随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

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2013-05-24 00:14:37 | Weblog


7つの習慣

2012-10-03 22:59:43 | 人生
 
『7つの習慣』 著者 スティーブン・R・コヴィー

 1997年に読んだものですが、改めて読み返しています。



 「20世紀にもっとも影響を与えた2大ビジネス書」のひとつとされています。
 
 もし、読んでいない人がいたら是非読んでください。
 僕の人生のバイブルとなっています。
 ビジネスだけでなく、自分のあり方を大きく変えることができるはずです。
 今でも有料のセミナーが開催されています。
 以下はその概要です。


■第一部・パラダイムと原則について

○インサイド・アウト(内から外へ)

 ・一次的な真の成功とは、優れた人格を持つことである。社会的な成功、個性の発揮、コミュニケーションのスキル、他に影響を及  ぼす戦略、前向きな姿勢などは、二次的  なものである。

 ・自分自身の内面(インサイド)、パラダイム、人格、動機などを最初に変え、それから、外側(アウト)、他人や環境を変えるという  ことである。

 ・―人が物を見る時には、ある種のレンズのような物(パラダイム)が存在し、それが  認識、理解、解釈、行動、態度を決めて  いる。従って、そのパラダイムを転換させることにより、自分のあり方を大きく変えることができる。

○人生の扉を開く「7つの習慣」

 ・習慣がいかに強力であるかを説明。
 
 ・私的成功とは、依存状態から自立すること。第1,第2,第3の習慣が含まれる。  
  自ら効果をつくりだす。

 ・公的成功とは、自立した人間が相互に依存することであり、第4,第5,第6の習慣が含まれる。
 
 ・より高い効果をつくりだせるように自分を改善する。

 ・私的成功により充実した気持ちに満たされる。

 ・公的成功により人間関係が改善される。再新再生により真の自立、相互依存の土台をつくることができる。


■第二部・私的成功

第一の習慣 「主体性を発揮する」
     自分がコントロールできる、影響を及ぼすことができる事柄に集中する。

第二の習慣 「目的を持って始める」
  人生の最後のイメージ、光景、パラダイムを持って今日を始めることである。

第三の習慣 「重要事項を優先する」
    価値観に調和した生活を送るために、効果的な自己管理を行う。

第四の習慣 「Win-Winを考える」
   双方が満足できる解決策をみつける。

第五の習慣 「理解してから理解される」
  まず相手を理解するように努め、その後で、自分を理解してもらうようにする。

第六の習慣 「相乗効果を発揮する」
  自分と他人との意見に相違が生じた時に、自分の意見を通すのでなく、他人の意見に折れるのでもなく、第三案を探し出す。

第七の習慣 「刃を研ぐ」
    人の持つ4つの資源(肉体、精神、知性、社会・情緒)を維持、再新再生するという習慣のこと。

阿波踊り ②

2012-08-14 15:32:22 | Weblog
 
 明治期に入って、阿波の盆踊りは、再び藍商人の財政援助により徳島全域で踊られるようになり、藩政時代にも増して繁栄していった。
そのご大正期のドイツの化学染料の輸入によって、藍商人が衰退した大正期以降は、阿波踊り盛り上げの大きな力になったのは、芸者たちであった。

 阿波の芸能風土の形成は、とくに三味線の普及を契機として、城下の商家などでは娘たちに三味線を習わせることが流行し、三味線の稽古所が続々と出現する。

少し弾けるようになると発表の場が欲しくなり、その場が盆踊りと「三味線流し」となった。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せて送り出し、自慢の種にしたという。こんな盆の市中を彩る、阿波独特の盆行事として定着していった。
 そのような多彩な盆踊りを演出したのが色街であり、色街の果たした役割や、阿波踊りを演出した機能が評価されている。

 


このころの情景を、明治期に徳島に住み、初めて外国に阿波踊りを伝えたといわれる、ポルトガルの文人のモラエスは、
「盆が近づくと、民衆は伝染病のような熱狂的ヒステリー症にかかります」
と、その著書『徳島の盆踊り』の中で書いている。

 

さて、「阿波踊り」の名称についてふれたい。

 「阿波踊り」の名称が初めて登場するのは、明治42(1909)年
『大阪朝日新聞』の阿波付録面で、「阿波踊」の見出しで、当時の様子や江戸時代の踊りについて触れている。

 『徳島毎日新聞』では、「徳島踊り」の名称を使った。
それまでの名称は、「阿波の盂蘭(うら)盆踊り」であった。

その熱狂的で一種特別な踊りぶりから、俗に「狂気(きちがい)踊り」などとも呼ばれてきた。
 しかし一般的には、本来の盆踊りの際には「阿波の盆踊り」または「盆踊り」が主として使われ、盆以外の踊りで「阿波踊り」という場合が多いようだ。

ともかく、徳島県としても観光資源にするべく「阿波踊り」と名称を統一し、阿波独特の伝統芸能として全国に紹介した。



新聞も昭和4年以来、毎年阿波踊り特集を組み、有名人が見物にやってくると、現在のように大きく取り上げた。
こうして阿波踊りは全国的に有名になり、昭和5年には女優の牧野智子ら一行がやってきて、踊りを背景に時代劇の映画撮影があった。
また、松竹楽劇部ではレビューに阿波踊りを取り入れ、東京、大阪など各都市で公演して紹介した。
 昭和8年7月には、徳島放送局(現在のNHK徳島)が開局し、毎年のように全国中継した。

 阿波踊り宣伝のために生まれたといわれる「徳島観光協会」は、昭和7年に新町川が見渡せる埋め立て地に審査場とともに、県外客のために、長さ百メートルにわたる特別見物席(桟敷)を作り、徳島駅前や中洲の休憩所と合わせて、計15人の接待娘を配置してお茶などの接待に当たった。

 審査場は昭和4年から設けられ、昭和11年には、全部で七カ所に拡大した。
 審査場ができてからは、踊り子たちは各審査場へ順番に繰り込み、乱舞を披露したという。
 しかし、その観光資源の「阿波踊り」も、戦争という非常事態で中断してしまった。


戦後すぐの昭和21年(1946)に占領軍の許可をえて、8月10日から13の三日間、阿波踊りが踊られて復活した。






 阿波っ子の、阿波踊りに対する思い入れが伝わってくる。
 そのときの『徳島新聞』には、

 「阿波踊り復活、何はなくとも明朗に」
 との見出しがつけられている。

 その後、阿波っ子の踊り熱は高まる一方で、自由な民衆娯楽として大きく開花していった。
 徳島県人会によって、東京の高円寺をはじめ、埼玉の南越谷、北海道各地などでも盆踊りとして「阿波踊り」が定着している。
 また現在は、毎年のように海外にも「阿波踊りの連」が遠征し、ユニークな踊りが披露され、阿波踊りは、
 日本を代表する盆踊りから「アワ・ダンス」として、世界に知られるようになっている。

 阿波人の陽気さと、情熱とその積極性に富む創意工夫が、今日の一大イベントとしての阿波踊りを隆盛に導いたといえる。

阿波踊り

2012-08-14 13:50:46 | 旅日記
阿波踊り①

 
 夏休みといえば、盆踊り。
 盆踊りといえば、やはり徳島の「阿波踊り」
 熱気につつまれて「にわか連」で踊るたのしさ。
  
 ところで、阿波踊りの囃子詞(はやしことば)に、
 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」
とある。

 


 阿波おどりは、見るよりも踊るほうがはるかに楽しい。
 踊り方には基本があるが、振り付けを覚える必要はなく、初心者でもわずかな練習で踊りを楽しむことができる。 

 現在の徳島での阿波踊りは、「連」というグループ単位で隊列を組み、大通りには観光客のための桟敷(さじき)が設けられ、その観客席の桟敷(さじき)の間を踊り抜ける形式になっている。
むろん観光客も、「にわか連」に参加できるようになっている。
地元の連と一体になって、誰でもが楽しむことができる、徳島の最大の観光イベントとなっている。
 阿波踊りは徳島県下全域で踊られていて、開催期間のお盆には徳島はまさに熱気に包まれる。
 現在は、阿波踊り期間中に、130万人近い観光客が徳島を訪れる一大イベントに成長している。

 阿波の盆踊りが盛んになったのは、蜂須賀家政が天正十四年(1586年)に、徳島藩主となってからであること言われている。
蜂須賀家政は、吉野川流域が米作に不適であることから、藍や塩、紙などの産業育成を図った。
 阿波徳島藩は、表高こそ25万7千石だったが、藍のおかげで、のち実質45万石といわれるほどになった。

 藩の財政が豊かになれば、とうぜん領民も、他郷に比べれば豊かになり、阿波踊りや、人形浄瑠璃などの、伝統芸能が育まれた。
 徳島城下をはじめ阿波は、そのような芸所として伝統芸能が育まれ、個有の文化が展開したところである。

 

 その背景には、阿波「藍(あい)」を中心とした商人の活動が、広範な全国市場を形成したことがある。
 とくに十九世紀に入って、城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉をもとめて顧客が殺到した。

 その接待の場となったのは色街であり、さまざまなもてなしの座敷芸能が磨かれた。
 また諸国の芸能も受容され、阿波独特の創造を加え、阿波の諸芸として再生産された。
 座敷芸、三味線流しや、ぞめき踊り(盆踊り)の変遷や、にわか踊りの波及にも、色街の果たした役割が大きかった。

 藍商人が支援者となり、「盆踊り」は年ごとに規模が大きくなっていった。
 そこで生まれたのが「組踊り」で、各町から数百人規模の集団で繰り出し、衣装や持ち物を競いながら、毎年、工夫を凝らした踊りを展開していった。
組踊りは、今の「連」の原型といえる。




 「評判所」が設けられて、踊り審査が行われたため、次第に華美になっていった。 
もう一つ「にわか踊り」がある。
 これは店先で、一人ないし数人で、身ぶり豊かな即興劇を次々と演じ、終われば他の店へ駆けていく「走りにわか」や、歌舞伎役者の着る衣装やかつらを身に付け、寸劇を演じる「歌舞伎にわか」などいろいろあった。
 この踊りも次第に華美になったため「組踊り」同様、徳島藩の取り締まりの対象となり、幕末になっていったん姿を消した。(つづく)
 

円高の謎

2012-07-31 22:46:45 | 経済
 お札の話の余談として、円高の謎に迫ってみた。

 
 円が急に90円になったとき、まるでシロウトながら「これはドル買いだ」と早合点し、僅かながらもドルを買ってしまった。
 すぐに97円くらいに戻した。
少し欲をだして、せめて100円台に戻ったら売るつもりでいたら、また円高に戻り、予想以外の円高が続いている。
 以来、ずっと塩漬けである。悔しいから、円高の理由について、気になっていたことについて今回いろいろ調べてみた。
 結論的には、容易に円安には戻らないであろうと、涙している。

 

 
 現在でも多くの国の貿易では、ドル建てで行われている。
 為替相場は、本来、国際決済通貨であるドルを、自国通貨に交換するために利用する。
 為替相場のレートは、原則論で言えば、為替交換の実需できまる。
 国際間の決済通貨が必要な時には、ドルを買う。
 自国通貨に交換するには、ドルを売る。
 この実需バランスが、為替相場の原則ながら、一方で変動する国際金融事情によって各国の通貨価値が変動している。

 為替相場は、その国の金融事情と財政状況に左右される。
 特にその「金融安定度」と「金利」、「通貨発行高」と「外貨保有高」に左右される。

 まず、「金利」でみると、日本の金利は相変わらず世界最低である。
  しかし日本はデフレ傾向のため、金利がゼロでも、実質プラス金利であり、新興国はインフレ率が金利を上回っているから、実質マイナス金利と判断されている。

 「通貨発行高」では、アメリカが、貿易収支で赤字がつづき、また金融緩和策でドルをたくさん刷ったから、相対的にドルの価値が下がった。
 貿易収支で膨大な黒字を記録している中国は、通貨高になるはずながら、弱いドルと連動している。 これは、中国の「通貨供給量」が異常に多いからである。1999年を100とすると、2009年では450近くになっている。
 通貨供給量が増加するのは、経済成長率が高いことを意味し、インフレ傾向にある。
 10年で4.5倍も通貨供給量が増えているから、人民元は高くならない。 
 その他の国でも、10年で200くらい通貨供給量が増加している。
 ところが、日本だけは10年で120程度と通貨供給が押さえられている。
 日本の潜在的成長率を2%とすれば、毎年4~5%通貨供給量を増やす必要があるが、金融当局では通貨供給量を抑えている。
 こうした金融事情にもとづく為替市場で、その時々の通貨の価値が決められている。

 


 つまり、円高という場合、ドルやユーロと比較して「相対的な評価」が高くなっているということを意味する。また、インフレ率が高ければ、通貨の価値が下がり、インフレ率が低ければ、上がると考えることができる。
 そして、長期的にはそれが為替レートに反映される。日本は長期にわたってデフレ傾向にある。

 要は、為替レートは、二つの通貨の片方が高くなれば、片方が安くなる総体取引の仕組みである。つまり「円高」の裏側には、安くなっている通貨が存在する。

 一方で、為替相場は、実需ではなく「金融の力学」に従って動いている。
 つまりは「通貨自体」が金融商品として扱われているのである。
 実需以外の投機的な資金は、「相対的な評価」が高い円をターゲットにし、円高を誘導して高くなれば、「利ざや」を稼いで売る。
 その利益で、さらに円を買い増しする。
 万一、期待通りに利ざやが稼げなくとも、円を保有すること自体が、他の通貨を保有するよりも「リスク回避」と考えられているからである。




 では、なぜ円を保有することが「リスク回避」なのか。
 かつて日本の金融機関は、バブル崩壊で財務内容が悪化して、90年代後半には「金融危機」と言われる事態になった。
 このとき、経済混乱を回避するために、政府は、金融機関の劣後債・優先株買い取りなどで金融機関に「公的資金を強制注入」した。
 さらに、省庁再編の際に、旧大蔵省から銀行部門を切り離して「金融庁を設立」し、厳しく監視・監督する政策を実施して、金融機関の自己資本比率は大きく改善し、財務体質を強化してきた。こうした経緯で、現在は「日本の銀行」は世界の銀行の中で、最も安定していると見られている。
 
 

近年は、「リスク回避の円買い」傾向となっており、リスク回避的になる時には、全世界の株が下落し、円高となる傾向が強い。
 つまり、株式投機に向けられるべき資金が、円買いに流れてくるからである。
 国としての債務不履行の可能性はないと判断されているから、世界の経済が非常に悪化した場合でも、資産を日本円で保有しておくのが、最も安全であると判断されているからである。
 このため、世界の投資家・投機家の判断が円買い招いている。

 ところが一方で、「日本の国家財政」は、国債の発行残高は12年度末で708兆9千億円となる見込みである。
 また借入金や政府短期証券などを加えた「国の借金」は、昨年9月末で954.4兆円にのぼっていたが、12年度は国債だけで52.4兆円増える見込みのため、12年度末には1千兆円を超えるのが確実となっている。

 来年度予算案では、一般会計90.3兆円とみなされているが、税収見込みは、42兆3460億円を見込んでいる。
 単純な計算では、年間税収額の23年分の借金を背負っていることになる。まさに国家財政の観点からは、財務危機といえる状況であろう。
 欧州の財務危機が叫ばれているイタリアやフランスよりも、債務残高のGDP比率は日本の方が高い。
 債務残高のGDP比率  日本 197.2  イタリア 127  
 フランス92.5  アメリカ 92.4 などとなっている。




それでも、なぜ円高が続くのか。
 つまり日本の国債(債務残高)のほとんどは「日本の金融機関や個人が保有」しているため、売りが殺到する可能性がきわめて低い。
 ちなみにアメリカの財務省証券(国債)の大半は、外国が所有している。その筆頭が中国22%、日本21%などとなっている。

 また、いま国会で審議されているが、消費税の引き上げ余地が高い。
 ドイツ 19%、フランス19.6%、イタリア21%、イギリス20%、あのギリシャでは23%などとなっている。日本の現在の5%が如何に低いかが分かる。

 さらには外貨準備高が大きい。
 外貨準備高の内訳は、外国債券が1兆1160億ドル、金準備が423億6600万ドル、国際通貨基金(IMF)リザーブポジションが175億5600万ドル、特別引出権(SDR)が203億8000万ドル、その他資産が4億6600万ドルとなっている。
 外貨準備高の総合計は、なんと1兆2千億ドルとなる。約2兆ドルの中国に次いで二番目の外貨準備高である。
 これらのことから、政府が「赤字国債」を大量に発行し続けていても、その高い評価は揺らいでいないのである。



では、この円高を止める方法は何か。
 輸出立国の日本にとって、長期的異常な投機的円高を止める手立ては無いのか。
 
 イギリスのフィナンシャルタイムスも「攻撃的な量的緩和プログラム」を取るべきだと指摘している。
 経済学者の竹中平蔵氏も同意見であり、同じく経済学者の高橋洋一氏は、25兆円の政府紙幣を印刷しろと公言している。 
 いろんな意見があるが、「通貨供給量を増やすべ」きという意見は共通しているようである。
 通貨供給量を増やせば、当然、相対的に円の価値が下がり、必然的に円安になる。
 日銀の「攻撃的な量的緩和プログラム」によって大量の資金が流通すれば、当然好景気となり、失業者も少なくなる。
 とくに東北地方の復興資金として投入すれば、一挙両得であろう。
 さらにはGDPが大幅に伸びて、税収は一気に増加するから、国債依存度も低下する。
 また、一気に通貨供給量を増やせば、インフレになるから、後進国への投資資金に円建てで融資してもよいだろう。
 なぜ、日本の金融当局が、通貨供給量を増やす政策をとらないのか。
 これは次の研究テーマとしたい。





 

お札の話  ⑦管理通貨制度-2

2012-07-20 14:28:14 | Weblog





 管理通貨制度が採用される以前、欧米諸国を中心とした「国際決済市」場では、金本位制度が採用されていた。
 これは銀行に金貨・金地金を預託し、その預かり券(紙幣)を用いて取引を行い、最終的な決済は、売り手・買い手の指定する銀行間で金を現送することによって精算する制度であった。

 ところが、1929年からの世界恐慌が拡大し、イギリスは1931年に金本位制を離脱、アメリカを除く各国もこれに追随し、以後は金本位制に代わる管理通貨制度の時代になっていった。
 日本では、1942(昭和17)に日本銀行法が制定され、管理通貨制度へと移行した。


 しかし、第一次世界大戦の前後から、金(本位金)は、経済力の格差からアメリカに集まっていた。このため、アメリカでは国内で正貨が過剰となってインフレが昂進した。
 通貨準備から金の一部をはずす「不胎化政策」をとった結果、金本位制の持つ国際収支調整のメカニズムは失われ金の偏在が進行した。

 説明がやや煩雑になるが・・
 「不胎化政策」とは、中央銀行が金融市場で発生した資金需給変動に対して、それに見合う信用を増減させることで、その変動を相殺する金融調節を行うことを意味する。
 通貨当局による、外為市場介入に伴う通貨需給の変動を、公開市場操作(オペレーション)により調節し、市場金利などへの影響を与えないようにすることである。
 ともかく、中央銀行の最後の貸し手機能から可能となる政策で、相殺の原則が不胎化政策である。
 今日でも、日銀が行う公開市場操作(オペレーション)については、稿を改める。

 第二次大戦後はIMF体制のもと、金 1オンス=35ドルの平価で、交換可能な米ドルを基軸通貨とした。これに従い、各国通貨は、米ドルとの「固定相場制」を採用した(ブレトン・ウッズ体制)。
 この体制下でも、加盟各国は国内においては管理通貨制度を取っており、通貨当局は為替介入と金融政策により、対ドル固定相場を上下幅1%以内に維持しつづけた。
 この制度は「金ドル本位制」「金為替本位制」などといわれる。
 1948年7月  1ドル=270円と決められたが、戦後のインフレによって
 1949年  1ドル=360円の固定相場が実施された。
 
 しかし、1971年、アメリカの財政赤字、経常赤字が増大してインフレが進行、アメリカはドルと金の兌換停止に踏み切り(ニクソン・ショック)、これをもって金と通貨の関係は完全に切り離され、国際的にも管理通貨制度へ移行した。
 

お札の話 ⑥管理通貨制度

2012-07-18 00:49:52 | Weblog



 1942年(昭和17年)、日本銀行法が制定され、
「従前の兌換銀行券は、本法による銀行券とみなす」

旨の規定がなされ、兌換の文言は法的にも意味を失った。
 つまり従来の「金兌換」の約束を、一方的に法律制定で破棄したのである。
 つまりは、単なる政府保証の紙幣と位置づけて、表示金額相当の金貨との兌換を中止した。当初の「太政官紙幣」と同じ位置づけに移行した。
 これにより、日本は名実ともに管理通貨制度へと移行した。
 管理通貨制度とは、紙幣の発行金額に見合う保証物件としての金貨を準備しなくてもよい制度である。
 むろん日本国内の経済事情から来ている。

 満州事変以降、日本銀行券発行高の増勢が強まり、銀行券の大幅な増産が必要となった。このことから、様式・印刷を簡易化した銀行券が製造された。
 1943(昭和18)年に発行された「ろ五円券」は、「日本銀行法」に基づく最初の日本銀行券で、紙面からは「兌換」の文字が消されている。
その後、日本では1988年、新「通貨法」施行で、金本位制度が完全に消滅した。

 1940年(昭和15年)年末の日本銀行券発行高は、約47億7700万円となった。
 そのうち正貨準備発行高は約5億円で、総発行高の約10%にすぎなくなってしまった。
 このため政府は1941年(昭和16年)年3月、新しい法律を公布し、日本銀行券の最高発行限度を大蔵大臣が定める、最高発行額制限制度を導入した。
 まことに政府の都合の良い制度にした。

 これにより日本銀行券の発行限度は、議会に諮(はか)ることなく、大蔵大臣の権限で弾力的に変更できるようになった。
 また、日本銀行券の発行高に対しては、同額の保証物件を保有すれば足りることとし、その保証物件も「金銀貨、地金銀、政府発行の公債証書、大蔵省証券その他確実なる証券または商業手形」とした。
 これによって正貨準備発行、保証発行の区別は失われ、金は証券類と同格の準備となるとともに、日本銀行券は「大蔵大臣の定める限度内」であれば正貨保有の制約を受けることなく、発行できることとなった。

 日本銀行は「国家経済総力の適切なる発揮を図るため、国家の政策に即し通貨の調節、金融の調節及び信用制度の保持育成に任ずる」、
 「専ら国家目的の達成を使命として運営せらしむる」機関として位置づけられていた。
 続く。

お札の話  ⑥日本銀行 金貨兌換券

2012-07-15 19:01:43 | Weblog



 前回は、日本銀行の「銀兌換紙幣」についてふれた。
しかし、世界の潮流は「銀本位制」から「金本位制」へ移行していた。
 このため、遅ればせながら日本の通貨も、
  1897(明治30)年、欧米主要国にならって日本も金本位(きんほんい)制度を採用した。

 つまり「金0.75グラム」を「1円」とする貨幣法を制定したのである。

 2012年の6月の金地金の平均相場では、1g 4,119円だから、
 仮に4000円で換算してみると、当時の一円兌換紙幣の価値は約3000円ほどになる。

 こうして金本位制こ従い、新たに金貨と引き換えられる「日本銀行兌換券」が発行された。
 
 金貨兌換券である以上、発行金額に見合う「金貨」を日本銀行は保有する義務があった。

 日本で最初の金貨兌換券は、1899(明治32)年の甲五円券である。
 つまり紙幣に書いてある価値に価する金と、交換可能であった。
 「此券引換ニ金貨五円相渡可申候也」

 十円紙幣であれば、―「この券と引き換えに、金貨拾円を引き渡すことができます」
 と紙幣に明記されているのである。
 漢文の読み下し文ながら、候文(そうろうぶん)となっているのが、時代を感じさせる。
 明治時代の後半でも、公文書には候文が使われていたのである。

 ただ、この紙幣に刷り込まれた金兌換の約束は、のちに勝手に法律で変更されて約束が反故にされてしまう。
次回につづく。

電子書籍を公開しました

2012-07-15 12:09:42 | 紙の話し


  「booklog」という電子書籍の作成や公開ができるサイトがあります。


 だれでも、自由に「無料」で電子書籍を作ったり、公開したりできる便利なサイトです。
 商業用にも利用でき、また有料で販売もできます。

 自分でPDFで作成した電子書籍をアップロードすることも可能です。
 私は、PDFで作成したものをアップロードし、1000円で有料公開しました。

 「和紙と 日本の伝統文化」

 この書は、長年にわたり襖紙・壁紙業界に席を置いていた関係から、約20年の歳月をかけて集めた資料を基に、
一冊の「和紙に関する研究書」を作成し、限定本として一部の人に配布したものです。

 
電子書籍が普及しつつある状況から、電子書籍向けに改訂し、写真と図版を大量に組み入れました。
 写真や図版を眺めるだけでも、和紙や日本の伝統文化にふれることが出来るように編成しました。
 かなり専門的に追求した資料もあり、和紙研究者には体系的な資料として役に立つものと思います。
 サイトは、下記のアドレスにアクセスしてください。

  http://p.booklog.jp/book/53648

 またgoogleなどの検索で「ハブー」でサイトにたどり着けると思います。
 「和紙と 日本の伝統文化」という電子書籍にアクセスするには、

 上記アドレスのbook/53648の部分が該当します。


お札の話  ⑤日本銀行 銀貨兌換券

2012-07-14 15:31:21 | 紙の話し

 日本銀行兌換だかん銀券  一般には「大黒札」と呼ばれた。
 現在日本国で通用する貨幣(法貨)としては硬貨を含め最古である。
「兌換銀券」とは事実上銀本位制であった当時、銀貨との引き換え証券であった。
 兌換文言:「此券引かへ尓銀貨壹圓相渡可申候也」が刷り込まれている。
しかし、現在は不兌換券(額面1円の日本銀行券)としてのみ通用するという。



 明治10年に西南戦争が始まり、その費用のために大量のお札を発行した結果、激しいインフレーションが起き、物価騰貴を招いて社会が混乱した。
 そこで、明治15年に、国家の「中央銀行」として日本銀行法を制定し、日本銀行が設立され通貨の一元管理が開始された。
 明治18年(1885年)日本銀行兌換(だかん)銀券が発行され、政府が発行した「太政官札」、「明治通宝」、そして国立銀行が発した「国立銀行紙幣」などを順次回収を始めた。
 日本銀行法では、日本銀行の目的を、「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」と規定している。

 しかしこの初めての日本銀行兌換(だかん)銀券は大きな欠陥があることが分かった。
 まず、紙の強度を増すために、蒟蒻(こんにやく)の繊維を混入していたが、それが仇となって、ネズミや虫にかじられる被害が多発した。つまり箪笥預金に被害が続出したのである。
 さらには、写真製版の偽造防止のため、鮮やかな青色で印刷された。ところが、このインクにも問題があった。このインクは硫黄の成分に化学反応して黒く変色してしまうことが判明した。温泉から上がって、財布を開けたら、紙幣の色が変色していた。
こんなトラブル続きで、日銀は、製造元の政府の印刷局に被害補償を請求したほどである。大黒さんのシリーズは、結局4年ほどで、お払い箱になってしまった。



 ところで、日本の貨幣制度は江戸時代では、金貨(小判)、銀貨(丁銀)、そして小額貨幣として銭貨がそれぞれ通用を認められたてい。
 いわゆる三貨制度が存在していた。
 その流通実態は、東日本では主に金貨、西日本では主に銀貨が流通するというものであった。
つまり徳川幕府の財政は、その基本が米(こめ)経済であったから、全国に通用する貨幣というものに無策であった。
むろん徳川幕府は、大判小判などの金貨の鋳造を行い、体系化された貨幣制度を持っていた。しかし、世界は「銀本位制」を採用していたから、主に西日本で通用していた銀貨の流通も容認していた。
 このため、必ずしも貨幣価値が「地金価値」を表していたわけではなく、日本の本位貨幣制度であったとは言いにくい。
 日本では特に「銀」は、世界相場と比較すると、金に対して低く評価されていた。
 鎖国していた江戸時代、唯一貿易を許されていたオランダは、金貨を持ち込み、銀に取り替えて、莫大な利益を上げている。
 明治時代でも、国内と海外との取引は主として銀建てでおこなわれており、その意味では、事実上銀本位に近い状態にあったと考えられる。
 このため中央銀行の日本銀行券も兌換「銀券」であった。