随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

紙布

2006-09-04 10:17:27 | Weblog
和紙の歴史


紙布

紙衣とは別に、紙を細く切り撚って紙糸にしたものを織機で織り上げた紙布も衣料として利用された。 
紙糸を経緯ともに用いたもの諸紙布という。経糸に絹・綿・麻糸を使い、緯糸に紙糸を使ったものを、絹紙布・綿紙布・麻紙布という。 
柿渋を引いた紙衣と違い、織機で織ったちゃんとした織物で、軽くて肌触りがよく特に女性の夏衣として珍重された。
紙布が生産されるようになったのは近世に入ってからで、正保二年(1645)の『毛吹草』、元禄五年(1692)の『諸国万買物調方記』などに、陸奥の特産として紙布をあげている。
正徳三年(1713)の『和漢三歳図絵』に紙布について、

「按ずるに紙布は紙を撚り、線のごとくにして織る。奥州白石より出ず。
    人以て襦となす」

 とある。宮城県白石市の特産で、当初は奉書紙の反故紙で紙糸を作って織ったと考えられている。
仙台藩の白石城主片倉家は、紙衣や紙布つくりを奨励し、さまざまの工夫を重ねて技術改良された。
江戸中期からは、この紙布が幕府に献上されるようになり、京都の公家たちへの進物ものとなっていた。
紙布の織り方も始めは平織りだけであったが、細かい皺のある縮緬織りや、斜文にした雲斉織、杉綾織、竜紋織など高級品も開発されている。
紙布用の紙糸の原紙は、当初は奉書紙の反故紙を細く切って糸に撚っていたが、後には専用の紙を漉いて用いるようになった。紙衣は十文字漉きを行ったが、紙布の場合は縦方向にだけ揺すり、紙糸にしたとき繊維の方向が一定で紙糸の強さが出るようにカジノキの一種の長繊維を丹念に精選してセルロースだけの長い繊維のまま漉いている。
白石の紙布は、明治六年にウィーン万国博に出品して進歩賞を受け、大正三年の大正博覧会まで出品されていたが、やがて作られなくなっている。
白石の紙布とは別に、明治期にはガンピを原料とした紙布で壁紙が作られるようになった。
 明治二十三年の第三回内国勧業博覧会に、東京本所の今井直四郎が紙布壁紙を出品している。