日本銀行兌換だかん銀券 一般には「大黒札」と呼ばれた。
現在日本国で通用する貨幣(法貨)としては硬貨を含め最古である。
「兌換銀券」とは事実上銀本位制であった当時、銀貨との引き換え証券であった。
兌換文言:「此券引かへ尓銀貨壹圓相渡可申候也」が刷り込まれている。
しかし、現在は不兌換券(額面1円の日本銀行券)としてのみ通用するという。
明治10年に西南戦争が始まり、その費用のために大量のお札を発行した結果、激しいインフレーションが起き、物価騰貴を招いて社会が混乱した。
そこで、明治15年に、国家の「中央銀行」として日本銀行法を制定し、日本銀行が設立され通貨の一元管理が開始された。
明治18年(1885年)日本銀行兌換(だかん)銀券が発行され、政府が発行した「太政官札」、「明治通宝」、そして国立銀行が発した「国立銀行紙幣」などを順次回収を始めた。
日本銀行法では、日本銀行の目的を、「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」と規定している。
しかしこの初めての日本銀行兌換(だかん)銀券は大きな欠陥があることが分かった。
まず、紙の強度を増すために、蒟蒻(こんにやく)の繊維を混入していたが、それが仇となって、ネズミや虫にかじられる被害が多発した。つまり箪笥預金に被害が続出したのである。
さらには、写真製版の偽造防止のため、鮮やかな青色で印刷された。ところが、このインクにも問題があった。このインクは硫黄の成分に化学反応して黒く変色してしまうことが判明した。温泉から上がって、財布を開けたら、紙幣の色が変色していた。
こんなトラブル続きで、日銀は、製造元の政府の印刷局に被害補償を請求したほどである。大黒さんのシリーズは、結局4年ほどで、お払い箱になってしまった。
ところで、日本の貨幣制度は江戸時代では、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ通用を認められたてい。
いわゆる三貨制度が存在していた。
その流通実態は、東日本では主に金貨、西日本では主に銀貨が流通するというものであった。
つまり徳川幕府の財政は、その基本が米(こめ)経済であったから、全国に通用する貨幣というものに無策であった。
むろん徳川幕府は、大判小判などの金貨の鋳造を行い、体系化された貨幣制度を持っていた。しかし、世界は「銀本位制」を採用していたから、主に西日本で通用していた銀貨の流通も容認していた。
このため、必ずしも貨幣価値が「地金価値」を表していたわけではなく、日本の本位貨幣制度であったとは言いにくい。
日本では特に「銀」は、世界相場と比較すると、金に対して低く評価されていた。
鎖国していた江戸時代、唯一貿易を許されていたオランダは、金貨を持ち込み、銀に取り替えて、莫大な利益を上げている。
明治時代でも、国内と海外との取引は主として銀建てでおこなわれており、その意味では、事実上銀本位に近い状態にあったと考えられる。
このため中央銀行の日本銀行券も兌換「銀券」であった。