随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

流し漉き

2006-06-26 12:18:32 | 紙の話し
和紙の歴史  (2)和紙の伝統文化


(一) 紙屋院と和紙の成立


流し漉きの確立

 平安時代に入ると、山城国の紙戸が廃され、大同年間(805~809年)に「紙屋院」という(「しおくいん」とも読む)官立の製紙工場が作られ、日本固有の製紙法である「流し漉き」の技術が確立されている。     
 紙を漉く時に、揺すりながら紙の層を形成する方法で、中国の静置して脱水する「留め漉き」と異なり、「ネリ」と呼ばれる植物の粘性物質を使用する事に特徴がある。紙料(叩解の済んだ原料)を水に分散して、とろみのような粘性の物質を加える。ネリを加えることにより、水の粘性があがり、簀の子からの脱水がゆるやかになり、繊維が簀の子の上に均一に並び、薄い紙を漉くことが出来る。さらに、簀の子へのくみ取りが数回に渡ってもうまく層が重なり合い、厚みも自在に調節できる。まさに製紙の画期的な技術革新であり、名実ともに和紙の誕生であった。「ネリ」はノリ,タモとも呼ばれ、ニレの皮やサネカズラの茎の外皮などから作られた。のちに、黄蜀葵の根や糊空木の皮などから作られた。
ネリを使用して漉きあげると、漉きあがった紙を順次積み重ねて、水を絞り乾燥させたあと、一枚一枚に剥がせるという特性がある。そして乾燥して完成した紙には、「ネリ」の影響が全く残らない。




紙屋院

 紙は文化のバロメーターと言われるが、まさに平安時代は紙の需要が急速に拡大した時代であった。
これらの需要に対応するため、「図書寮」と直属の「紙屋院」が造紙技術の中心となって、各地の紙漉きを奨励育成して四十四カ国に及び、紙を生産しない国は数カ国に過ぎなくなった。
藤原時平選『日本三代実録』に、清和天皇崩御の後(880年)、東宮のご息女藤原朝臣多美子が、帝から賜った御筆手書を集め、「漉き返し」をして法華経を写書して敬慕供養を行ったとある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』で、反故紙を使って漉く薄墨色紙はこの事例をもって初めとしている。当時はむろん脱墨技術はなく、「漉き返し」を行うと薄墨色紙となった。
美濃国には延喜以来、官設の紙漉き場「紙屋院」があり、図書寮から役人が派遣され、色紙を抄造して、毎年京都へ送らせて宮中で用いられるようになった。
一条天皇の時代には、宮中で色紙を好んで用いるようになり、その製法も染紙や加工紙などさまざまなものが作られ、天皇の宣命料紙として、紅紙、緑黄紙などが用いられたと、『本朝世紀』正暦五年(995年)の条にある。

堺紙屋紙という名が史料に見られる。
 紙屋紙とは、本来奈良朝の「紙戸」、平安朝の「紙屋院」という官立の漉き場で抄造された紙の称で、紙の品質の高さの証明でもあった。ところが、平安末期の頃には、「紙屋院」では主として「宿紙」と称された、漉き返し紙を抄造するようになっていた。
 「宿」は、旧・久の意であり反故紙の漉き返しの意味に使われ、浅黒くてむらもあり薄墨紙・水雲紙ともいわれた。そして、いつの頃からか漉き返し紙の宿紙を紙屋紙と称するようになっていた。堺紙屋紙は、宿紙である。

 かって輝かしい名であった紙屋紙は、古紙再生の漉き返し紙の宿紙の代名詞となっていった。
この背景には、律令体制の衰退とともに、荘園で盛んになった紙漉きに原料が使用されて、図書寮では原料の確保が年々難しくなった事による。
宿紙の代名詞となった紙屋院は、中性の南北朝期に廃止された。
文治元年(1185)平氏が壇ノ浦で滅び、源氏の鎌倉幕府が成立して、きらびやかで消費的であった王朝文化から、粗野ながらも質実剛健な武家社会が台頭した。紙の消費層も、公家・僧侶から武家・土豪に広がり、実用的な丈夫な紙が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃紙などが流通した。
紙作りの主流は、荘園や守護地頭の下に移っていった。