随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

社会的なヒステリーについて

2012-06-28 12:02:23 | 社会批評
 最近、報道などで、「絶対反対」という行動がクローズアップされている。

 「消費税値上げ 絶対反対」
 「原子力発電再稼働、絶対反対」
 「電気料金値上げ、絶対反対」
 「東北の震災ガレキ受け入れ 絶対反対」
 「普天間基地へのオスプレー配備、絶対反対」
 近くでは、「市民病院の移転建設絶対反対」

 ともかく、世の中に「絶対反対」の意見が多い。
 それぞれに立場が違えば、意見が異なるのはあたりまえです。
 それぞれが、それぞれの意見が言える、行動を起こせる自由は有り難い。
 しかし、反対意見があっても、民主主義である以上、多数意見に従わねばならない。

 ときとして、実力行使が行われたりする。
 震災ガレキの試験焼却のため、持ち込まれた車の前に立ちはだかり、
声高に叫ぶ人たちが居た。

「命が大切だ」「環境汚染を持ち込むな」
と、科学的な根拠もない、ヒステリーのような行動には唖然とする。
 日本人としての「絆」はどこへ行ったのか。

 そもそも日本人は近隣社会の絆を大切に育んできた。
 今日のグローバルな社会では、「オラが町」や「おらが村」だけが近隣では無い。
 日本全体が一つの近隣社会といえる。
 
 いたずらに「絶対反対」ではなく、もっと最善の道をみつける知恵をだしあったらどうだろうか?
 突出した「絶対反対」は、いわば社会的なヒステリーだと思っている。

後期高齢者医療制度

2008-05-17 12:04:12 | 社会批評
後期高齢者医療制度

 これは政治問題というより、大きな社会問題としても取り上げるべき問題と思う。
 そもそも、後期高齢者とは一体どういう人達であろうか 。
 誰しも一気に年齢を重ねるわけではない。当然、働き盛りの長い現役の時代には、日本の戦後復興期や、その後の不況期を乗り越えて高度成長期を支え、粒々辛苦して仕事に励
んできた。
 高い所得税や年金を積み立て、さらに高い社会保険料を払いつつも、まずは病院に掛かることもなく、元気に乗り切って人たちである。

 戦後の日本経済を支え続けて、ようやく豊かになった日本で、老後の悠々自適の生活を楽しむ世代である。
 孫やひ孫たちに囲まれ、少しでも経済的に豊かになった日本で 、衰えつつある身体を労りつつ、少しでも長生きを楽しみたいと思っている世代である。
 当然、身体の衰えには逆らえず、さまざまな疾患を抱えている。だからこそ、長い現役の時代に、高い医療費を負担し続けてきたその見返りを、高齢になったいまこそ、享受できるはずである。
 彼らの現役世代に負担し続けた社会保険料は、当然、当時の高齢者の医療費に大半が宛がわれたことは想像に難くない。
 そもそも健康保険制度とは、現役世代の健康な人々が保険料を負担し、高齢の弱者が享受するという仕組みである。

 ところが、いざ自分たちが高齢になって、医療保険の恩恵に浴すべき年代になった時、社会保険料を負担すべき若い世代が減少していて、高齢者の医療負担をするには現役世代の負担が大きすぎるとの理由から、一般の社会保険制度から切り離された。
 要は、膨らんだ医療費負担の削減が必要だから、病院通いの多い高齢者は、別途、「後期高齢者医療保険」として切り離し、応分の負担をせよという仕組みである。
 切り離されれば、当然、後期高齢者の保険料負担が必要となる。
 言わずもながら、後期高齢者とは社会的には弱者に属する。
 多くの人々が、年金生活に入っている。子供達がいれば、当然その扶養家族となっている場合が多い。
 ところが、突然、その仕組みを壊し、改めて後期高齢者医療保険制度に組み入れられ、保険料を年金から天引きをはじめた。
 後期高齢者にとっては、まさに青天の霹靂の事態てに遭遇したといえる。
 そもそも憲法に保障されている「健康で文化的な生活」をおくる権利は何処へ行った。
 
このまま社会保険で医療費負担が増加し続ければ、やがて社会保険制度そのものが崩壊すると言う。
 つまりは、少子化が進み、いわゆる団塊の世代が退職し始めると、社会保険料が現役世代の負担能力を超えてしまい、社会保険制度そのものが崩壊するともいう。
 
 しかし、このような事態は、当然予測されたことである。
 突然に湧いてきた話ではない。なのに、政治的には何の手だてもされず、縦割り行政の役人の考える保険制度という枠の中だけで話が進行している。
 政治家のリーダーシップが全く見えず、まさに全体像を見る能力のない、自己保身に汲々とする小役人のいうままに新しい保険制度が発足した。
 そもそ、役人とは無責任で、自己保身しか考えない下等人間である。
 社会保険庁の無責任な年金制度の管理に言を待つもでもなく、国土交通省の道路特定財源の無駄遣や、無責任な高い道路建設と無駄なダム建設、農林水産省の無責任な農林行政、外務省の無駄遣いなど、上げればきりがない程の行政の無駄が多い。

 こういう事態こそ、政治家の出番ではない。
 そもそも、何のために政治があるのか。
 強者だけが生き残り、弱者が滅ぼされるような社会を矯正するために政治は存在するはずである。社会的な弱者を救うことこそ、政治ではないのか。
 弱者もそれなりに生を全うし、努力した者が報われる社会でなくてはならない。
 それに逆行する後期高齢者医療保険制度は、まさに政治の無責任である。
 その能なしの政治家を、人気投票のようにして選んできたり、我田引水のような政治家に投票してきた人々も同罪といえるかもしれない。
 ともかく、弱者の我々が気を取り直して、政治家を真剣に選び、大きな社会問題を自らの手で直していかねばならない。
 社会的な弱者こそ、いま手を携えて立ち上がる時である。

西村真吾弁護士法違反事件

2005-11-30 12:27:08 | 社会批評
最近では珍しい硬骨漢の政治家と思っていた、民主党衆院議員の西村真悟容疑者が弁護士法違反事件で逮捕された。
逮捕されて真実が徐々に明らかになってきた。
西村真悟容疑者が、鈴木浩治容疑者に弁護士名義を貸して、政治資金としての裏金を作るために利用したという構図から、一転して完全に鈴木浩治容疑者から、西村真悟容疑者が
利用されていた構図が明確になった。

以下の「  」内は、報道の抜粋である。
「西村真悟容疑者の弁護士法違反事件で、西村容疑者が自らの法律事務所元職員・鈴木浩治容疑者に弁護士名義を貸していたとされる1998~2004年に、鈴木容疑者が扱った交通事故の保険金受け取り総額は約10億円に上ることが29日、大阪地検特捜部や大阪府警の調べでわかった。」
「鈴木容疑者は保険金額の30~50%を依頼人に請求し、少なくとも3億円を超える報酬を得ていたことも判明。「報酬は保険金額の10%」とした西村容疑者との約束を破って、上積み報酬分は隠しており、弁護士名義が「示談屋」に悪用されたことを浮き彫りにしている。」
「交通事故の示談交渉などの非弁活動(無資格の弁護士活動)を開始。西村容疑者とは、日本弁護士連合会が定めた弁護士報酬規定(当時)に準じ、保険金額の10%程度を報酬として受領し、両者で2等分することで合意していた。しかし、鈴木容疑者は、事務所経費を自分の報酬分から負担していたこともあり、実際には、依頼人に対し、保険金額の30~50%の報酬を請求。
 西村容疑者が事務所口座から「名義貸し料」などとして受け取ったのは計3400万円で、残る巨額の報酬は、鈴木容疑者の実入りになっていたという。」

やっばり、所詮は二世議員か、と嘆息せざるを得ない。
政治家として最も大切な金銭感覚が、やはりずれているとしか言いようがない。
なぜ、収入を堂々と申告しないのか、なぜ裏金が必要なのか不思議でならない。
また、かならず裏金を作ると、いつかは必ず露見するという事に気がつかないのだろうか。
わずか3400万円の裏金で、衆議院議員西村真悟、そして弁護士西村真吾の二つを同時に失い、社会的な制裁を受ける。
持っていた志の高さと比較して、あまりにも情けない金銭感覚の差に愕然とする。

やはり、国会議員になると、何処かで人間としての思い上がりが生まれ、世の中をなめてしまったのだろう。
以下は、勝手な西村真悟容疑者の心のなかの想像である。

「名を知られた衆議院議員の俺を騙すやつは居ないはずだ」
「周りに居るのは、皆俺の信奉者ばかりで、俺の脚を掬う奴なぞいるはずがない」
「交通事故の示談で、弱者に対して保険会社から保険金を支払わせるのは社会正義だから、代理人を使っても特別悪いことではない」

そう思っていただろうが、世の中には幾らでも人を利用する才知に長けた者がいる。
弁護士という職業は、まさに社会正義の番人としての重要な責務がある。それをないがしろにして、国政のほうが重要だという言い訳は通用しない。
この期に及んでも、弁護士の資格は捨てるが、まだ国会議員を辞めるとは言わない。
良識有る市民としての資格がないのに、この事件と国政は別だとか言うのは可笑しい。

鈴木容疑者は、「西村真悟法律事務所」という知名度を最大限活用し、相手を威嚇して常識では通用しない、保険金額の30~50%の報酬を依頼人に対し請求していた。
多分、通常の交渉では保険金が下りないケースでも、「西村真悟法律事務所」という名前に屈して保険金が下りたケースもあるだろうと推測できる。

西村真悟容疑者は、潔く弁護士法違反を認めているというなら、潔く国会議員も辞職するべきである。
ここで見苦しい断末魔を演じると、二度と再び政治の舞台には上がれない事だけは断言できる。かつて、西村真悟に清き一票を投じた者として、強く勧告したい。



耐震強度偽造問題

2005-11-26 11:40:25 | 社会批評
前回も触れたが、姉歯建築士の耐震強度偽造問題は、日々報道されているが、その広がりは留まるところを知らない。
 
 25日の報道では、国土交通省による聴聞に対し、「鉄筋減らせ」と指示されたと姉歯建築士は、3社の実名挙げたという。
 鉄筋減らしに関し、姉歯建築士が名指ししたのは、建設会社「木村建設」(熊本県八代市)、開発会社「ヒューザー」(東京都千代田区)、不動産会社「シノケン」(福岡市)の3社である。
 同省の説明によると、姉歯建築士は数年前、3社のうちの1社からの依頼で、構造計算書を作成したところ、「鉄筋量を減らせ」と指示され、計算書を作り直した。
しかし、再度「もっと減らせ」と迫られ、「これ以上減らすと安全性に問題が生じる」と反論したが、「それなら、ほかの設計事務所に代える」と言われた。
 このため「仕事がないと生活に困るので応じた」といい、これが偽造に手を染めたきっかけだったと主張した。
その後、他の2社からもコストを下げるよう指示があったという。
 偽造した構造計算書を検査した指定確認検査機関「イーホームズ」(東京都新宿区)については、「(検査が)通ってしまってびっくりした」などと話し、「(検査機関は)甘いところと厳しいところがあって、甘いところを使うようにした」と明かした。

 無論、建築発注元は、姉歯建築士の発言を全面否定しているが、ほぼ間違いないと思われる。
建築発注元は、マンションなどを出来るだけ安く建築し、出来るだけ高く販売したい。だから一番コストがかかり、表面からは判断しにくい基本的な構造部分でのコスト削減を指示したのだろう。
外装のデザインや設備や内装などの見栄えの部分でコスト削減すれば商品価値が落ちて販売価格に影響すると考えたのだろう。
耐震強度に必要な鉄筋を、きちんと入れたか否かは、外見からは判断できない。しかし、基本構造に手抜きをするということは、建物の耐震強度に直接関係し、耐震性が低いということは、住民の生命を脅かすことに直結する。

耐震構造に素人の建築発注主が、いくら無謀な要求を突きつけたからと言って、建築基準法に定める耐震強度の五割以下というのはひどすぎる。
 いくら受注競争が厳しいからと言って、建築物の基本構造部分で手抜きしてコスト削減を行えば、住民の生命を危うくする重大な犯罪である。
 姉歯建築士は、建築発注元に対して、これ以上鉄筋を減らすと安全性に問題が生じると抵抗したが、「それなら、ほかの設計事務所に代える」と脅されて屈したと述べている。
 
本当にそうだとすると、現在の報道はまだまだ氷山の一角にすぎない事になる。
つまり、姉歯建築士のように受註欲しさに、施主の言いなり発注元の言いなりで手抜きの構造設計をした建築士が多数存在する可能性が高い。
だから、姉歯建築士も「それなら、ほかの設計事務所に代える」という脅しにあっさり屈したのだろう。

報道されている問題の建築主は、近代的設備や見栄えばかりがよくて、耐震強度に直結するが表面からは全く見えない「建物の信頼性」を犠牲にして「砂上の楼閣」を建築していたことになる。
 
 人間にとって最も基本的で最も重要な「衣」「食」「住」に関して、偽装等で素人を騙して、生命の安全を脅かす行為は断じて許されない。
 まして住まいは、個人財産の中では最大のもので、一生を懸けてローンを組んで買うものである。その財産と生命共に脅かされている人々が出てきた。
 しかし、現在表面化しているのは、「姉歯」関与の物件ばかりである。

 「姉歯」関与以外の、隠れていて表面化していない第二、第三の耐震強度偽装マンションなどが存在するはずだ。
 この機会に全てのマンション住民は、設計図の再検討と、設計図通りに建築されているか、徹底して調査するべきであろう。

 問題が発見すれば、速やかに国土交通省や地方自治体とともに、対策を法律で講じる道を開くべきだと思う。
 空前のマンションブームに支えられて、次から次へと新しいマンションが建築されてきたが、日本でこのように基本構造に手抜きのあるマンションが平気で建築されてきたということに、ひとりの日本人として驚きを隠せない。
 マンション業界は、まさに言葉通りの「砂上の楼閣」ではないかと疑いたくなる。

 つまり、日本人の仕事に対する無責任さが、ここまで来たかと思わずにはいられない。
本来、建築物というのは長年月にわたって残るもので、自分の仕事に誇りと自信をもって後世に残していくものが建築ではなかったか。
 寺院などの木造建築では、棟梁がいて伝統の匠の技を伝承してきた。彼らにはまさに隠れた部分に創意工夫をして、建物を長く後世に残すことを誇りにしていた。

 いつの間にか、日本人は仕事への誇りを無くし、目先の利益ばかりを追求するようになった。挙げ句が、他人の生命・財産すらも危険に晒してでも、己のみの利益を追求するという実に「あさましい」実態となっているような気がする。

 姉歯建築士の関与した強度偽装問題で、ここに三日に報道された見出しをいか列挙しておく。
 ■「姉歯」関与の偽装32棟に、台東区・長野県も見逃す
 ■強度偽装マンションの元請け設計会社社長が行方不明
 ■ヒューザー、公的支援なければ破産も検討
 ■木村建設東京支店長「姉歯氏に裏金作り協力させた」
 ■建築士免許更新制に、分野別認定も…国交省検討
 ■公明が緊急対策申し入れ、民主は視察…強度偽装問題
 ■「姉歯」関与の横浜のマンション、調査待たず分譲中止
 ■静岡のホテルも営業休止へ…姉歯事務所が構造設計
 ■マンション11棟408戸、退去勧告へ


姉歯建築士の構造計算書偽造問題

2005-11-22 11:44:16 | 社会批評
 姉歯建築設計事務所(千葉県市川市)が、元請け若しくは下請けとして構造計算を行った、首都圏のマンションなど21棟の耐震強度が偽装されていた問題で、国土交通省は21日午前、17棟の耐震強度の再計算結果を公表、すべての建物が耐震基準を満たしておらず、16棟(完成済み13棟、工事中・未着工3棟)は、震度5強の地震で倒壊の恐れがあることを明らかにした。
 
 構造計算書は、重力や風圧、地震などの外部からの力に建造物が耐えられるために必要な、鉄筋の本数や柱の太さを計算した書類で、建築士が作成する。
 荷重に対して部材の断面に働く応力や部材の変形度合いなどを計算した数値を示す。柱や梁(はり)、壁などの部材の材料を決める構造設計図の適正さを証明する書類で、建物の複雑さで異なるが、一般にA4判で数十ページ以上となる。
設計者は建築確認申請時、構造計算書を含めた設計書類を行政や指定確認検査機関に提出する。

構造計算は、建築物が震度6弱の中規模程度の地震で損壊しないか、震度6強~7の地震でも生命を守られるか等を、コンピューターを使って算出する。
ところが姉歯建築士は、本来入力すべき数値の半分程度のデータを入力して算出し、正規の書類と混在して提出していたという。
つまり偽造された構造計算書では、地震が起きた時に水平方向にかかる圧力を半分程度で計算し、必要な鉄筋の本数が少なくなるよう改ざんしていたのである。

構造計算書は、マンションやホテルなど一定の規模以上の建物については、建築基準法に基づき、建主は建築確認をする際に、行政機関か民間確認検査機関に設計図とともに提出することが義務付けられている。
建築確認とは、建物の建築開始前に、構造や設備の計画が建築基準法などの法令に適合していることを確認する手続きである。
市などの建築主事か、国土交通相や都道府県知事が指定した、民間の確認検査機関に申請して審査を受けなければならない。

一方、姉歯建築士が偽造した構造計算を、元請け設計事務所が確認しないまま、国指定の「確認検査機関」に提出し、さらに行政機関から委託を受けている民間確認検査機関のイーホームズ(株)が、ずさんな建築確認検査を行ったため、ほとんどフリーパスで耐震強度偽造が罷り通るという事態を招いたことになる。

建築主は、出来るだけ建築コストを押さえる設計を希望するが、一般の一級建築士に依頼しても正規の構造計算をするから、基本的な建築コスト削減にはならず、内装費用の削減程度しか提案できない。
ところが、姉歯建築士が構造設計し、耐震強度偽造を行った建築物件の建築確認検査がフリーパスで通った。次回も建築確認検査がフリーパスで通った。
こうなると、姉歯建築士は偽造に自信を持ち、次々に低コストで建築可能な構造設計を行ったと思われる。

一級建築士は毎年約5千人も誕生し、市場ニーズを上回る多くの有資格者が存在し、受注競争となっている。
このような状況の中で、建築コストを押えることが出来れば、建築設計依頼を受注できるという思いから、つい姉歯建築士は耐震強度偽造という、あまりにも無責任な暴挙を行って、低コストで建築できる構造設計で建築確認申請を通した。
このような状況で、全国から姉歯建築士に依頼すれば建築コストを押さえられる、設計依頼が殺到した。
こうなると、姉歯建築士は泥沼にはまって身動きが取れなくなったという事であろうか。
しかし、憲法でも保証されている基本的な「生命」と「財産」を危険に陥れた、その責任の重さは、万死に値する。

そして民間確認検査機関のイーホームズ(株)は、耐震強度偽造を見抜けなかったのではなく、本来の確認検査機関としての再計算などを行わなかったとしか言いようがない。
すべて「無責任の連鎖」がこのうよな重大な事態を招いている。
 
工事中や未着工の4棟についてはまだ証が終わっていないが、設計図を見れば一目で強度不足がわかる物件もあり、大部分が住民退去や取り壊しなどが必至の状況である。
取り壊しや住民退去にかかる費用負担は巨額に上ると見られる。
 
国土交通省では、各建物の実際の耐震強度が、必要な強度の50%程度以下だと、建て替えや大規模な補修が必要になると判断している。
東京・墨田区や江東区などにあるマンションと、中央区にあるビジネスホテルなど8棟の建物では、耐震性が基準の30%未満から40%程度しかなく、震度5強程度の地震が起きた場合、いずれも倒壊する恐れがあるという。
一部には、なんと建築物自体の自重にさえ耐えられない、10年程度で自壊する恐れがあるという信じられない構造設計物件もあるという。
これらの建物について、国土交通省は、補強工事だけで耐震性を確保することは難しく、大がかりな免震工事や最悪の場合建て替えが必要になるとみている。

22日の新聞報道によると、千葉県の姉歯建築設計事務所立ち入り調査によると、過去10年間に22都道府県で合計194件の構造設計に関わっていることが判明した。
耐震強度偽造物件は、さらに大きく全国的に拡大するという、最悪の事態になりそうな状況である。

過去様々な住宅建築に絡む手抜き工事が問題になったが、今回は個別の個人住宅事の手抜きのレベルではなく、大型のマンションやホテルなどの構造設計と耐震強度偽造の問題であり、被害者の数は過去例を見ない大規模な事態と言わざるを得ない。
住宅は個人の買い物としては最大のもので、何度も住宅を買える人はあまりいない。その住宅のマンションに基本的な構造設計に手抜きがあって、低コストで建築された代償が住民の生命の危険というあまりにも理不尽な話しである。

 新たな耐震偽装ホテルの存在が21日に判明し、強度偽装問題が拡大の様相を見せる中、「国や自治体は損害賠償の責任を負わないのか」という疑問が、クローズアップされてきた。
 最高裁は今年6月、民間の指定確認検査機関が行った建築確認は、自治体が行ったものとみなすとの決定を出している。
「あくまで民民問題」とする政府幹部の見解に対し、一部の建築主は「責任は全面的に行政にある」と主張している。
自治体関係者からも「賠償を求められたら、責任を負わされる可能性がある」との声が出始めている。
 最高裁決定を受け、自治体の責任を追及するケースも予想される。
すでに、建築主の1社の「サン中央ホーム」(千葉県船橋市)は、「最高裁判例では、建築確認申請の許可権者はあくまで市であり、市に責任がある」とするチラシを住民に配布している。
 これに対し、横浜市は、「今回の件では、設計事務所や指定確認検査機関に責任があるほか、指定をした国にもその責任の一端があるのではないか」と主張している。


摂河泉の だんじり祭り

2005-09-21 10:09:57 | 社会批評
摂河泉(せっかせん)とは、大阪の広域を呼称する地域名で、昔の分国名の、摂津、河内、泉州をさしている。この摂河泉では、秋の祭礼として各地域で盛大な「だんじり祭り」が行われ、地車を勇壮に曳き回す。
「だんじり祭り」といえば、岸和田の「だんじり(地車)」が全国的に有名だが、摂河泉のだんじり祭りの先頭を切って、9月14日、15日に行われ、三十数万人の見学者が集った。

岸和田のだんじり祭りを皮切りに、摂河泉一帯で順次十月一杯、各神社の祭礼として地車を各町内の路地から商店街で勇壮に曳き回される。
青年団の若衆は、どんな重要な仕事でも休んでだんじり祭りに没頭する。
選ばれた若衆頭が、地車の屋根に登り、団扇を扇ぎ勇壮に舞いながら音頭を取る。摂河泉の青年団の、まさに晴れの舞台である。 
地車の長い牽引ロープには、町内の小学生低学年から青年団までの若衆数十人から百人ほどが取り付いて、町内を引き回して、町の辻で見せ場の豪快な辻回しを見せる。

摂河泉には大変な数の地車がある。
岸和田市だけでも十地区あり、それぞれの区内に数町があり、それぞれに自慢の地車がある。堺市にも、十一の地区があり、それぞれの区内にやはり数町がそれぞれの地車を持っている。
私が住んでいる鳳地区にも、大鳥、野田、北王子、新在家、野代、長承寺、石橋、上の八台の地車が、狭い鳳地区の町と鳳商店街を駆け抜ける。
泉州地区だけでも約二百台もの地車が、秋空の下を勇壮な捻り鉢巻きの若衆の法被姿に曳かれて行くのである。
摂河泉の町で育った若者は、その町内の青年団や若衆に、だんじり祭りを通じて、地域の連帯感を育まれ、さまざまな仕来りや儀礼を学んでいく。

摂河泉の「だんじり祭り」の起源は諸説ある。
大阪城築城の際に、各地域から切り出した巨石を運ぶための修羅を、各村対抗で競争して曳かせた事を起源とするという説がある。
別の説では、大阪城築城を祝って、各神社から地車を曳いて祝ったという事を起源としていると言う。
神社の祭礼という立場から、地車は神様を乗せて村を練り歩き、豊作を感謝したという説があり、また祭礼に神社への供物を運ぶ時に使う車を起源としていると言う説がある。
それに関連して、昔から神は海の彼方から来ると信じられていたため、「船だんじり」として、船型の地車が主であったという説などもある。今日でも南河内の太子町や橿原市十市町には、船型の地車がある。
 
「だんじり」の名の由来も諸説ある。
台尻(だいじり)説というのは、だんじりの台尻を引きずることから。台摺る、(だいずる)からきているという説である。
また、神聖な地車の壇の奥を「尻」と言い、最高に神聖な場所とされている事から、壇の尻を担ぐことから、(だんじりを担ぐ)となったという説もある。
あるいは、台をにじらせるように進んだことから、台にじりと称し、それが訛って「だんじり」となったという説もある。

 「だんじり」は漢字で書くと地車、楽車と書く。
「だし」は山車で、「担ぎだんじり」ともいい、神輿・布団太鼓・太鼓台などがある。
「牽きだんじり」として、の代表的なものが京都の祇園祭の鉾である。

EXPO2005 愛知万博

2005-09-19 17:30:25 | 社会批評
愛知万博は、その半年の開催期間も残り僅かとなって、9月になって連日超満員の盛況のようである。
私が「愛地球博」を訪れたのは、開催されて間がないまだ寒い4月1日であった。
公式のホームページの入場者グラフ推移を見ると、開催後暫くは入場者数五万人前後で推移し、博覧会事務局の予想の一日十万人を大きく下回って心配された。
その後、5月には目標の十万人を越す日が増え、その後は順調に入場者が増加し、8月後半には十五万人を超え、9月に入ってなんと二十万人を超える日が続いている。
愛知万博に出かけても、これでは人気パビリオンを一つか二つ見学するだけで終わる可能性が高い。

私が愛知万博を訪れた4月1日には、約6万人の入場者数であった。
それでも、人気の高いパビリオンは、時間帯によるが、どこでも60分以上の待ち時間があり、人気館では90分~120分待ちの行列が出来ていた。一番人気のトヨタ館は、120分待ちの行列があり割愛した。人気の日本企業パビリンオンは三井東芝館、ガスパビリオン、他に一、二館程度で、夜になってやっと長久手日本館を見学した。
 
外国パビリオンは比較的に空いていて、エジプト館、イギリス館、カナダ館、ロシア館、ポーランド館、スイス館、アイルランド館その他オーストラリア館など幾つも見学できた。
外国の産物や先端技術、そして文化や芸能、美術その他料理などを通じてその国の理解を深めるのが本来の万博の姿ではないかと思っている。
万国博覧会であるから、やはり外国のパビリオンを出来るだけ見学するべきとも思うのだが、どうしても日本の企業パビリオンに人気が集中する。万博を見学する側にも問題があり、人気の日本の企業パビリオンにばかり並ぶから、長蛇の列ができてしまう。

万博といえば、1990年に大阪で開催された花の万国博覧会EXPO90や、さらに、やはり大阪で1970年「人類の進歩と調和」をテーマに開催された、本格的な日本万国博覧会EXPO70が開催されている。
いずれも思い出すのが、人気パビリオンでの長い順番待ちの行列である。
何時の万博でも、毎回なぜこんな長い行列を作る事態に陥るのか?

日本で開催される万博では、どうしても日本企業が宣伝効果を期待して、派手な企業グループ館を出店する。通常の企業の先端技術を駆使した商品を展示しても、専門家以外は興味を示さない。一般客を呼び寄せるには、その万博のテーマにあったイベントを開催するが、なんと言っても映像に勝るものはない。
EXPO70の時に、すでに人気企業パビリオンでは、超大型スクリーンや、ドームスクリーン、本格的3D映像、マルチスクリーンなど、さまざまな映像を駆使したパビリオンが登場している。

スクリーンであるから、定員を設けて10分なり15分の上映時間を必要とする。このため、必然的に待ちの行列ができることになった。
以来、万博見学とは、人気企業パビリオンに長時間行列に並び、辛抱することが参加する条件のようになっている。
はるばる遠くから交通機関を乗り継いでやって来て、二時間も三時間も行列に並んで、わずか10分~15分程度の特殊映像を見る。
これでは、万博の意図する雄大なテーマを理解し、感動するにはほど遠い状況にある。

今日インターネットを始めとしたIT技術は進歩し、携帯電話は一人一台の時代を迎えている。最近はテレビ番組ですら、携帯電話を使った視聴者参加の番組すらある。
それなのに、愛知万博でも相変わらず長い行列に並ばねば見学できないとは、一体どうした事か。
あまりにも工夫がなさ過ぎて、見学者への思いやりに欠けた、人に苦行を押しつける博覧会と言えないだろうか。

予想外の見学者の結果、長い行列ができた、とは言えない。
もともと、一日10万人の予想を下回る6万人の入場者の時ですら、一時間、二時間の長蛇の行列が出来ていた。計画通りの10万人を超え15万人となって、人気パビリオンの待ち時間は3時間から四時間となるのは当たり前だろう。
しかし、何の対策もない。嫌なら並ぶなという姿勢は、人を大切にしている企業や博覧会教会の態度ではない。

高い入場料を取られ、飲食はゆとりのない混雑した人混みの中で、料金の高い粗雑な食事を摂り、長時間の行列に並んでへとへとになって帰って行く。
これが人類の英知を謳う、現代の博覧会なのかと呆れる思いがする。
携帯電話やネットを駆使して、実際には炎天下に行列をつくら無くても、入場者の順番を決定できる方法はあるだろう。
ネットや携帯を使えない人には、コンビニなどの窓口で、受け付ける方法も考えられる。
いずれにしても、本当に人に優しい、人類の英知を結集した「万国博覧会」を研究してもらいたいものである。

最後に一言、これから駆け込みで愛知万博を考えている人は、間違っても企業パビリオンを訪れてはいけない。時間を浪費し、疲労だけを感じるだけです。
外国パビリオンをじっくり見学するほうが、はるかに意義があると思います。


コボちゃん

2005-09-02 11:40:15 | 社会批評
読売新聞朝刊の連載4コマ漫画は、植田まさしの「コボちゃん」である。
実にほのぼのとした家庭の風刺漫画である。
お爺ちゃん夫婦とその娘夫婦そして孫のコボちゃんという家族構成である。甥も同居していたが、ついに6月に結婚した。
ごく平均的な家庭の中での、平和な暮らしを描きつつ、人間の本質を衝いたユーモアのセンスにいつも感心しつつ、微笑んでしまうのである。

だから、この漫画を毎日楽しみにしている。
一面トップ記事に興味を引くもの、大事件報道がない時には、まず、一番後の社会面に掲載されている4コマ漫画「コボちゃん」を見る。昨年末頃からか、あるいは今年に入ってからか、色付けされた漫画になっている。
新聞連載だから、日曜祭日もなく毎日連載されていて、よくぞネタ枯れにならないものだと感心している。

まったく嫌みのない、サラリとした家庭を中心にした人間模様を、4コマの中で展開し、飽きさせない魅力をもっている。
基本的に政治風刺は一切なく、家族を通じた社会風刺や人間の本質に根ざすペーソスが中心となっている。
今日の連載回数で8301回だから、もう二十三年以上も連載されていることになる。まさに、読売新聞の顔であり、殺伐たる暗い事件報道の横で、ほのぼのとした光彩を放っている。

新聞に漫画を掲載し始めた元祖は、あの福沢諭吉である。
福沢諭吉は、明治十五年(1882年)に日刊新聞『時事新報』を創刊した。
その福沢諭吉は、文化人で最初に漫画の重要性に気が付き、明治三十二年『時事新報』に、北沢楽天の漫画を掲載させた。しかも政府高官と同じくらいの高給であったという。
軽妙な新聞漫画の、社会風刺がもたらす一服の清涼飲料のような役割を、福沢諭吉が高く評価していた事に改めて敬意を表したい。

私事だが、この「コボちゃん」を愛し、今年の三月から毎日欠かさず切り抜き、ノートに貼り付けている。
詰まらない事のようだが、毎日繰り返すにはそれなりに努力もいる。
この「ブログ」も、内容の出来はともかく、できるだけ毎日書いていきたいと思っている。
何事も「継続は力なり」で続けることに何か意義を見つけて行きたい。



携帯電話の考察

2005-08-31 12:37:19 | 社会批評
携帯電話は大変便利なもので、無論私も使用している。
現役の時代に、初めてNTTから1988年(昭和63年10月)に発売され、その直後に手に入れた。
最初の機種は、今から考えると、とても大きく重かった。
現在の家庭電話の子機の倍ほどの大きさで、ちょうど軍事用の小型無線機のような感じであった。大きな受話器のような携帯電話で、重量も重く片手で持つには少し重いため、手の甲に掛かるベルトが付いていた。
とてもポケットにはいるようなものではなく、鞄に入れて持ち歩いた。鞄から長いアンテナを立てていた。いきなり携帯電話を取り出して話しをすると、みな振り向いて驚きの顔をしていた。

それから、すぐに本格的な小型のNTTムーバシリーズが発売され、NEC製の二つ折りの携帯電話へ機種変更した。
その初期のムーバーシリーズも、いまの携帯電話に比較すると重量が倍ほどもあったと記憶している。
この当時の携帯電話は名実共に「携帯電話機」であった。それでも沢山の電話番号を登録できるから、以前のように得意先の電話メモ帳を持つ必要がなくなり、メモ帳を忘れて出先からあわてて得意先の電話番号を会社に問い合わせる必要もなくなって大変便利になったと実感したことを思い出す。
そして、いつでも何処にいても電話で呼び出されてしまうという悲劇(?)も生まれた。つまり、クレーム等が発生して時間稼ぎをしたい時でも、「ただ今外出しておりますから、戻り次第お電話いたします」と云えなくなってしまったからである。

1985年4月1日に電電公社が民営化され、まもなく通信の自由化が進み、NTTの独占がなくなり、やがて携帯電話会社も次々に新規参入が認められて、機種も一気に増加すると共に、毎年多機能の新機種が発売されるようなった。
それからの携帯電話の進歩は、まさに目を見張るものがある。
特に平成11年2月に、NTTの「iモード」がスタートしてからは、まさに爆発的に携帯電話が普及したがのではないかと思っている。
携帯電話の主役が、企業の情報伝達手段から、一気にパーソナルコミニケーションツールへと変貌を遂げた。

このような爆発的な携帯電話の普及は、通信事業者の予測をも超えたものではないだろうか。
普及とともに各社が競って多機能を付加して、もはや電話機能はおまけのような、存在になっている。
若い世代は、電話機能よりも、むしろメール機能やインターネット機能を重視しているのではないかとも思える。
もはや携帯電話機ではなく、パーソナルコミニケーションの道具であり、パーソナル情報端末とも云える存在に成長した。
さらには、デジタルカメラ機能も進歩し、メモリーも付いて、デジカメと変わらない性能を有し始めている。中にはテレビ機能やデジタル音楽を楽しめる機能も普及している。

一時は小型化を競って、胸ポケットにピッタリの小型が主流であったが、パーソナルコミニケーションの道具として、インターネツトやメールが主流となってからは、殆どが二つ折りの液晶画面の大きなものに切り替わってしまった。
若い人々が一様に、この二つ折りの携帯電話を、所かまわず何処でも開いて、メールを見たり打ったり、インターネットを覗いたり、ゲームをしている。
歩きながらであったり、自転車に乗りながらであったり、駅のベンチであったり、電車の座席であったり、つり革に掴まりながらであったりまさに時、所を構わずである。
それも一人二人ではない。電車の中では、何人もがそれぞれの携帯の液晶画面を覗いているのである。電車の車掌が放送で毎回繰り返す「携帯電話のご注意」なんかとことん無視して、優先座席にどっかり腰を据えて、メールを打っている。
そして、いくらなんでも自転車に乗りながら、歩きながらではとても危険極まりない。ただでさえ自転車の交通ルールを無視した傍若無人ぶりに辟易しているのに、さらに携帯の画面を見ながら走っているのである。マナー無視よりも、曲芸乗りのようで危険過ぎる。危険に対する感覚が、皆無としか云いようがなく、幼児レベル以下である。

もう一つ不思議なことがある。二人でデートしている風情なのに、対面してテーブルに座っている片方が、熱心に携帯でメールを打っている。片方は手持ちぶさたでぼんやりしている。
また、グループで集って談笑している中で、必ず一人や二人携帯でメールしている。
それなら、デートしたり、グループの談笑に参加せねば良いものをと思ってしまう。
携帯はパーソナルコミニケーション・ツールのはずではないか。目の前の友達とコミニケーション取らずに、携帯で別の人とコミニケーションする姿は、私の年代の理解を超えている。
第一、目の前の人に失礼ではないか。彼らの対人関係には、最低限の節度や儀礼も無いのだろうか。

彼らは、携帯で一体何を熱心にコミニケーションしているのだろうか。
詰まるところ、現代人はみな孤独に違いない。だから、つねに誰かと会話のようなメールをやり取りして、誰かと何か共感していないと、落ち着かないのではないか。
インターネットから、興味のある情報を絶えず受け続けないと、自己に全く自信が持てないのでは無いか。
自分で物事を考える能力を無くして、善悪を超えて他人の情報に常に接して、受け身的に何かに共感し安心するのだろうか。

繰り返される「出会い系サイト」による女性の被害が後を絶たないのは、このような状況に依るのだろう。
一般社会人ならば、当然新聞やテレビその他の報道を見るし、的確な身の危険を客観的に判断する能力を身につけている。
幼児的な自己中心的な世界から抜け出せていない若人が増加し、「馬鹿な事件」の被害者が後を絶たないのではないか。
世の中の変化が早く、さらにはジャンク情報過多の中で、情報選択基準を持たない若人が、情報の渦の中で自己亡失して、情報過多の犠牲になっているような気がする。

ごく一部とは云え、携帯にまつわる不思議な社会現象である。