随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

円高の謎

2012-07-31 22:46:45 | 経済
 お札の話の余談として、円高の謎に迫ってみた。

 
 円が急に90円になったとき、まるでシロウトながら「これはドル買いだ」と早合点し、僅かながらもドルを買ってしまった。
 すぐに97円くらいに戻した。
少し欲をだして、せめて100円台に戻ったら売るつもりでいたら、また円高に戻り、予想以外の円高が続いている。
 以来、ずっと塩漬けである。悔しいから、円高の理由について、気になっていたことについて今回いろいろ調べてみた。
 結論的には、容易に円安には戻らないであろうと、涙している。

 

 
 現在でも多くの国の貿易では、ドル建てで行われている。
 為替相場は、本来、国際決済通貨であるドルを、自国通貨に交換するために利用する。
 為替相場のレートは、原則論で言えば、為替交換の実需できまる。
 国際間の決済通貨が必要な時には、ドルを買う。
 自国通貨に交換するには、ドルを売る。
 この実需バランスが、為替相場の原則ながら、一方で変動する国際金融事情によって各国の通貨価値が変動している。

 為替相場は、その国の金融事情と財政状況に左右される。
 特にその「金融安定度」と「金利」、「通貨発行高」と「外貨保有高」に左右される。

 まず、「金利」でみると、日本の金利は相変わらず世界最低である。
  しかし日本はデフレ傾向のため、金利がゼロでも、実質プラス金利であり、新興国はインフレ率が金利を上回っているから、実質マイナス金利と判断されている。

 「通貨発行高」では、アメリカが、貿易収支で赤字がつづき、また金融緩和策でドルをたくさん刷ったから、相対的にドルの価値が下がった。
 貿易収支で膨大な黒字を記録している中国は、通貨高になるはずながら、弱いドルと連動している。 これは、中国の「通貨供給量」が異常に多いからである。1999年を100とすると、2009年では450近くになっている。
 通貨供給量が増加するのは、経済成長率が高いことを意味し、インフレ傾向にある。
 10年で4.5倍も通貨供給量が増えているから、人民元は高くならない。 
 その他の国でも、10年で200くらい通貨供給量が増加している。
 ところが、日本だけは10年で120程度と通貨供給が押さえられている。
 日本の潜在的成長率を2%とすれば、毎年4~5%通貨供給量を増やす必要があるが、金融当局では通貨供給量を抑えている。
 こうした金融事情にもとづく為替市場で、その時々の通貨の価値が決められている。

 


 つまり、円高という場合、ドルやユーロと比較して「相対的な評価」が高くなっているということを意味する。また、インフレ率が高ければ、通貨の価値が下がり、インフレ率が低ければ、上がると考えることができる。
 そして、長期的にはそれが為替レートに反映される。日本は長期にわたってデフレ傾向にある。

 要は、為替レートは、二つの通貨の片方が高くなれば、片方が安くなる総体取引の仕組みである。つまり「円高」の裏側には、安くなっている通貨が存在する。

 一方で、為替相場は、実需ではなく「金融の力学」に従って動いている。
 つまりは「通貨自体」が金融商品として扱われているのである。
 実需以外の投機的な資金は、「相対的な評価」が高い円をターゲットにし、円高を誘導して高くなれば、「利ざや」を稼いで売る。
 その利益で、さらに円を買い増しする。
 万一、期待通りに利ざやが稼げなくとも、円を保有すること自体が、他の通貨を保有するよりも「リスク回避」と考えられているからである。




 では、なぜ円を保有することが「リスク回避」なのか。
 かつて日本の金融機関は、バブル崩壊で財務内容が悪化して、90年代後半には「金融危機」と言われる事態になった。
 このとき、経済混乱を回避するために、政府は、金融機関の劣後債・優先株買い取りなどで金融機関に「公的資金を強制注入」した。
 さらに、省庁再編の際に、旧大蔵省から銀行部門を切り離して「金融庁を設立」し、厳しく監視・監督する政策を実施して、金融機関の自己資本比率は大きく改善し、財務体質を強化してきた。こうした経緯で、現在は「日本の銀行」は世界の銀行の中で、最も安定していると見られている。
 
 

近年は、「リスク回避の円買い」傾向となっており、リスク回避的になる時には、全世界の株が下落し、円高となる傾向が強い。
 つまり、株式投機に向けられるべき資金が、円買いに流れてくるからである。
 国としての債務不履行の可能性はないと判断されているから、世界の経済が非常に悪化した場合でも、資産を日本円で保有しておくのが、最も安全であると判断されているからである。
 このため、世界の投資家・投機家の判断が円買い招いている。

 ところが一方で、「日本の国家財政」は、国債の発行残高は12年度末で708兆9千億円となる見込みである。
 また借入金や政府短期証券などを加えた「国の借金」は、昨年9月末で954.4兆円にのぼっていたが、12年度は国債だけで52.4兆円増える見込みのため、12年度末には1千兆円を超えるのが確実となっている。

 来年度予算案では、一般会計90.3兆円とみなされているが、税収見込みは、42兆3460億円を見込んでいる。
 単純な計算では、年間税収額の23年分の借金を背負っていることになる。まさに国家財政の観点からは、財務危機といえる状況であろう。
 欧州の財務危機が叫ばれているイタリアやフランスよりも、債務残高のGDP比率は日本の方が高い。
 債務残高のGDP比率  日本 197.2  イタリア 127  
 フランス92.5  アメリカ 92.4 などとなっている。




それでも、なぜ円高が続くのか。
 つまり日本の国債(債務残高)のほとんどは「日本の金融機関や個人が保有」しているため、売りが殺到する可能性がきわめて低い。
 ちなみにアメリカの財務省証券(国債)の大半は、外国が所有している。その筆頭が中国22%、日本21%などとなっている。

 また、いま国会で審議されているが、消費税の引き上げ余地が高い。
 ドイツ 19%、フランス19.6%、イタリア21%、イギリス20%、あのギリシャでは23%などとなっている。日本の現在の5%が如何に低いかが分かる。

 さらには外貨準備高が大きい。
 外貨準備高の内訳は、外国債券が1兆1160億ドル、金準備が423億6600万ドル、国際通貨基金(IMF)リザーブポジションが175億5600万ドル、特別引出権(SDR)が203億8000万ドル、その他資産が4億6600万ドルとなっている。
 外貨準備高の総合計は、なんと1兆2千億ドルとなる。約2兆ドルの中国に次いで二番目の外貨準備高である。
 これらのことから、政府が「赤字国債」を大量に発行し続けていても、その高い評価は揺らいでいないのである。



では、この円高を止める方法は何か。
 輸出立国の日本にとって、長期的異常な投機的円高を止める手立ては無いのか。
 
 イギリスのフィナンシャルタイムスも「攻撃的な量的緩和プログラム」を取るべきだと指摘している。
 経済学者の竹中平蔵氏も同意見であり、同じく経済学者の高橋洋一氏は、25兆円の政府紙幣を印刷しろと公言している。 
 いろんな意見があるが、「通貨供給量を増やすべ」きという意見は共通しているようである。
 通貨供給量を増やせば、当然、相対的に円の価値が下がり、必然的に円安になる。
 日銀の「攻撃的な量的緩和プログラム」によって大量の資金が流通すれば、当然好景気となり、失業者も少なくなる。
 とくに東北地方の復興資金として投入すれば、一挙両得であろう。
 さらにはGDPが大幅に伸びて、税収は一気に増加するから、国債依存度も低下する。
 また、一気に通貨供給量を増やせば、インフレになるから、後進国への投資資金に円建てで融資してもよいだろう。
 なぜ、日本の金融当局が、通貨供給量を増やす政策をとらないのか。
 これは次の研究テーマとしたい。





 

お札の話  ⑦管理通貨制度-2

2012-07-20 14:28:14 | Weblog





 管理通貨制度が採用される以前、欧米諸国を中心とした「国際決済市」場では、金本位制度が採用されていた。
 これは銀行に金貨・金地金を預託し、その預かり券(紙幣)を用いて取引を行い、最終的な決済は、売り手・買い手の指定する銀行間で金を現送することによって精算する制度であった。

 ところが、1929年からの世界恐慌が拡大し、イギリスは1931年に金本位制を離脱、アメリカを除く各国もこれに追随し、以後は金本位制に代わる管理通貨制度の時代になっていった。
 日本では、1942(昭和17)に日本銀行法が制定され、管理通貨制度へと移行した。


 しかし、第一次世界大戦の前後から、金(本位金)は、経済力の格差からアメリカに集まっていた。このため、アメリカでは国内で正貨が過剰となってインフレが昂進した。
 通貨準備から金の一部をはずす「不胎化政策」をとった結果、金本位制の持つ国際収支調整のメカニズムは失われ金の偏在が進行した。

 説明がやや煩雑になるが・・
 「不胎化政策」とは、中央銀行が金融市場で発生した資金需給変動に対して、それに見合う信用を増減させることで、その変動を相殺する金融調節を行うことを意味する。
 通貨当局による、外為市場介入に伴う通貨需給の変動を、公開市場操作(オペレーション)により調節し、市場金利などへの影響を与えないようにすることである。
 ともかく、中央銀行の最後の貸し手機能から可能となる政策で、相殺の原則が不胎化政策である。
 今日でも、日銀が行う公開市場操作(オペレーション)については、稿を改める。

 第二次大戦後はIMF体制のもと、金 1オンス=35ドルの平価で、交換可能な米ドルを基軸通貨とした。これに従い、各国通貨は、米ドルとの「固定相場制」を採用した(ブレトン・ウッズ体制)。
 この体制下でも、加盟各国は国内においては管理通貨制度を取っており、通貨当局は為替介入と金融政策により、対ドル固定相場を上下幅1%以内に維持しつづけた。
 この制度は「金ドル本位制」「金為替本位制」などといわれる。
 1948年7月  1ドル=270円と決められたが、戦後のインフレによって
 1949年  1ドル=360円の固定相場が実施された。
 
 しかし、1971年、アメリカの財政赤字、経常赤字が増大してインフレが進行、アメリカはドルと金の兌換停止に踏み切り(ニクソン・ショック)、これをもって金と通貨の関係は完全に切り離され、国際的にも管理通貨制度へ移行した。
 

お札の話 ⑥管理通貨制度

2012-07-18 00:49:52 | Weblog



 1942年(昭和17年)、日本銀行法が制定され、
「従前の兌換銀行券は、本法による銀行券とみなす」

旨の規定がなされ、兌換の文言は法的にも意味を失った。
 つまり従来の「金兌換」の約束を、一方的に法律制定で破棄したのである。
 つまりは、単なる政府保証の紙幣と位置づけて、表示金額相当の金貨との兌換を中止した。当初の「太政官紙幣」と同じ位置づけに移行した。
 これにより、日本は名実ともに管理通貨制度へと移行した。
 管理通貨制度とは、紙幣の発行金額に見合う保証物件としての金貨を準備しなくてもよい制度である。
 むろん日本国内の経済事情から来ている。

 満州事変以降、日本銀行券発行高の増勢が強まり、銀行券の大幅な増産が必要となった。このことから、様式・印刷を簡易化した銀行券が製造された。
 1943(昭和18)年に発行された「ろ五円券」は、「日本銀行法」に基づく最初の日本銀行券で、紙面からは「兌換」の文字が消されている。
その後、日本では1988年、新「通貨法」施行で、金本位制度が完全に消滅した。

 1940年(昭和15年)年末の日本銀行券発行高は、約47億7700万円となった。
 そのうち正貨準備発行高は約5億円で、総発行高の約10%にすぎなくなってしまった。
 このため政府は1941年(昭和16年)年3月、新しい法律を公布し、日本銀行券の最高発行限度を大蔵大臣が定める、最高発行額制限制度を導入した。
 まことに政府の都合の良い制度にした。

 これにより日本銀行券の発行限度は、議会に諮(はか)ることなく、大蔵大臣の権限で弾力的に変更できるようになった。
 また、日本銀行券の発行高に対しては、同額の保証物件を保有すれば足りることとし、その保証物件も「金銀貨、地金銀、政府発行の公債証書、大蔵省証券その他確実なる証券または商業手形」とした。
 これによって正貨準備発行、保証発行の区別は失われ、金は証券類と同格の準備となるとともに、日本銀行券は「大蔵大臣の定める限度内」であれば正貨保有の制約を受けることなく、発行できることとなった。

 日本銀行は「国家経済総力の適切なる発揮を図るため、国家の政策に即し通貨の調節、金融の調節及び信用制度の保持育成に任ずる」、
 「専ら国家目的の達成を使命として運営せらしむる」機関として位置づけられていた。
 続く。

お札の話  ⑥日本銀行 金貨兌換券

2012-07-15 19:01:43 | Weblog



 前回は、日本銀行の「銀兌換紙幣」についてふれた。
しかし、世界の潮流は「銀本位制」から「金本位制」へ移行していた。
 このため、遅ればせながら日本の通貨も、
  1897(明治30)年、欧米主要国にならって日本も金本位(きんほんい)制度を採用した。

 つまり「金0.75グラム」を「1円」とする貨幣法を制定したのである。

 2012年の6月の金地金の平均相場では、1g 4,119円だから、
 仮に4000円で換算してみると、当時の一円兌換紙幣の価値は約3000円ほどになる。

 こうして金本位制こ従い、新たに金貨と引き換えられる「日本銀行兌換券」が発行された。
 
 金貨兌換券である以上、発行金額に見合う「金貨」を日本銀行は保有する義務があった。

 日本で最初の金貨兌換券は、1899(明治32)年の甲五円券である。
 つまり紙幣に書いてある価値に価する金と、交換可能であった。
 「此券引換ニ金貨五円相渡可申候也」

 十円紙幣であれば、―「この券と引き換えに、金貨拾円を引き渡すことができます」
 と紙幣に明記されているのである。
 漢文の読み下し文ながら、候文(そうろうぶん)となっているのが、時代を感じさせる。
 明治時代の後半でも、公文書には候文が使われていたのである。

 ただ、この紙幣に刷り込まれた金兌換の約束は、のちに勝手に法律で変更されて約束が反故にされてしまう。
次回につづく。

電子書籍を公開しました

2012-07-15 12:09:42 | 紙の話し


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 またgoogleなどの検索で「ハブー」でサイトにたどり着けると思います。
 「和紙と 日本の伝統文化」という電子書籍にアクセスするには、

 上記アドレスのbook/53648の部分が該当します。


お札の話  ⑤日本銀行 銀貨兌換券

2012-07-14 15:31:21 | 紙の話し

 日本銀行兌換だかん銀券  一般には「大黒札」と呼ばれた。
 現在日本国で通用する貨幣(法貨)としては硬貨を含め最古である。
「兌換銀券」とは事実上銀本位制であった当時、銀貨との引き換え証券であった。
 兌換文言:「此券引かへ尓銀貨壹圓相渡可申候也」が刷り込まれている。
しかし、現在は不兌換券(額面1円の日本銀行券)としてのみ通用するという。



 明治10年に西南戦争が始まり、その費用のために大量のお札を発行した結果、激しいインフレーションが起き、物価騰貴を招いて社会が混乱した。
 そこで、明治15年に、国家の「中央銀行」として日本銀行法を制定し、日本銀行が設立され通貨の一元管理が開始された。
 明治18年(1885年)日本銀行兌換(だかん)銀券が発行され、政府が発行した「太政官札」、「明治通宝」、そして国立銀行が発した「国立銀行紙幣」などを順次回収を始めた。
 日本銀行法では、日本銀行の目的を、「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」と規定している。

 しかしこの初めての日本銀行兌換(だかん)銀券は大きな欠陥があることが分かった。
 まず、紙の強度を増すために、蒟蒻(こんにやく)の繊維を混入していたが、それが仇となって、ネズミや虫にかじられる被害が多発した。つまり箪笥預金に被害が続出したのである。
 さらには、写真製版の偽造防止のため、鮮やかな青色で印刷された。ところが、このインクにも問題があった。このインクは硫黄の成分に化学反応して黒く変色してしまうことが判明した。温泉から上がって、財布を開けたら、紙幣の色が変色していた。
こんなトラブル続きで、日銀は、製造元の政府の印刷局に被害補償を請求したほどである。大黒さんのシリーズは、結局4年ほどで、お払い箱になってしまった。



 ところで、日本の貨幣制度は江戸時代では、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ通用を認められたてい。
 いわゆる三貨制度が存在していた。
 その流通実態は、東日本では主に金貨、西日本では主に銀貨が流通するというものであった。
つまり徳川幕府の財政は、その基本が米(こめ)経済であったから、全国に通用する貨幣というものに無策であった。
むろん徳川幕府は、大判小判などの金貨の鋳造を行い、体系化された貨幣制度を持っていた。しかし、世界は「銀本位制」を採用していたから、主に西日本で通用していた銀貨の流通も容認していた。
 このため、必ずしも貨幣価値が「地金価値」を表していたわけではなく、日本の本位貨幣制度であったとは言いにくい。
 日本では特に「銀」は、世界相場と比較すると、金に対して低く評価されていた。
 鎖国していた江戸時代、唯一貿易を許されていたオランダは、金貨を持ち込み、銀に取り替えて、莫大な利益を上げている。
 明治時代でも、国内と海外との取引は主として銀建てでおこなわれており、その意味では、事実上銀本位に近い状態にあったと考えられる。
 このため中央銀行の日本銀行券も兌換「銀券」であった。

 

お札の話  ④国産紙幣

2012-07-14 14:51:11 | Weblog



初めての国産洋式紙幣。
 横に長い洋式のデザインが取りいれられ、印刷局(当時大蔵省紙幣局)がヨーロッパから移入した最新の技術により製造された。
 現在の中央銀行制度が導入される以前、各地に設立された国立銀行が発行した紙幣。
 一圓札は、右に水兵の図を描くことから「水兵札」の異名をもつ。 
 五円紙幣は鍛冶屋の図を入れている





 新紙幣に代わる初めての肖像入り「改造紙幣」発行。
神功皇后(じんぐうこうごう)像が肖像に使われたため「神功皇后札」と呼ばれた。
 これまで発行された紙幣のなかでは最初の女性肖像入り。
 神功皇后は伝説的な人物であり、当時も肖像画などはなかったため、想像して描かれた肖像である。
 紙幣寮(現大蔵省印刷局)のイタリア人彫刻家エドアルド・キヨソネが原版を作成したため、その風貌は外国女性風になっている。

お札の話 ③国立銀行紙幣 兌換紙幣

2012-07-12 12:37:17 | Weblog




当時は金本位制と兌換紙幣制が国際的な流れであり、明治政府が発行する不換紙幣の「明治通宝」では国際的には近代国家として認知されない。
こうした背景で、国際的な立場からも日本でも「兌換紙幣」を発行する必要性があった。
 明治政府はアメリカの制度に範をとり、明治5(1872)年に国立銀行条例を公布して、政府発行の不換紙幣の回収整理、兌換制度確立、殖産興業資金の供給を目的とした国立銀行制度の導入を図った。

 そこで財政基盤が無い明治政府は、金本位制度の確立を民間に任せることとし、兌換紙幣制度の確立を民間に任せた。
 政府は、民間に高まった銀行設立の機運を捉え、民間銀行に兌換銀行券を発行させる
ことになった。国立銀行条例に基づいて設置された、あくまでも民間銀行である。
 このため、国立銀行は、兌換銀行券発行相当額の「日本政府国債証書」を大蔵省に預けた。
 この国立銀行は当初4行が設立され、金貨と兌換できる紙幣の発行が認められた。
 こうして明治6年8月から発行された紙幣が「国立銀行紙幣」である。
 こうして明治6年(1873年)国立銀行紙幣(旧券)を製造をアメリカに依頼して発行した。しかし金貨の不足から経営不振に陥り、やむなく国立銀行条例を改正し「不換紙幣」の発行が認められるようになった。そからは銀行の数が急増し、新たな国立銀行紙幣(不換紙幣)が発行された。

お札の話  ②明治通宝(めいじつうほう)

2012-07-12 12:16:32 | 歴史
 


太政官札の発行のあと、近代国家の整備のため共通通貨として「円」を採用し、近代的紙幣を導入した。
このお札が「明治通宝(めいじつうほう)」で、1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた。
 新貨幣の呼称を円とするとともに、金貨を本位貨幣と定め、金1.5g=1円と定めたのである。新貨条例では、本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で1円銀貨(貿易銀)の鋳造と、開港場での無制限通用を定めていた。

 日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として有名である。
 ただ、まだ近代的紙幣の印刷技術がなく、偽造防止のためドイツ・フランクフルトの民間工場で製造された。このことから「ゲルマン札」の別名がある。
 これは「エルヘート凸版」による印刷が、偽造防止に効果があるとの判断からである。
太政官札1両を、明治通宝1円として交換された。
 やがて「明治通宝」に不便な事があることが判明した。
 まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったため、損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった。
その後、当初の契約通り技術移転が行われ、印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった。


お札の話  ①太政官札

2012-07-07 23:39:24 | Weblog


日本初の全国に通用する紙幣は太政官札と呼ばれている。
 明治政府によって慶応4年5月から明治2年5月まで発行された「政府紙幣」で、金札とも呼ばれた。
「通用期限は13年間」との期限を決めた紙幣である。
 江戸時代の貨幣も流通していたため、通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のままであった。実際に発行されたのは4,800万両であった。
 1879年(明治12年)11月までに、新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通した。
 成立したばかりの明治政府は、戊辰戦争に多額の費用を要したため、資金不足をう目的で発行された。
ただ、まだ新政府の信用が低く、不換紙幣であった太政官札は流通は困難をきわめ、太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであったらしい。
ところが、金貨で一番流通していた二分金(にぶきん)に贋物が出回り、その他の政策もあり次第に太政官札が流通した。
 ところが、太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。
(続く)