白骨の道 「地を這う虫達の叫び」 ・ メール:kanran@i-next.ne.jp

私の寒蘭栽培と「炭鉱が閉山して崩壊した町」の回顧録
利権に慾る人間の生きざまを赤裸々に綴ります 77歳です

新抗口の真上から世知原町役場方面を望む、炭鉱全盛期の昭和30年頃・「街中県道の昔と今・その2」

2012-09-02 21:18:59 | 日記

撮影者の足の真下に新抗の抗口があります、松浦市の志佐川を越えて坑道が続いているそうです。左が、五十円コーナーの安楽食堂、自動販売機に五十円入れるとコップ一杯の二級酒が出る、一級酒は七分目程で止まる、仕事帰りに呑み仲間と寄ったものだ。右側が、炭鉱関連業の中川商店、その奥の方に世知原町役場や親和銀行や松月旅館があるので人通りが多く見える。当時の人口は一万三千人強で炭鉱人口が八千人とも言われていました。

平成24年9月2日佐世保市「世知原ロードレース」の風景です。昭和45年に炭鉱が閉山し現在人口3千5百人程だと言われますが、今日は日本各地から集まった走者で賑わいました。


子供が歩いている道路の真下に炭鉱の抗口がある (昭和30年頃)・「街中県道の昔と今・その1」

2012-09-02 21:14:32 | 日記

映画看板が貼ってある左の板塀の下(子供が歩いている県道の下)に飯野炭鉱の抗口があります、この坑道で松浦市の志佐川を越えて石炭が掘られていたそうです。昭和30年代の初め、私が世知原町役場に就職した頃の街中唯一の県道の様子です、この写真は右側の飯野信用組合の前から世知原町役場の方向を撮影したもので、西肥バスが来たので慌てて単車から降りて民家に逃げ込んでいます。

平成24年9月2日佐世保市「世知原ロードレース」の風景です

炭鉱閉山後の世知原町は完全に過疎化しています、夕暮れの街中は人影もなく車の音もありません、商店街は殆どシヤツターが降りています。現在街中に人が集まるのは年間に「宮日」と「ロードレース」だけです。