随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

儒教について

2005-10-09 11:37:11 | 宗教
儒教は、孔子(551-479B.C.)の教えで、中国思想の中心として、20世紀に至るまで中国の支配的な思想であり、宇宙観としての宗教でもあり、朝鮮半島や日本にも大きな影響を与えている。
朝鮮半島や日本に、大きな影響与えた儒教思想について考えてみたい。

孔丘(孔子)は、実力主義が横行し始めて、身分制秩序が解体されつつあった周末に、魯国に生まれている。
孔子の「子」というのは、先生という尊称で、孔丘が本名である。
偉大な思想家で、名前をそのまま呼ぶのは畏れおおい事から、本名で呼ばずに孔先生(孔子)と呼び習わし、そのまま定着してしまった。
孔子以後の中国の儒家や思想家で「~子」という人名、孟子、荀子、朱子などは、みな同じ尊称である。 

孔子の思想は、身分制と社会秩序が確立され、安定した理想的な政治が行われた、周時代初への復古を理想とした。復古思想を先王の道として説き、理想的な徳治の道として周時代初への復古を理想とし、身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。

孔子は、子が親に対して持つ敬愛の気持ちを、「孝」と名付け、この家族道徳の「孝」を社会全体に広めること、すなわち「孝」の敬愛の気持ちを、他人にまで広げたものを「仁」とした。
そして人々が「礼」を実践することが「仁」であり、「礼」によって失われてしまった秩序が回復できると考えた。「仁」によって、世の秩序を回復しようとした。 

孔子の思想は、儒学と言われていたが、儒教として宗教的扱いを受けているのは、先王の道を説くと共に、敬天思想や天命思想が説かれているからである。
敬天思想とは、万物の根源を天と称し、宇宙の主宰者を天帝と呼んで畏敬した信仰に基づくものである。
天命思想とは、天が万民を生み、統治は天命を受けた有徳の天子によって行われるべきことを説く思想のことである。

孔子の弟子たちは、孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。
孔子の弟子たちが編纂した、孔子の言行録が有名な『論語』である。

有名な論語の一説を、脈絡なしに記しておく。
「子曰く、巧言令色(こうげんれいしょく)少なし仁」
「子曰く、義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」
「子曰く、朝(あした)に道を聞がば、夕べに死すとも可なり」
「子曰く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た、説(よろこ)ばしからずや」

孔子以前の時代に、冠婚葬祭などの儀式をつつがなく行うための式典の専門家集団がいた。中国文明は、もともと祖先神崇拝が強く、葬儀式典が一番大事な儀礼であった。
この式典専門家たちは、死んだ祖先の霊を呼び出す、巫祝(ふしゅく)と呼ばれる集団でもあったようだ。

孔子は、このような伝統的式典専門家集団の出自で、こういう式典専門家で使われていた言葉の意味を転じて、価値の高い言葉に作り変えた。
伝統的民間信仰を、合理的、理論的に儒学として体系的に構成し直し、儒教にまで高めた。その思想の基礎に、祖先神崇拝があり、中国人の感性に受け入れられた。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。そのなかで孟軻(孟子)は性善説を唱えて仁の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。
また『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集が整理された(完成は漢代)。

孔子の思想は、何よりも社会秩序の回復と維持が基本にあり、支配者にとっては都合のよい思想だった。この為この儒家の教えは、その後も長く支配者たちに保護され中国思想の根幹として命脈を保った。
しかし儒学そのものは、時代とともに解釈が様々に分かれ、幾つもの学問体系に分かれていった。

そうしたなかで、朱子学が生まれている。
南宋の朱熹によって、再構築された儒教の新しい学問体系を「朱子学(しゅしがく)」という。
朱子学は、程頤による性即理説(人間の持って生まれた本性が、すなわち理であるとする)や、程の天理(天が理である)を元に、仏教思想の論理体系性、道教の生成論及び静坐という行法を取り込みつつ、それを代替する儒教独自の理論にもとづき、壮大な学問体系に仕立て上げた。

そこでは自己と社会、自己と宇宙は理という、普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。

朱子学は、日本へは鎌倉時代後期までに、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。
後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な生徒と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。
その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によってその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。

清代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた礼学が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「礼」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは具体的・具象的な学問へと狭まっていった。
礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。
清代になっても、朱子学は体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった。

日本では、皮肉なことに江戸幕府の正学とされたこの朱子学の台頭によって、天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王運動が起こり、後の討幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
朱子学の思想は、近代日本にも強い影響を与え、軍部の一部では特に心酔し、二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。


日本人の宗教観

2005-09-05 12:45:12 | 宗教
日本人には無宗教派が多いように思う。
特に都市で生活していると、多くの職場やコミニティで、普段宗派を問われる事は一切ない。第一自分の家の先祖代々の宗派すらよく頭に入っていないという人も多い。
「たしか浄土真宗だったかな、いや真宗だったかもしれないな」、その程度にしか関心をもっていない。だから、臨済宗と曹洞宗の違いや、真宗と浄土真宗の違いを述ことは、殆どの人が出来ないだろう。

教団や宗派の法会を除けば、日本では一般的に、宗教や宗派を問われるような集まりは少なく、自己の家族が属する宗派を意識する状況が殆どない。
せいぜい葬式の時に、宗派の僧侶に依頼する程度だろう。葬儀に参列しても、その家の宗派をあまり意識せずに終わり、後でさて宗派は何だったかと考えても思い出せない事も多い。 
職場の仲間や趣味の仲間の集まりで、宗派の話しがでることは皆無である。ゴルフが終わってのパーティで、宗派の話しを持ち出せば、敬遠されるだろう。
そのような日本の都会で生活していると、自然と無宗教でも何の不便も感じない。

しかしながら、正月には大勢の人々が神社に初詣に出かけている。「家内安全、無病息災」を敬虔な気持ちで祈願する。受験生は天満宮で「合格祈願」を真剣に祈っている。
また、多くは神前で結婚式を挙げ、子供が産まれれば初宮参りを行い、氏神さまの御加護のもとに無事成長したことを感謝し、健やかな我が子の成長を祈る。
さらに子供が成長するにともない、十一月十五日を中心に七五三参りとして、三歳の男女児、五歳の男児、七歳の女児に晴着を着て神社にお参りし、成長を神様に感謝し、これからの無事を祈る。

七夕には、笹竹に色紙や願い事を書いた短冊をつけて軒先に立てるが、これは、お盆に祖霊を迎えてお祀りする盆棚の旗飾り(はたかざり)からきているといわれている。
七夕は、七日盆・盆はじめともいわれ、七夕には水に関する行事が多いことから、お盆の行事の前に、穢れ(けがれ)を祓い(はらい)清めるための行事であったようである。

お盆が来れば、盂蘭盆会(うらぼんえ)供養で祖先霊を供養する仏事を行う。
迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。
現在、一般には八月一三日から一五日に行われるが、七月に行う地域も多い。各地で精霊流しなども行われる。先祖の供養と同時に、施餓鬼供養なども行われる。

お彼岸には、お墓参りをする習慣があり、祖先の霊を家に迎える盆とは違って、祖先に会いにゆく行事としての色彩が濃い。
彼岸には「おはぎ」や「ぼたもち」を供え、お下がりとして食べる。
秋になると、各地の氏神神社の御輿を担ぐ、秋の祭礼がある。山車(ダシ)を担いだり、楽車(ダンジリ)を曳く。秋の収穫を氏神に感謝する祭礼であるが、都会化された地域でも、地域の象徴として大切に祭りを継承している。

観光旅行でも、観光地にある由緒ある名刹に詣でて、敬虔に祈りを捧げる。
このように見てくると、日本人として日本の風俗のなかで育てられてきたから、人生の節目でさまざまな「まつり」を行うことはごく自然なことで、事々しく「神道」の信仰があるからと云う程のものではない。

日本の風習として単純に受け入れて来たが、神社や寺院とは知らず知らずに深い縁を有してきたと改めて思わざるを得ない。
また、寺院と神社は、神仏習合の影響であまり厳密な区別なくお参りしてきた。
歴史的には、平安時代に「神仏習合儀礼」によって怨霊や疫神をしずめる御霊会(ごりょうえ)がはじめられた。
また、石清水(いわしみず)八幡宮(八幡信仰)、祇園社(八坂神社)、北野天満宮(天神信仰:天満宮)など、社僧が支配する宮寺(みやでら)制の神社があらわれ、霊山で修行活動をおこなう修験道が発達した。八世紀末には、神は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために、仮に神に姿を変えて現れたとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が発生し、のちの神仏習合理論の基礎となった。

ところが、明治維新直後に、明治新政府は王政復古によって神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を図るため、仏教の排斥運を展開するという愚挙を実行した。いわゆる廃仏棄釈運動として、仏像、仏具類の破壊活動を行い、古神道の精神に回帰することを主張した「復古神道」である。 

文化庁『宗教年鑑』によると、日本における宗教の信者数は、神道系が約一億六百万万人、仏教系が約九千六百万人、キリトト教系が約二百万人、その他約一千百万人とある。
合計すると、二億一千五百万人となり、日本の総人口の二倍弱の信者数になる。
神道系と仏教系だけで二億人を軽く超えるという。 

これは、国家神道や学校教育の年中行事の影響で、多くの日本人が七五三や初詣、あるいは季節の祭りを神社で行っている。
また江戸時代の寺請け制度の影響で、葬式や盆などを仏教式で行うなど、複数の宗教にまたがって儀礼に参加しているためである。
明治維新以前は神仏習合が一般的で、明治新政府の廃仏棄釈運動もすぐに中止されたから、寺院内に鳥居があったり、「八幡大菩薩」と神社の神を仏の呼び方で呼ぶ事例などに、名残を見る事ができる。
また現代の日本人には、宗教に対する帰属意識が薄く、宗教儀礼に参加しているにもかかわらず、自分のことを無宗教と考える日本人も多い。
このことは、幸いにも日本国内では宗教間の対立がないという結果をもたらしている。
すると、現在の日本の無宗教に近い信仰心は、世界平和にたいして貢献していると云えるかもしれない。

現在のイスラムでは、スンニ派とシーア派が激しい対立を示し、イラクやアフガンでは自国民に対するテロ攻撃まで発展している。
また、ユダヤ教徒のイスラエルと、イスラムのパレスチナ難民の間の、血なまぐさい抗争には未だ解決の糸口さえ見えていない。
割愛するが、歴史的にも、宗教間、宗派間での、凄まじい血の抗争が絶えなかった。

もっとも、これは宗教間の対立というより、富める者と貧しい者との戦いであり、権力を有するものと、虐げられた者との対立と言い換えた方が正確であろうか。