉きの隆盛にともない徐々に絹布に代わって紙が貼られるようになっていった。
 当初は「唐」からの舶来品の、紋様や図案が雲母で擦り込まれた厚手の「唐紙」が使用された。平安時代に入り、製紙の技術が格段に向上して、雁皮を原料とした厚様の紙が漉かれるようになって、唐紙も国産化されるようになった。
国産化の試みは、唐紙の紋様や図案を中国では「花文」とよんでいたものを、とくに詠草料紙の雁皮紙に描き出すことから始まり、しだいに厚葉の鳥の子にも使用した。唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料で、室町期以降は貝殻を焼いた粉末を用いた)に膠をまぜたものを塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で摺り込んだものである。           
国産化された唐紙は、斐紙(雁皮紙)に「花文」を施したもので、「からかみ」「から紙」と表記された。
『新選紙鑑』(しんせん かみかがみ)には、襖紙のことを「からかみ」とし、

「から紙多く唐紙といふ。しかれども毛辺紙にまぎるるゆへ
                        ここにから紙としるせり」 
とある。
 『八条相国日記』の天政二年十月(1124)の条に、

「唐紙屏風二帖・・・」

とあり、屏風や襖障子に、からかみが張られるようになった。
もともと、衝立、屏風、襖障子には絹織物を張り、絵を描きさらに色紙形を押したりしていたが、唐紙の紋様を厚葉の鳥の子紙(雁皮紙)に写すようになつて、襖障子に愛用されるようになった。
藤原道長の『台記別記』の久安六年(1150)の条に、

「正式の座敷の障子には絹を張るべきだが、今は唐紙で代用している。」(意訳)

とある。
 『長門本平家物語』平兼隆被討(1180)の条には、

「火白くかきたて、からかみの障子を立てたりけるを、細目にあけて・・・」

とある。
藤原家良(1191~1264)選の『新選六帖』には、

「今宵さへ ことしげしとて逢ふことを 違へ遣戸の立てる からかみ」

と詠んでいる。主に絹布を張った襖障子に「からかみ」を張った障子を「からかみ障子」と呼んだ。
 唐紙は、唐から輸入される紙の総称であり、写経用の料紙や、詠草料紙が当初の中心であり、のちに「花紋」を施した文様絵付けの紙がもたらされている。
 このため国産化された文様絵付けの紙は、「からかみ」「から紙」とひらがなで書き、「唐紙」と区別した。
 さらに鎌倉時代の襖障子の普及と共に、「からかみ」は襖障子の総称に転じていくことになる。


ふすま障子

2006-07-09 10:22:36 | 紙の話し
和紙の歴史 

(五) 和紙と建具


ふすま障子の誕生

障子という言葉は、もともと隔ての意で、屏風・衝立・御簾・など間仕切りの総称であった。
これらの間仕切り障子に、絹布・麻布・葛布などを張り、その上から仏画・唐絵を描いた。平安時代からは、大和絵が盛んに描かれるようになった。
平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。           
 寝殿造りは、大広間様式で構造的な間仕切りがなく、壁面以外の外部への開口部は蔀戸(しとみど)が設けられ、内部は衝立(ついたて)、御簾(みす)、几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)などで間仕切って使用していた。
衝立や屏風には、唐錦(綾錦)の幅の広い縁取りが付けられ、軟錦(ぜいきん)と呼ばれた。屏風はこの衝立障子を縦長にしたもので、正倉院の「鳥毛立女屏風」のように、はじめは各扇が一枚ずつ離れていた。その各扇を襲木(押木、縁)で枠をつけ、革ひもで繋ぎ合わせていた。平安時代に入って、この革紐にかわって紙蝶番が使われるようになり、連続した広い画面にパノラマ絵が描かれるようになった。 
 正式な請客饗宴や儀礼の時には、母屋(もや)と庇(ひさし)の間の柱間に、軟錦で縁取りされた副障子(押障子)をはめ込み、室礼(しつらい)として使用した。        
 一本の樋(溝)を設けて落とし込んだ、取り外し可能な張り付け壁の副障子が基となって、のちに鴨居と二本の樋を設けて開閉して通り抜けができる、通入障子(鳥居障子ともいう)が工夫された。
 いわゆる引き違いの通入障子(とりい しょうじ)が、遣戸(板戸)や襖障子の考案につながった。遣戸(やりど)は廊下と室内の間仕切りに、襖障子は室内の間仕切りに使用されるようになっていく。      
衝立、屏風、張り付け壁、そして襖障子には、当初は麻布、葛布、絹布などが貼られていた。絹布には仏画・唐絵などの絵付けを行い、平安時代にはいると大和絵も描かれ、軟錦で縁取りされるようになった。       
 絵の達人で大和絵の創始者とされている巨勢金岡(こせかなおか)が、時の関白藤原基経の以来で屏風に大和絵を描いたという記録がある。