随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

和紙の歴史  ヨーロッパへの伝播

2006-06-18 21:08:10 | 紙の話し
ヨーロッパへの伝播

 ダマスカス紙
 サマルカンドで改良された、ボロだけで紙を漉く技術が、ソグド人によって、イスラム圏の世界最大の文化都市バクダッドへも794年に伝えられた
さらに西進して、ダマスカス(シリア)でも製紙が始められた。ダマスカスは、もともとバクダッドが建設されるまでは、アッバース朝の首都であった文化都市であった。
 このダマスカスで漉かれた紙は品質が良く、地理的条件からもヨーロッパへ輸出された。
 ヨーロッパでは、紙の代名詞としての「ダマスカス紙」の名で流通していた。製紙法は、国際商人ソグド人によってイスラム圏の各地に伝えられて、エジプトでも900年代には、パピルスがすべて紙に取って代わられた。
アフリカの地中海沿岸を西進して、1100年にモロツコのフェズで製紙が開始されている。


 地中海を渡ってヨーロッパで最初に紙が漉かれるのは、スペインのサティバで1150年頃とされている。
この頃のヨーロッパでは、ギリシャ・ローマ教会が完全に分裂して、ローマ教皇が絶頂期を迎えた時期であった。十字軍の遠征が始まり、都市の勃興期で、それにつれて商業が活発となり、貨幣経済が進展した時代であった。          フランスのエローでは1189年、イタリアのファブリーノで製紙工場が造られたのは1264年であった。ヨーロッパ全土に製紙が広まるには、およそ300年の歳月を必要とした。
その後フランスは、中世における最大の製紙国となった。
ヨーロッパでの製紙の伝播速度は、イスラム圏に比べてはるかに遅い。

紙の普及は、宗教と大きな関わりを持っている。
イスラム教では、個人が直接絶対神のアッラーに祈る。イスラム圏での聖典『コーラン』は、誰もが手元におくべきものとされた。従って紙の需要も大きかった。中世のヨーロッパでは、カトリック教会が支配していた。
キリスト教の聖典『新約聖書』は、キリスト教団の成立後、その布教の長い歴史の課程で、多くの人々によって書きつがれたものである。
中世カトリックでは『聖書』は教会が管理した。             
 後のプロテスタントと違い、カトリック教徒は、すべてを教会にゆだねている。神の教えは教会を通じて伝えられ、神への祈りも教会を通じて行われる。
 個人として、神と直接対話を行うことは許されず、神の代理の司祭を通じなければならなかった。
 このような中世ヨーロッパでは、キリスト教徒は個としての確立が遅れ、必然的に紙の需要も神職者に限られたのであろう。
西方世界に紙を伝えたサマルカンドも、一二五八年モンゴル軍によって完全に都市を破壊されている。


和紙の歴史  サマルカンドの製紙  

2006-06-17 09:22:55 | 紙の話し
サマルカンドの製紙

西方で最初に紙漉き場が作られたのは、七五一年中央アジアのサマルカンドであった。唐軍とイスラム勢力のアッバース朝がタラス(カザフスタン共和国)で戦って、唐軍が破れたときの捕虜に、紙漉きの職人がいて伝えたという。
西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から140年以上も経過している。
またこの時代の唐では、製紙法が秘密にされていたのかも知れない。
サマルカンドでは、桑、苧麻などを製紙原料に使用して紙が漉かれた。
しかしサマルカンドでは、桑科の植物が少なかった。そこで、麻のボロの混入量を次第に増加させ、ついにはボロのみで紙を漉く技術を確立した。

ペルシャ語で紙のことを「カーガス」という。アラビア語でもインド語でも紙のことをカーガスといった。カーガスは、中国語の穀紙(Gu-zhi)が訛ったものとされている。紙を西方に商品として伝えた国際商人のソグド人が、紙をカーガスと呼んだ。
中央アジアで、シルクロードを経由した東西交易に重要な役割を演じたのが、国際都市サマルカンドであり、サマルカンドを中心に、世界を股にかけて活躍したのがソグド人であった。 
 ソグド人は、もともとソグディアナ地方にいたが、アレキサンダー大王の遠征によって、各地に四散させられることになった。四散したソグド人は、国境を越えて連携しつつ、自らの才覚で国際商人として活躍したのである。
 イスラム帝国のアッバース王朝は、アラブ人の政権であったが、中央アジアでの住民は、イラン系、トルコ系が多かった。          
サマルカンドは、イスラム文化によって育まれ、ソグド人の東西交易の活躍によって、当時の世界でもたぐいまれな文化都市を形成していた。

イスラム世界はイスラム教によって統一されている。
 イスラム教の聖典は、『コーラン』であるが、アッラーの啓示を受けたマホメットの時代には、「天上に書板としてあり」地上には存在せず、マホメットによって語られた。
マホメットの死後、神の啓示としての地上の『コーラン』の編纂がカリフ(マホメットの代理者という意味)によって行われた。さまざまな書写材に書かれた『コーラン』も、イスラム圏の拡大により、まちまちの方言で表記された。   
 当時は、パーチメントに書かれた『コーラン』が多かったようだが、音吐朗々と読唱されねばならない『コーラン』が方言では都合が悪く、何度かの結集と統一が行われた。  
 このような事情で、結集統一された聖典『コーラン』の配布が必要であった。
このような時期に、サマルカンドで紙漉きの技術が伝わったのであった。
 サマルカンドでは、最盛期には一つの川筋に300もの水車があり、そのうち140は製紙用のものであったといわれている。
サマルカンドで製紙が盛んになるにつれて紙が普及し、紙に書かれた聖典『コーラン』は誰もが手元におくべきものとされた。





和紙の歴史  紙祖蔡倫伝 二

2006-06-15 13:47:27 | 紙の話し
(二)紙の発明と伝播


紙祖蔡倫伝 二

紙の発明者として名高い蔡倫は、宦官(かんがん)であったが故の、後宮の政治抗争事件に引き込まれ哀れな最期を終えている。
長い中国の歴史で、多くの人々が去勢されて宦官に仕立てられた
世界史でも中国にしかなかった宦官の制度は、去勢されて後宮に仕える官職で、主に罪を犯して宮刑(腐刑ともいう)に処せられたものが用いられた、との暗いイメージがある。事実、宮廷という密室の中で、政治的な暗躍を図り、私腹を肥やし事実上の政治権力を壟断した宦官も多い。
 しかし、数多い宦官には歴史に名を残した優秀な人材も多い。     
 『史記』で名高い司馬遷は、自己の良心に忠実な発言のため、武帝の怒りに触れて屈辱的な宮刑に処せられている。

宦官の歴史で、優れた宦官の双璧とされているのは、蔡倫と明の鄭和とされている。明軍が元軍を撃破して各地を制覇した時、将軍たちは明の皇帝に献上する美少年を物色し、十二歳の眉目秀麗の鄭和を献上品に選んだという。
鄭和の家系は、雲南のイスラム教徒の有力者で、チンギスハーンに従って功績があったという。敗戦国の奴隷のような立場で、皇帝への献上品にされてしまったのだろう。
 鄭和は去勢されて明の永楽帝に仕え、後にその才能を認められ、七回に渡るアラビヤ・アフリカまでの大航海の総司令官を勤めた。

さて、蔡倫のことである、字は敬仲、現在の広東省に近い湖南省南部の桂陽の出身である。去勢の経緯は記録に残っていないが、やはり少年の頃に去勢されたと推測されている。
後漢は幼帝が相次ぎ、皇太后の摂政が多かった。           
 蔡倫が仕えた和帝には、異母兄がいた。和帝の父の章帝の正妻の皇太后には実子がなく、和帝を実母から引き取って育てた。皇太后は和帝を即位させるために、すでに皇太子であった和帝の異母兄の劉慶の実母宋貴人(そうきじん)を陥れ、劉慶を皇太子の座から追放した。
この宮廷内部での政権争いの事件に、必然的に宦官である蔡倫が利用された。権力者の皇太后から事件の事実調査を命じられた蔡倫は、宋貴人に不利な結論を出さざるを得なかった。
章帝 が死んで、和帝が十歳で即位すると、和帝の育ての親の皇太后の天下となった。蔡倫は和帝即位後、宦官の幹部級の中常侍に昇進している。後にさらに昇進して、尚方令に任命され、その職務のなかで紙の発明を行うことになる。
 話は複雑に展開して行き、蔡倫はその出世の契機ともなった事件の因果で、時代が代わった時に、自刃に追い込まれるという哀れな最期を迎える事となる。
 権力欲の強い皇太后の摂政の下に、皇太后の兄達が実権を握り、政治を私物化していった。あまりの乱脈ぶりに、和帝もやがて危機感を抱き、逆クーデターを起こし、皇太后の一族を粛正した。このクーデターに力を貸したのが、皇太后により皇太子を廃された異母兄の劉慶の清河王であった。                          
 蔡倫が紙を発明して和帝に献上するのは、このクーデターの十三年後の事である。 紙の発明のあと直ぐに、和帝が二十七歳の若さで死ぬ。和帝の子供は皆幼児期に死亡しており、やむなく和帝の異母兄の清河王であった劉慶の子で十三歳の劉祐 が即位する。これが安帝である。安帝が即位したことが、蔡倫にとって不幸な結末になった。
 安帝はまれにみる暗君で、後漢の衰亡は彼に始まるといわれている。先帝の皇后が亡くなり、安帝の親政となると、まず手がけたのが四十年以上も前の祖母であった宋貴人の怨みを晴らすことであった。
かくして、安帝の祖母を陥れた本人が居ない以上、犠牲にされたのは当時の事件調査報告者の役割を演じさせられた宦官、蔡倫に他ならない。



和紙の歴史  紙祖蔡倫伝 一

2006-06-14 09:06:13 | 紙の話し
(二)紙の発明と伝播


紙祖蔡倫伝 一

紙が発明されたのは、後漢時代の105年に蔡倫(さいりん)が、汎用性が高く従来品に比較して廉価な「書写材料に適した紙」の製法を発明して、時の皇帝であった和帝に献上したことに始まるとされている。(『後漢書蔡倫伝』)
当初は蔡倫が発明した紙を特に「蔡侯紙」といった。それまでの「紙」は、絹の一種を指していたために、区別する必要があった。
中国では、大麻、苧麻(ちょま)は古代から利用されている。         
 麻の繊維は固いために、水にさらして叩いて、繊維をほぐす必要があった。絹も繭を水につけてさらして作る。クズ繭から絮という真綿をつくる時に、簀の上に残る薄いシート状のものを「紙」と呼ばれた事は前に述べた。
蔡倫は、これらの事から紙の製法を思いついたのであろうと推測されている。
 それまでの「紙」は、絹の生産過程で派生するもので、原料が限定された高価もので、多用することができない。
そこで、大麻、苧麻や麻のボロ、漁網などの繊維を木灰汁で煮て、水でさらして細かく砕き、簀で漉くという方法で紙の製法を考案したと思われる。書写材に適した紙を漉くには、繊維を細かく砕くのが最大のポイントで、西方から伝来していた石臼を利用したであろう。「蔡侯紙」以前の「紙らしきもの」は、表面が粗く、麻の繊維が筋状に残っており、書写材としてはやや不適な織物に近い状態であった。

中国での相次ぐ古代紙の出土が、蔡倫を紙の発明者(『後漢書蔡倫伝』)の地位から、紙の改良者、製紙法の確立者へ変更させた。
 しかし、古代の「紙らしきもの」から書写材に適した、安価で量産できる今日的な紙の製法を確立したという偉大な業績と始祖の名は揺らぐことはない。
蔡倫は、紙の発明当時に後漢の都洛陽で尚方令という、天子の御物を作ることを主な任務とした官職に就いていた。役職柄、宮廷の物づくりが仕事であり、費用を惜しまず原料の調達ができ、試作を繰り返すに都合の良いポストにあり、さらに仕事に忠実で研究心の旺盛な蔡倫の人格が、世界に先駆けた偉大な製紙法の発明につながっていった。 

 蔡倫は、宮廷関係の役職者であるため宦官であったが、宦官のなかでも幹部級の官職であった。俸禄は六百石で、ほぼ県の長官と同格であったという。
紙の発明は、文明や文化の情報伝播と交流に、果たした役割は計り知れない程大きな、世界的な発明であった。
ただし、発明当初は当然ながら国家的な戦略物資として、製法は秘密にされて、商品としてのみ輸出された。

世界の三大宗教といわれる、仏教、イスラム教、そしてキリスト教も、紙なくしては世界宗教にはなり得なかったと思われる。
また、宗教によって、紙と製紙法が広く世界に伝えられたともいえる。
玄奘三蔵が天竺(インド)から持ち帰った経典はすべて貝葉に記されていた。これを紙に写経することで、広く仏典が紹介され、我が国にも伝えられた。




和紙の歴史  中国古代の紙

2006-06-13 09:17:18 | 紙の話し
中国古代の紙

中国では、紙の発明以前に、「紙らしきもの」は作られていた。   
 最初の紙らしきものの発見は、1933年に新彊(しんきょう)のロプノールの近くの前漢時代の烽火台(のろしだい)跡から発見されている。同時に出土した木簡に記年があり、紀元前四九年の表記がある。このロプノール紙は一九三七年の戦火で焼かれ現存しない。
この紙は「麻紙」で、紙質がきわめて荒く紙面にまだ麻の筋が残っていたという。
 その後、紀元前140~87年頃の前漢時代のものと推定される「麻紙」が1957年に西安市で発掘された。四川大学で化学検査をしたところ、大麻と少量の苧麻が含まれていることが判明した。           
 さらにこれより古いとされる麻紙が、1986年天水市の古墳で出土している。これは「放馬灘紙」(ほうばたんし)と呼ばれており、埋葬者の胸部に置かれていた長さ5.6㎝、幅2.6㎝の小さな紙片で、前漢時代の紀元前179~141年頃のものと推定されている。これは現在知られている中国で出土した最古の紙で、地図らしき物が描かれている。           

中国で発見されているこれらの古代の紙は、むろん世界最古の紙である。
 ただこれらの紙は、麻の繊維から出来ているが織物に近く、銅鏡などを包むのに使用された「包装紙」で、この上に文字や絵を書くにはあまり適さないものであったようだ。 ただ、もともと紙の用途は多用途で、物を書き記したり絵を描いたりするだけでなく、物を包む、汚れや水分を拭き取る、水やその他の溶液を濾過する、ものに張るなどさまざまな用途がある。


和紙の歴史  貝多羅(ばいたら)

2006-06-12 10:12:02 | 紙の話し
貝多羅(ばいたら)
   
インドでは古くから、ターラという樹の葉を書写材料に用いていた。
ターラは棕櫚(しゅろ)の葉に似たパルミランヤシ、コリハヤシの若い扇子状の葉を、幅七~八㎝、長さ六〇㎝ほどの長方形に整え、束ねて乾燥させる。乾燥したターラに、墨壺と糸を用いて五本の線を付け、先のとがった筆で葉の両面に文字を彫りつける。
 そこに油にすすを混ぜたインキを流し込み、熱した砂でふき取ると、文字の部分だけが黒く染まる。その各片をパットラといい、サンスクリットでは葉を意味し、漢訳では「貝多羅」「貝葉」とした。
貝葉は、一つの穴を開けて、紐を通してまとめられる。二つの穴を設けて、ノートのようにめくれるようになっているものあった。

玄奘三蔵(602~664)が、はるかな天竺へ行ったのは、中国で紙が発明されてから五百年以上もたってからであったが、インドから持ち帰った経文は、貝多羅を重ねて、両端を版木で挟み縄で結んだものであった。
玄奘三蔵がもたらした経典は五百二〇夾(きょう)であったと記されているが、「夾」とは、はさむという意で、貝葉の束を意味する。
むろん、その頃にはインドにも、紙は商品として渡っていたはずだが、まだ製紙法は伝えられておらず、高価で一般的ではなかったようだ。
或いは、聖なる仏典は、昔ながらのターラに書くべきだという、保守的な考え方が強かったのかも知れない。


和紙の歴史 パピルスとパーチメント

2006-06-11 14:56:26 | 紙の話し
パピルスとパーチメント

 古代の西方世界での書写材は、初は粘土板であった。         
 湿った粘土板に、葦の茎で楔形の文字を刻みつけた。乾燥すると極めて固くなり、保存性に優れていたが、やはり重く嵩張るために保管に苦労したであろう。
やがて、古代エジプトで、パピルスという優れた書写材料が発明されて、広く用いられるようになった。 
パピルスは、紀元前2500年頃のエジプトで、文字の使用と共に使用され始め、古代エジプトの重要な輸出品で、貿易の通貨の役割も担っていた。
パピルスは多年生の草本で、食料、船の構造材、縄、書写材など様々に利用された。書写材としての「パピルス」は、水草のパピルスの根に近い部分の髄を取り出し、薄い片にして水に漬けて叩き、長さを揃えて縦と横に並べて圧搾脱水し、乾燥させた後、表面を動物の牙などで擦って滑らかにして使用する。今日的な感覚では、紙というよりも原始的な布のようなもので、欠点としては文字が書きにくいことと、脆いことであった。片面しか記入できないことと、また曲げに弱いため30㎝四方のものを二十枚くらいつないで5mほどの巻物として利用した。
 「volume(巻物)」は、パピルスの巻物のラテン語表現を語源とする。
 「bible(聖書)」は、ギリシャ語でパピルスに文字を書いたものをbibloと表現した事を語源とする。そして、紙を意味するpaperがパピルスを語源としていることは周知のことである。これらのことは、古代世界でいかにパピルスが広く利用されたかの証左である。

パピルスの製造と流通は、エジプト王朝の管理下に置かれ、書写材のパピルスの製法は秘密にされていた。まさに国家の戦略物資としての地位を占め、それはサマルカンドで盛んに製紙が行われるようになるまで続いた。

古代における優れた書写材を開発したエジプトは、プトレマイオス一世(BC283没)の時に文明の象徴として、古代最大のアレクサンドリア図書館を作った。パピルスの書物は、天文、科学、文学、歴史、信仰、慣習などあらゆる分野に及んでいる。息子の二世フィラデルフォスがその充実に努め、蔵書は数十万巻といわれている。エジプト文明を彷彿とさせる壮挙であった。                     
 ところが、アナトリアのペルガモン(現トルコ共和国ベルガマ)におこった王朝のエメネウス二世(在位BC197~159)は、アレクサンドリア図書館の司書長を引き抜き、エジプトに対抗して二十万巻の書物を蔵する大図書館を作った。

 新興国のペルガモン王朝は、世界に文明国家としての存在を誇示したのだろうか。
 エジプトはアレクサンドリアを越える図書館の出現を喜ばず、パピルスの輸出を停止した。
このために、エメネウス二世は、パピルスよりも優れた書写材料の開発を命じて、生まれたのがパーチメント(羊皮紙)である。        
 羊の他に牛や鹿等の獣皮を、水に漬け石灰乳に浸して不要な毛や肉を取り除き、木枠に張り付けて乾燥させ水洗い後、軽石で表面を磨いて平らにし、最後に白色の鉱物の粉をすり込み不透明化した。

羊皮紙は、パピルスに比べてはるかに書きやすく、また強靱で冊子本を作るのに適しており、さらに保存性にも優れていた。このため、紙が普及するまでは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの聖書に使用され続けている。            
 ただとにかく高価で、バイブル一冊を書くのに羊五百頭分の皮が必要であったという。羊皮紙のパーチメントの名称は、ペルガモン王朝の名に由来している。




和紙の歴史 絹と紙

2006-06-09 10:15:42 | 紙の話し
絹と紙

紙が発明される前から、「紙」という文字はもともと中国にあった。
紙以前の「紙」はもともと絹の一種を指していたようだ。
紙の「糸」偏は「生糸を併せて一本に撚った形」、旁の「氏」は砥で砥石のように平らなことを意味している。

紙が発明される以前の書写材として、主として竹簡や木簡に筆墨で記録され、また紀元前七~六世紀以降には、「紙」という絹帛(細かく織った絹)などに記された。 
「紙」は貴(たか)く、役所の記録には竹簡や木簡が使用されたが、重く嵩張るため不便であった。

「紙」と呼ばれた絹帛 は、一匹(約50㎝×9m)の値段が米六石に相当したという程、貴重なものであった。
古代中国では絹を作るときに派生する質の悪い繭から、絮(じょ)という真綿をとり、防寒用に利用した。この絮を作るには、絹の繊維くずを竹筐の中で水につけながら、竹竿で叩いて晒して作った。この時に、簀の上に微細な繊維が薄い膜状に残り、それを乾燥させると、薄いシートになる。    
 これを漢代には、「紙」と呼んで書写材料として利用した。紙の一歩手前のものではあるが、原料がクズ繭とはいえ高価な物で、大量に作ることは不可能であった。 

 日本語では紙をカミと読むが、その語源には諸説ある。
紙の発明以前は、ガバノキ(樺)の樹皮に書いた(様々の樹皮や獣皮を利用した)ので、カバがカミに転じたという説と、竹簡・木簡の「簡」はカヌ、で音の変化でカミとなったとの説がある。
いずれにしても、ものを書き記すために、さまざまなものを「紙」として利用してきた。
農業が発達して、多くの人々が定住して村落を形成して暮らすようになると、それなりの組織を必要とし、その組織の維持のためのさまざまな記録が必要となっていく。
 記録のための文字の発明と同時に、さまざまな書写材料が試行錯誤で利用されていった。特に国家の成立は、組織的な記録の保存が重要な命題となった。
「紙」の開発には、多くの時間と研究投資が必要で、試行錯誤が繰り返されて開発された「紙」は、時として国家の戦略物資として、製法が秘密にされて、重要な交易商品となった。



和紙の歴史 連載企画 1

2006-06-08 10:39:16 | 紙の話し
随縁記を暫く休んだが、内容を一新して紙の歴史をシリーズでUPしていきます。


(1)章 紙の発明とその伝播


(一)紙以前の紙

筆と墨

記録のため文字が発明され、次いで文字を記すための筆記具が作られた。紙よりもはるかに早く筆と墨が発明されている。
通説では、筆は古代中国の秦の始皇帝の時代(BC221年に中国統一)に、蒙恬(もうてん)が発明したとされている。                    
 しかし、近年の研究により、今からおよそ3500年も前の殷の時代(BC1600年頃成立)に、すでに筆や墨が使用されていたと言われている。遺跡から出た甲骨文にも筆を表す象形文字がみられ、長沙地方で楚の古墳から、竹の軸にウサギの毛を糸で巻き、漆(うるし)で固めた筆が発掘されている。

墨は、黒い土や石墨(グラスファイト)、また炭を水で練るか溶かせば容易に作ることが出きる。このような原始的な墨は、筆よりも遙かに古く、紀元前3000年の新石器時代には知られていたという。
墨は、炭素の粒子が細かいほど筆記には都合がよい。現代のような油煙の煤(すす)を用いるようになったのは、周の宣王(BC827即位)の時代に考案された。 
明の時代の『天工開物』には、墨の作り方が詳しく図解入りで残されている。
煤は膠(にかわ)で丸く固め、必要に応じて適当な濃さに溶いて用いるようになった。 墨をする硯は、すでに漢の時代から使用されており、岡と池を持った現代のような形になったのは、唐の時代のころといわれている。 


 ■この記事の全文は、HP http://sano-a238.hp.infoseek.co.jp
の「和紙の歴史」に掲載しています。ご参照下さい。