随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

便利な ICタグは、普及するか

2005-12-06 13:42:22 | 流通
 ICタグは、RFID (Radio Frequency-IDentification)という。  
 微小な無線チップにより、人やモノを識別・管理する仕組みのことである。
具体的には、誘導電磁界又は電波によって、非接触で半導体メモリのデータを読み出し、書込みのために近距離通信を行うものの総称である。

 RFIDは、所持する人・取り付けられた物と、その情報とを一元化させる目的で使用されます。つまり、人・物がある場所で随時、必要な情報を取り出すことができ、かつ必要に応じて新たな情報を書込むことが出来ます。

RFIDは、電波を利用して通信を行う為、プラスチック・木材・ガラス・ダンボール等を通して、ICタグを認識することが可能です。また、バーコードと異なり、汚れているから読めないということはなく、油・泥・埃などがあっても通信することが出来ます。

RFIDは、ICタグにメモリを持っており、データの読み出し、書込みを行うことができます。読み出しだけ可能なICタグ(Readonlyタイプ)、読み書き可能なICタグ(Readwriteタイプ)など幾つかのタイプがあります。

メリット
・ バーコードより大容量な為、状態や内容などの情報を物自体に持たせることができる。
・ データベースを検索する必要が無くサーバの負担が少なくなる。
・ データベースにアクセスできない場所でも物から情報を取得でき、変更も可能。

ICタグの構成はICチップにアンテナを巻いたものになる。
アンテナの大きさは通信距離に影響を与え、アンテナサイズが小さくなると通信距離は短くなります。通信距離が10cm必要ということであれば、10cmの通信距離を確保できるアンテナサイズで円形・正方形・長方形など自由にICタグの形状を設計することが出来ます。

流通業界で、バーコードに代わる商品識別・管理技術として研究が進められてきたが、それに留まらず社会のIT化・自動化を推進する上での基盤技術として注目が高まっている。
 耐環境性に優れた数cm程度の大きさのタグにデータを記憶し、電波や電磁波で読み取り器と交信する。
 将来的にはすべての商品に微小なRFIDタグが添付される可能性がある。

食品を買ってきて冷蔵庫に入れると自動的に識別し、保持している食品のリストを作ったり、消費期限を知らせたりする、インテリジェント冷蔵庫などのIT家電が構想されている。
 
 病院では、患者の認識とその病歴や治療歴、投薬歴を一括管理できる。間違っても手術時に患者を取り違えるような事はなくなるだろう。
 また、薬にICタグがあれば、間違って患者に投与しようとすると、警報がなる仕組みも考えられる。様々な医療ミス防止に役立つだろう。

小売業の店頭では、例えば牛肉の生育履歴や、流通経歴、肉の部位、適した料理法などの情報を端末で読み取る事ができるだろう。
 その他の生鮮食品でも、生産地や生産農家と使用農薬、採集日時、加工工場と加工方法、適した料理方法そのた希望する情報が、陳列ケースから取り出さないで、持っている端末に瞬時に情報を表示させることが可能となる。

 ホームセンターで接着剤を買う時、端末に必要な情報を表示させると、適した接着剤の一覧と陳列されている棚の位置も表示されるだろう。
 陳列されている棚の前に来れば、適した接着剤箇々の特徴や使用方法、注意点などの詳細情報が表示される。どれを買えば善いか、迷うことなく、失敗することなく必要としている最適の目的の接着剤を、選定することができるだろう。

 大規模で複雑な工程を必要としている生産現場では、すでにICタグの付いた部品が使用されている。必要な所に、必要な部品が、必要な個数間違いなく搬送され、部品の在庫情報や位置情報も瞬時に把握され、自動的に外部発注システムに情報が蓄積されていく。


製品にID情報を振るための規格では、米マサチューセッツ工科大学(MIT)が中心となって進めている「Auto-ID Center」の取り組みが先行している。
これには、Wal-Mart Stores社やProcter and Gamble社など大手流通業者や消費財メーカーのほか、バーコード管理団体のUCC(Uniform Code Council)や国際EAN協会が参加している。
また、日本でも、東京大学の坂村健教授などが中心となって「ユビキタスIDセンター」が設立され、大手電機メーカーなどが参加している。


ウォールマート・プロジェクトの評価
2003年6月、ウォールマート社は、RFIDの導入実験を行うと発表し、世間の注目をあびた。
その後も、同12月にサプライヤー・コンファレンス(供給業者集会)を開催して、運用ポリシーを発表し、2004年の6月にテストを開始している。
一方、トップ100社を対象に「ダラスの流通センター向け納品はRFID対応とする」目標を設定した。ウォールマートでは、この100社を「ファースト・ティア」あるいは「ティア・ワン」と呼び、達成期限を2005年1月1日に設定した。

結果的には、2005年1月1日の100社目標は、達成できなかったが、1ヶ月遅れで達成している。
ウォールマートのリンダ・ディリマン(Linda Dillman)CTO(最高技術責任者)によれば、2005年1月1日現在、140店舗、流通センター3カ所がRFIDに対応している。
140店の内訳はウォールマート・ストアーが104店で、残りの36店はサムズ・クラブ(ウォールマート社が経営するウェア・ハウス型ディスカウント・チェーンの名称)となっている。
また、RFIDに対応した商品は1万4000点を超え、RFID対応のパレットも既に約2万3700納品に達した。そして、EPCリーダーの読み取り回数は560万回を越えている。
たった1ヶ月遅れで2005年1月1日の目標を達成した点を高く評価する専門家もいる。この肯定派の意見をまとめると次のようになる。

パッシブRFIDは黎明期にあり、ウォールマートのような大手が大量納入を進めなければ、システムやタグの価格も下がらず、普及は進まない。

業界リーダーであるウォールマートの導入は、競合他社を含め、業界全体に大きな波及効果を与える。短期的には、納入業者に負担を与えることになるが、長期的にはRFIDの普及コストをこうした企業群が負担することで普及が進む。

ウォールマートは、短期間に多数の商品科目でRFIDを導入した。同社の流通センターにおける読み取り率は高く(軒並み100%)、その成果は、現状を考えると驚異的と言える

ウォールマートは、RFIDの導入で商品回転率の効率化(後述)などのメリットを享受している。これにより他の小売事業者の導入にも拍車が掛かると予想される。

 このようにウォールマート・プロジェクトの評価は賛否両論に分かれるが、大雑把に言って納入業者には批判的な意見が多く、RFID製品のベンダーは肯定的な意見が多いと言える。


ホームセンター物語

2005-10-02 22:00:50 | 流通
最近では、ホームセンターという業態は、大変身近な存在となっている。
DIYの素材や道具・工具と園芸用品やペット用品及び、総合的な家庭用品の大型ショップである。また、DIYという言葉や概念もかなり一般的なものになっていると思う。

アメリカの流通業を視察したヒノデが、アメリカのホームセンターを参考にして、日本で初めて「Do it yourself」という言葉を掲げ、日曜大工専門店の大型店としてスタートしている。1972年12月埼玉県川口市(現さいたま市)に、DIY(Do it yourself)店「ドイト」1号店を開店したのが、我が国のホームセンター業態の始まりである。

ドイトは時代に受け入れられて順調に店舗を増やし、1991年4月にヒノデ株式会社からDIY流通事業部門を引継ぎ、DIY&ガーデニングの専門企業ドイト株式会社として独立し、現在埼玉、東京、神奈川に27店舗の超大型ホームセンターを持っている。

ヒノデの「ドイト」1号店が成功し、次々に同様のDo it yourself店が開店していった。
当時は、すでに大型店舗のスーパーが各地に店舗を展開しており、流通業界ではGMS(ゼネラル・マーチャンダイジング・ストア)店と呼ばれていた。
日本型スーパーも、やはりアメリカ仕込みのSSDS(セルフ・スーパー・デイスカウント・ストア)として、1962年にダイエーが一号店をスタートしてから、各流通業が全国へ店舗展開をしていった。1972年にはダイエーの売上が「三越」を抜き、小売業売上高日本一を達成している。

新規業態のSSDSとしての日本型スーパーの全国展開に伴い、旧来のさまざまな小売店舗は順次淘汰されていった。やがてスーパーの駅前立地が見直されて、車社会に合わせて郊外型の大型ショッピングセンターの建設が相次ぎ、駅前商店街は各地で寂れる一方であった。
このような流通革新の時代に、アメリカ流通視察が流行し、新しい流通形態の一つとして導入され始めたのが「専門店型」の郊外店舗であった。
その一つが、DIY(Do it yourself)店の「ドイト」1号店であった。

埼玉のドイト1号店の成功を見て、各地で見様見真似のDo it yourself店の開店が相次いだ。そのDIYの専門的な品揃えと平行して、総合的な家庭用品まで品揃えに加えた、郊外型セルフ形式のディスカウント店は、大型ショッピングセンターに比較し、その専門的な品揃えとかなり低価格に優位性があり、時代に受け入れられた。

大型ショッピングセンターを運営する流通業は、急成長にともない規模は大企業となり、人材確保から人件費も年々大幅に上昇し、新規大型店舗の建設費用がかさみ、価格もかつてのディスカウント店の面影は消えていた。
地方では、地元の百貨店を凌ぐ大規模な店舗作りであった。

新興勢力のホームセンターは、郊外にありブームが過ぎて廃業したボウリング場等を活用して、大型ホームセンターに衣変えしていった。
新規に店舗を建設する場合も、広い駐車場は確保するが、建物自体は平屋の500坪程度の店舗で、遊び空間が全く無い内装も簡素なローコストの建築であった。
それに店舗に携わる人員を絞り込み、尚かつ人件費の安い人員とパートで構成しているから、まさに新興のデイスカウント・ストアとしての価格破壊力があった。

多店舗展開し始めたホームセンターの流れは、その後二極化した。
DIYの専門的な品揃えや園芸用品などに重点を置く店作り、いわゆる正統派のホームセンターと、家庭雑貨中心でDIY・園芸用品は、いわば付け足し程度の品揃えのディスカウント主体のホームセンターの、二つの流れができた。
いずれにしても、大手スーパーと比較すると経営コストが低く、従って値入率も低く専門的な幅広い品揃えで、圧倒的な優位性を保っている。

ホームセンターが流通業界で台頭し始めると、さまざまな業態からの参入が見られた。
家具店からの参入、材木店からの参入、建材店からの参入、ドラッグストアからの参入、食品ストアからの参入、大手スーパーからの参入や、変わったところでは石油卸業や大阪ガスやNTTなど意外な企業も参入した。
結果として、流通業に殆ど縁がなかった大手企業からの参入は、殆ど失敗して撤退している。また大手スーパーのダイエーも参入したが、すぐに撤退している。

ホームセンターの運営は、同じ流通業の出身であっても、意外に難しいものであった。
専門性の高い素材や道具の品揃えは、専門的知識を持つ人材確保が困難で、中途半端な品揃えとなり、経営効率を悪くしただけであった。肝心の家庭用品などを中心としたデイスカウント・ストアとしての路線には、下駄履きで行ける気安さと、泥臭さが必要であった。
大手企業からの参入は、この肝心の泥臭さにも欠けており、価格も中途半端となった。品揃えも網羅的ではあるが、奥行きに欠けて魅力の乏しい店作りとなった。

現在のホームセンター業界は、第一次の地方のホームセンター同士の連携時代から、第二次の広域合併統合時代を迎えている。
資本力の少ない地方の弱小ホームセンター単体での生き残りは難しくなって来ている。
札幌市に本拠地を置くホーマック株式会社は、北海道、東北及び関東に150店舗展開している。1992(平成 4)年に、ジャスコ株式会社(現イオン株式会社)と業務・資本提携している。
2003(平成15)年1月には、北海道、青森で31店舗を展開している株式会社ツルヤと業務・資本提携し、2月には名古屋本社で東海、北陸で110店舗を展開している株式会社カーマ、及び松山本社で中国・四国・近畿で115店舗を展開しているダイキ株式会社と業務・資本提携の基本合意している。
さらに同年5月、ホーマック株式会社、株式会社カーマ、ダイキ株式会社、三井物産株式会社との共同出資でDCM Japan株式会社を設立して、実質的経営統合をめざしている。
イオングループは、既に九州に傘下のホームセンター、ホームワイドを49店舗展開している。

ホーマック主導による資本提携・経営統合により、北海道から本州、四国、九州を含むホームセンター業態で初めての、約500店舗規模のナショナルチェーンが誕生したことになる。
かつて、大手スーパーが、各地域の地元資本のス―パーと提携・合併を繰り返してナショナルチェーンが誕生したように、同じような経緯を辿っている。
まだ、関東や近畿、中国さらには九州を拠点として、100店舗以上の店舗展開している、
実力のある大手のホームセンターがしのぎを削っている。
いずれ広域に渡るホームセンターの提携・合併による、第二のナショナルチェーンが誕生するのも時間の問題であろう。
その間で、中小のホームセンターが経営不振に陥っており、いずれ淘汰される時を待っている。

今までに多くの企業が、ホームセンターへ参入しては、経営が行き詰まり撤退していった。
つまり、小売業という業態は、単に問屋から商品を仕入れて、適当な値入(利益)を確保して品揃えるというアソートメントだけでは、成り立たないという事を証明している。
小売業は、明確な企業理念に基づいて、ターゲットと定めた顧客層に対して、潜在需要を掘り起す商品開発を行い、新しい生活提案を行わねばすぐに客離れが起きる。
独自の商品開発を行うには、世界中に情報網を巡らし、世界中から商品を調達する能力が要求される。このためには、最低数百店舗の規模と、大きな資金を動かす企業力が要求される。
さらには、顧客のニーズや、チェーン理論に反するような各店舗に於ける各種要望を、如何に吸い上げて、店舗運営を行うかが大きな課題である。

世界最大のホームセンターは、アメリカのホームデポである。
全米で30%以上のシェアを持つ同社は、アメリカのホームセンター業態の中でトップの売り上げを誇っている。売上高582億ドル(2003年度)、店舗数は1568店、従業員約28万人というスケールである。
ホームデポでは、従来のチエーンストア理論に反して、顧客第一主義の経営を実現するため、マニュアルを排して、担当者に大幅な自由裁量を認めた事である。
また、 80年代の建設不況時に失業した大工を大量に採用した事で、同社の専門性は更に高まった。ホームデポに行けば、家が一軒建つだけの資材や道具とノウハウが有ると言われている。

日本でも、1,000坪を超える超大型ホームセンターが各地に出店し、資材館やプロ館と言われる、本格的なプロ用建築素材やプロ用工具なども販売されるようになった。
日本では、職人の技は秘伝とされ、職人技術は長年の修行の中で盗むものとされていた。しかし、電動工具を始め、素人でも使えるように様々に半加工された素材が販売されるようになった。
また、ホームセンターの各売り場には、さまざまな道具や素材の使い方のHOW-TOのPOPが掲示されている。
その気にさえなれば、本格的に家のリフォームも可能となっている。

100円ショップ「 ザ・ダイソウ」

2005-09-23 23:37:50 | 流通
先日、かつて流通革命の王と言われた中内功氏が、亡くなられた。
中内功は、ドラッグストアを創業し、まもなく日本で初めて、SSDSというアメリカのセルフのスーパー・ディスカウントストアを展開し始めた。それからわずか創業十数年で、老舗の三越の売り上げを抜いて、最大の売上を誇る小売業のトップに躍り出た。
以来、流通業界に君臨したが、バブル経済に踊らされ本業を疎かにして、晩年は経営不振に陥って落魄した寂しい最期であった。

バブルがはじけてから、彗星のように顕れた流通革新の旗手が、100円ショップである。
SSDSの創業当時は、百貨店と同様に駅前立地が有力な立地条件であった。
集客力に恵まれて驚異的に売上を伸ばし、後続の店舗も同様な立地を求めて、出店ラッシュと出店競合がつづいた。
だが、まもなく車社会が急速に拡大して、駐車場確保の困難な駅前立地は、一転して不利な立地となった。

郊外型の大型ショッピングセンターが増加するに伴い、年々不振を極め始めた駅前立地の大手小売業が、来店客の増加を期待して、ダイソーの100円ショップをテナントとして導入し始めた。
元々スーパー・ディスカウントストアであった店舗に、新しいニュー・ディスカウント・ショップと言うべき「100円ショップ」のテナント導入という、なんとも皮肉な状況となった。

100円ショップ「ダイソー」の創業は昭和52年(1977)年12月と意外に古い。
創業当時は、細々と「100円均一コーナー」を食品スーパー等の出入り口で、売上仕入れ方式で出店していた。
珍しい物やアイディア商品や、大手のストアで取り扱っていないような隠れた商材を発掘して陳列していた。
その当時は、100円均一コーナーは、所詮100円程度の価値の商品という認識で、殆ど興味を持ったことは無かった。

本社を東広島市に構えたダイソーは、昭和62年 「100円SHOPダイソー」の展開に着手している。
以下は、ダイソーのホームページから、ダイソーの名の由来について抜粋する。
「“ザ・ダイソー”の店舗名で皆さんにはお馴染かと思いますが、会社の正式名は「株式会社 大創産業」といいます。少し固い名前ですがこの名前の由来は30年程前にさかのぼります。
昭和52年頃、まだまだ規模の小さな会社でした。均一で販売する商売(スーパーの店頭や公民館などで販売していた)も当時は今のように大きな商売ではなく、まだまだ小規模での事業にすぎませんでした。
しかし、会社設立の際に「会社の規模はまだまだ小さいけど、名前だけは大きな物にしよう」という事で「大きく創る=大創」と社長の矢野が考え命名しました。
単純のように見えますが当時はそのように会社名をつけました。その後、お客様に馴染んで頂けるように店舗の名前をカタカナでダイソーとし、「ザ・ダイソー」の方が有名になってしまいましたが、社名は当時のまま残しています。」

大創産業は、その社名の通り100円均一で売れる商品を、大きく創り続けた。
小売業の原点である「顧客の欲するものを、品質を損なわず、出来る限り安く供給する」という哲学を守り続けた。
小売業というのは、問屋やメーカーの商品を、大量仕入れの条件で安く仕入れ、セルフで安く提供するのが原点であった。
日本の大手スーパーのSSDSも、店舗展開を拡大すると共に、PB(プライベート・ブランド)やSB(ストア・ブランド)の開発競争に入っているが、まだその売上構成比率は10%に満たない。

「ザ・ダイソー」の商品は、現在その殆どが「ザ・ダイソー」のブランドである。
大型店のダイソーの店舗をじっくり見てまわるのは楽しい。こんなものまで100円で売っているのか、ついも驚きの連続である。
その品揃えは現在8万アイテムに及び、店舗の総数はなんと2400店舗あり、さらに海外にも350店舗を展開しており、売上高は3,200億円となっている。
1000坪規模のホームセンターでの品揃えで、約4万から5万アイテムであるから、ダイソーの開発した商品群の凄さが理解できる。
そして、日々その商品が入れ代わっている。
だから、同じ店舗でも、ニ、三ヶ月振りに訪れると、新しい商品に出会うことが出来、リピート客が絶えないのだろう。

ダイソーでは、商品開発が成長の原点であり、世界中にその調達ネットワークがある。
商品開発に命を賭けなければ、世界中にその商品開発と調達のネットワークを拡大しなければ、かつての100円均一屋で終わったであろう。
今までの商品の常識を破壊した、わずか100円で、これだけの品質と他品種の商品群を展開している。
100円で販売する為には、原産国からの船運賃や輸入税、そして国内での在庫に関わるコスト、国内流通経費、そして店舗の利益を計算すれば30円程度でなければペイしないと思われる。ダイソーの商品を改めてながめて、よくぞこの商品を30円程度で調達できたと関心させられる。
ちょうど、世界最大の売上規模を誇る企業である、あのウォールマートと同じ手法を採っている。

いまや、ダイソーのマーチャンダイジング力は、大手のイトーヨーカドーやジャスコを遙かに凌いでいるだろう。
平成3年「100円SHOPダイソー」のチェーン展開本格化してから、まだ十四年しか経過していないが、ダイソーの商品が世界から輸入される量は、毎日コンテナで100本程に達しているという。
これは実に、日本全体で輸入される量(コンテナの数)の1%を超える量だといわれている。平成9年11月に、通産大臣賞「貿易貢献企業賞」を受賞している。

かなりの大手企業が、バブル期に本業を逸脱して脱落して行ったが、バブルとは縁の無かったダイソーは、今後も発展して行くことを一消費者として願っている。
ただ、ひとつ最近気になるのは、100円でない価格商品がじわじわと増加していることである。
なにがなんでも100円に拘って、凄い商品開発力を発揮してきた企業が、そのタガを外すことに、少し将来に不安を覚えるのである。



驕れる者久しからず

2005-09-09 13:07:38 | 流通
ダイエーと言えば、かって日本を代表するスーパーストアであった。
中内功が、1957年大阪千林にドラッグストアを開店し、1962年 7月 商号を株式会社主婦の店ダイエーに変更し、以後アメリカ仕込みのSSDS(セルフ・スーパー・デイスカウント・ストア)として、全国へ店舗展開をしていった。
1972年8月 三越を抜き、小売業売上高日本一を達成している。
1975年 4月 ダイエーローソン株式会社設立して、コンビニエンス業界へ進出。
1980年 2月 小売業界初の売上高1兆円を達成した。

同年12月には、自社開発商品「セービング」商品を他社に先駆けて発売している。このセービング商品の開発には、しっかりしたコンセプトがあった。
ダイエーでの月間販売実績で、その品群の中で上位を占めている売れ筋商品の中で、メーカープランドより四割安く価格設定できるものだけを、特に「セービング商品」として発売された。
これがSB(ストアブランド)の先駆けで、世間を驚かせる価格設定であった。以後各スーパーストアでもストアブランド開発競争となっていく。

この当時の「セービング」を始め他のSB商品も、殆どが大手の下請けメーカーと直接取引して開発したもので、世界から調達してきたものではなかった。或いは、大手メーカーに安売りすると圧力をかけて、無理矢理SB商品を作らせたりした。

この辺りまでは、小売業ダイエーは面目躍如たる風格があって、 流通革新の王者として君臨していた感があった。この当時の商品部のバイヤーには優秀な人材がいて、毅然たる商談姿勢があった。みな会社を背負っている自負が強く、「ダイエーとしては、品質や機能を犠牲にした低価格品はり扱いしません」と、バイヤーは常に「ダイエーとしては」を枕詞にして喋っていた。
中小企業のメーカーは、ダイエーの店頭に商品が並ぶというのは、一つのステータスでもあった。他のスーパーへ売込む時、「ダイエーで売れています」と言うのが殺し文句にさえなった時代があった。

ダイエーは、全国各地に店舗を展開し次々に地元流通業を吸収合併して、名実共に日本一の流通業として成長するのと平行して、経営方針がコングロマリット化へ方向が変わった。
ちょうど日本経済のバブル期に遭遇しており、銀行が融資を付けて物件や新規事業を斡旋するようになった。
レジャーランドの買収、ホテル事業、金融業、不動産業、建設業、リクルートの買収そして、1988年 11月 福岡ダイエーホークスを発足 させている。
中内功は、安売り王から、流通業の覇者となり、さらに財界人の仲間入りを果たしたように見えた。

ダイエーの経営者が、経営多角化に走っている間に、小売業としての本業に陰り陰りが見え始めていた。さまざまな業態開発に取り組んだ。
デイスカウントの新形態として「トポス」、「Dマート」会員制のホールセール「コウズ」、ハイパーの「ショッパーズプラザ」など、種々の店舗開発を手がけたが、どれも成功していない。
原点とも言える、「顧客ニーズのあるものを、そして最上の品質で、何処よりも安く供給する商品開発能力」に欠けていたからである。
ダイエーのSBなら安心して買える、という信頼を築くことに成功しなかった。
取引先へ無理を言うのがバイヤーの仕事となっていては、魅力のある商品開発は無理であった。

長年流通業界を指導している渥美俊一の主宰する「ペガサスクラブ」の研修を、随分前に受けたことがある。当時でも三日間で50万円もするという高い費用であった。
出席者の名簿を見ると、イトーヨーカドーの商品統括部長、セブンイレブンの社長鈴木敏文氏(現在はイトーヨーカドーの会長)や、ジャスコの取締役クラス、その他西友ストア、ニチイ(現マイカル)など当時の錚々たる流通関係者が参加していた。
ただ、不思議なことに「ダイエー」の関係者はいなかった。

この時の研修事例として、アメリカ最大の小売業「ウォールマート」のマーチャンダイジングの原則理論を教わった。
そして、小売業成長の原点である、セルフ・スーパーストアが守るべき原則を無視している日本の流通業の典型として、「ダイエー」の品揃え分析が公開された。  

「ウォールマート」では、店がターゲットとしている顧客層が明確になっている。
あくまで、アメリカで最も人口構成比率の高い、中低位所得層にだけ焦点を絞って品揃えしている。つまり高級品は絶対に取り扱いしない、専門店分野の商品も絶対取り扱いしない。
そして、徹底して品質の良い物を、徹底して安く供給するシステムを構築している。
商品調達は、同一品質では、世界中で一番安い地域やメーカーから仕入れる。そのための情報網を世界中に張り巡らしている。
徹底してストアブランドを開発し、世界の最も優れたメーカー品質を、メーカーブランド品の40%オフ以下で販売する。
メーカーの作ったものに、単に自社の利益を上乗せするというような品揃えはしない。
まず顧客の潜在ニーズを、マーケットリサーチで的確に捉え、その顧客の満足するスペックを設計し、その仕様に相応し原料を何処で調達し、何処で加工するか綿密に計画する。
しかも、日本のスーパーやデパートでは考えられないような、ローコストによる本部運営を行い、本部利益は25%で利益が出せる態勢を作り上げている。

アメリカの「ウォールマート」で買い物をする人は、一番気に入ったものを手にしてレジに並ぶ。「ウォールマート」では、プライスゾーンの管理が徹底しているから、殆ど値札を気にしないで買い物ができるという。
例えば、10ドルのセーターが一番安い価格だとすると、一番高い商品でも30ドル以下しか品揃えしないという原則を徹底している。だから、安心して最も気に入った品質とデザインを選ぶ事ができるという。
「ウォールマート」で買い物をした顧客が、別の店で同じような物が安く販売していたというような経験はあり得ないという。

渥美俊一の主宰する「ペガサスクラブ」の研修で公開された、「ダイエー」の品群別のプライスゾーンのグラフを見て驚いた。
例えば、デイスカウント店と同じような最も安い価格も品揃えされているが、アイテム数が一、二点しか無く、選択の余地がない。その隣に三~四倍する価格帯の商品が並び、さらにかけ離れた高級品が唐突に並んでいる。
例えば980円のセーターが有っても、色もサイズも少なく、とても買えない。隣に2980円のセーターや4980円のものが数種類があり、さらには9800円のセータや、なんと一万円を超える価格の商品まで品揃えされている。

どの価格帯の商品も中途半端で、一体誰を顧客に想定しているか不明な品揃えで、どの価格帯でも満足できる品揃えがない。これでは、顧客が他の店に流れるのは当然である。
創業当時の「良い物を、何処よりも安く」という原点が何時しか無くしてしまった結果である。
そして、品揃えの原点であるプライスゾーンが出鱈目となってしまった。もはや、見せかけの目玉商品の品揃えだけでは、お客はついて来なくなった。
バイヤーもSSDSとしての基礎的な研修も受けず、上司から「売上を上げろ、利益を挙げろ」と叱咤されるだけである。

挙げ句は、決算間近になると、取引先に「過大なリベート」を押しつけて辻褄を合わせるように堕落していった。
一方的なリベートの押しつけに始まり、ついには「リベートの前借り」まで行うようになって行った。これでは、正常な価格交渉はできず、取引先の言いなりで商品を調達する結果になった。必然的に競争力を失い、魅力のない店舗となり、衰退の一途を辿った。

無論当初は、渥美俊一の主宰する「ペガサスクラブ」にも参加していたが、やがて企業が肥大化して増長すると、我流の品揃えと我流の店舗作りに走った。
日本の流通業をリードしているという自負心が「慢心」を呼び、原点を忘れさせたと言えるだろう。
まさに、「驕れる者、久しからず」という、平家の没落と同じ運命を辿った。

創業以来、SSDSとしての原理原則を守る努力を怠らなかった「ウォールマート」は、世界の企業の中で、最大の売上を誇る企業集団となっている。
単に流通業の世界トップではなく、全ての産業を含む全ての企業の中で、2563億ドルというトップの座を達成しているのである。