随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

阿波踊り ②

2012-08-14 15:32:22 | Weblog
 
 明治期に入って、阿波の盆踊りは、再び藍商人の財政援助により徳島全域で踊られるようになり、藩政時代にも増して繁栄していった。
そのご大正期のドイツの化学染料の輸入によって、藍商人が衰退した大正期以降は、阿波踊り盛り上げの大きな力になったのは、芸者たちであった。

 阿波の芸能風土の形成は、とくに三味線の普及を契機として、城下の商家などでは娘たちに三味線を習わせることが流行し、三味線の稽古所が続々と出現する。

少し弾けるようになると発表の場が欲しくなり、その場が盆踊りと「三味線流し」となった。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せて送り出し、自慢の種にしたという。こんな盆の市中を彩る、阿波独特の盆行事として定着していった。
 そのような多彩な盆踊りを演出したのが色街であり、色街の果たした役割や、阿波踊りを演出した機能が評価されている。

 


このころの情景を、明治期に徳島に住み、初めて外国に阿波踊りを伝えたといわれる、ポルトガルの文人のモラエスは、
「盆が近づくと、民衆は伝染病のような熱狂的ヒステリー症にかかります」
と、その著書『徳島の盆踊り』の中で書いている。

 

さて、「阿波踊り」の名称についてふれたい。

 「阿波踊り」の名称が初めて登場するのは、明治42(1909)年
『大阪朝日新聞』の阿波付録面で、「阿波踊」の見出しで、当時の様子や江戸時代の踊りについて触れている。

 『徳島毎日新聞』では、「徳島踊り」の名称を使った。
それまでの名称は、「阿波の盂蘭(うら)盆踊り」であった。

その熱狂的で一種特別な踊りぶりから、俗に「狂気(きちがい)踊り」などとも呼ばれてきた。
 しかし一般的には、本来の盆踊りの際には「阿波の盆踊り」または「盆踊り」が主として使われ、盆以外の踊りで「阿波踊り」という場合が多いようだ。

ともかく、徳島県としても観光資源にするべく「阿波踊り」と名称を統一し、阿波独特の伝統芸能として全国に紹介した。



新聞も昭和4年以来、毎年阿波踊り特集を組み、有名人が見物にやってくると、現在のように大きく取り上げた。
こうして阿波踊りは全国的に有名になり、昭和5年には女優の牧野智子ら一行がやってきて、踊りを背景に時代劇の映画撮影があった。
また、松竹楽劇部ではレビューに阿波踊りを取り入れ、東京、大阪など各都市で公演して紹介した。
 昭和8年7月には、徳島放送局(現在のNHK徳島)が開局し、毎年のように全国中継した。

 阿波踊り宣伝のために生まれたといわれる「徳島観光協会」は、昭和7年に新町川が見渡せる埋め立て地に審査場とともに、県外客のために、長さ百メートルにわたる特別見物席(桟敷)を作り、徳島駅前や中洲の休憩所と合わせて、計15人の接待娘を配置してお茶などの接待に当たった。

 審査場は昭和4年から設けられ、昭和11年には、全部で七カ所に拡大した。
 審査場ができてからは、踊り子たちは各審査場へ順番に繰り込み、乱舞を披露したという。
 しかし、その観光資源の「阿波踊り」も、戦争という非常事態で中断してしまった。


戦後すぐの昭和21年(1946)に占領軍の許可をえて、8月10日から13の三日間、阿波踊りが踊られて復活した。






 阿波っ子の、阿波踊りに対する思い入れが伝わってくる。
 そのときの『徳島新聞』には、

 「阿波踊り復活、何はなくとも明朗に」
 との見出しがつけられている。

 その後、阿波っ子の踊り熱は高まる一方で、自由な民衆娯楽として大きく開花していった。
 徳島県人会によって、東京の高円寺をはじめ、埼玉の南越谷、北海道各地などでも盆踊りとして「阿波踊り」が定着している。
 また現在は、毎年のように海外にも「阿波踊りの連」が遠征し、ユニークな踊りが披露され、阿波踊りは、
 日本を代表する盆踊りから「アワ・ダンス」として、世界に知られるようになっている。

 阿波人の陽気さと、情熱とその積極性に富む創意工夫が、今日の一大イベントとしての阿波踊りを隆盛に導いたといえる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿