凡夫の日常(たんたんぴー日記)

たんたんぴー(キジョラン)は綿毛のついた種です。風に吹かれてどこに飛んでいくやら。淡々坦々にも通じる気持ちです。

白犬の店、ここは日本ですか

2016-07-24 | 日記
ケータイ(3台契約の内1台)が不具合になり代理店に行った。
まったくUSIMを認識しないのですが・・・。当社のUSIMに入れ替えてみましょう、ダメですね。本体もUSIMも壊れていますね。データは取り出せないという。店員は事後対応策1、2、3を提案すべきだがまったくない。黙っているだけ。どうなってんだ白犬の店は。客が白犬のサービス全容を知っていて店員にあーしろこうしろ指示できるわけないだろう。
契約解除に縛りはありますか?。〇〇さんは契約期間が長いので解約は何時でもできます。じゃ、使っている本人に解約する聞いて又来ます。翌日今度は別の携帯も不具合になりUSIMを認識しない。何だ立て続けに、何が起きたんだ。ちょっと混乱した。電池だって3年前に1個7000円のを3個取り変えたのに。混乱している客に店員の客の身に立ってのアドバイスがまったくない。どういうサービスがあるのか丁寧に説明すべきだろう。木で鼻を括るとはこのことだ。そのキャリアのサービスのパンフを見ていたら作動しなくなった機械から90%の確率でデータ復旧できますとある。そんなこと店員は一言も言っていない。客の問題解決するマニュアルがないのか?。店員は訓練されているのか?。客のパニックをいいことに新しい機械を売りつけたいのか。
それにしても日本ですかといいたい。懇切丁寧なのが日本の店だ。ガラケーの客は客じゃないのか年間5万円以上使ってんだぞ。全台解約し他に乗り換えた。二度と白犬の店には行かない。家を出た子供も白犬は使っていない。

馬鹿に説法

2016-07-23 | 日記
馬鹿はどうしようもない。馬鹿は自分を賢明だ正しいと思い込んでいる。他人の忠告や正しい声を聞くどころか差別だ偏見だと逆切れする。特に年寄りの。なに都知事選のことじゃないですよ。期日前投票に行かなくちゃ。

ヒグラシの初鳴きでなく初聞き

2016-07-19 | 日記
昨日近所の公園でヒグラシがカナカナと鳴いていた。ネットで調べると6月下旬から鳴いているそうだ。公園にはときどき散歩に行くが数日前は鳴いていなかった。川崎市のホームページでは梅雨明けのころヒグラシの鳴き声を聞いたという記録(たった1年のみ)がある。梅雨明けが近いのか、それとも実質梅雨が明けたのだろうか。天気予報ではまだ明けていないのだが。

タイの本田宗一郎

2016-07-13 | 日記
日本経済の私の履歴書欄にタイのCPグループのタニン・チャラワノン会長が取り上げられている。どういう人物かまったくわからなかったが華僑で親の代から農家の使う種の事業で中国(種の生産)とタイ(販売)を行き来ししていたが最初資本家優遇だった中国共産党の突然の翻意(資本家叩き、資産没収、身柄拘束)で共産党の魔手を逃れタイの事業を一族で拡大していった中心人物だ。(南シナ海の不法占有をみても中国は利益第一でやり口は無法かつ暴力的である)

事業が拡大すると一族経営では争い事が起き事業の存続に影響がでるという父親の考えに沿い経営から一族を排除(株主として処遇)を決断し、子弟も就職させないようにした。わずか30歳前のことだ。ホンダも大きくなるにつれ弟を解職し一族排除した。課長職以上の幹部職員の子弟はホンダに就職することはできないと聞いている。資本と経営を分離したのが日本を代表する企業に育った一つの理由なのだ。ホンダと並ぶ戦後企業で世界を代表する電機メーカーを凋落させたの創業者の娘婿だということがささやかれている。情実人事は社員のやる気を失わせ創造性が売りの企業を腐敗させた。この人物の問題は平凡なのにそうでないカリスマ(マスコミがおだてた。)だと思い込んだのが悲劇だ。一族でも優秀な経営者はいるが一族の中でそうそう人材はいない。

兄弟は他人の始まり
会長の父親は息子が結婚したら同居させず独立させた。理由は嫁が家族間のことに口出しし兄弟間の仲が悪くなることを恐れたためだ。中国人女性は口では男より強く自己主張が激しい。ことわざは生きている。

失われた故郷の海水浴場

2016-07-12 | 日記
現在も白砂青松100選になっている浜辺は家から歩いて10分で遊び場だった。大正時代に海水浴場として使われるようになったらしい。当時は今より遠浅で砂浜も広かった。母親によれば夏はアトラクションで競馬もやっていたという。いくつかの別荘があり山口誓子のもあった。中学校の校歌はその俳人の作である。
60年前でも遠浅で干潮時は幼稚園児もかなり沖まで歩いて行けた。水はきれいで砂浜から湧いて出る水を堰き止めダムを作って遊んだ。アサリやハマグリ、バカガイ、マテガイはたくさん採れた。なぜか地元の人は貝採りに熱心でなかった気がする。貝採り目的で海に行ったことは少ない。
海が賑わったのは昭和20~40年代である。日曜日は大阪や名古屋から大勢押し寄せた。砂浜が人で埋まったものである。昭和50年代中ごろに久しぶりに夏の海岸を訪れたら日本人は少なく、ブラジル人と中国人ばかりだった。バーベキューで煙モクモクで臭いがしたり大声出し大騒ぎ。海は汚れ昔の素敵な松の大木がならぶ防風林も半分以下になり砂浜も痩せた。その後行ったことはない。元にはもどらない。