アカペラな日々 - "Sakata Coro a Cappella" Since April 9, 2009

合唱団"Sakata Coro a Cappella"で指揮の傍ら作曲・編曲,たまに歌に励むOyaji。の活動&日常

毎年やって来る10月29日「昭和51年・酒田大火」の記憶,混声合唱曲 防災の歌「明日に生きる酒田」を編曲

2014年09月17日 | 音楽系(合唱,作曲・編曲など)
本来なら「蓄積された過去群」ジャンルの日記なのだが,私なりには音楽系に行きつくもので...

さて,今回,私が編曲したのは以下の曲,10/13(祝)の初めての「十曲コンサート」に書き下ろしたのだが,版元の酒田青年会議所からの要請で既に一度歌ったが...

酒田は本当に北西風強い街で,特に拓けた江戸時代あたりからでも,表のようにとんでもない回数の大火を経験してきた。もしも,J.バッハなら5回,L.ベートーヴェンなら6回も酒田の大火を経験したことに...
SATB instrumental 混声合唱曲 防災の歌「明日に生きる酒田」


昭和51年10月29日,私の父が亡くなった10ヶ月半後,夕刻に,全国初とも言われた洋画中心の映画館「グリーンハウス」から出火,鉄筋コンクリだった隣の大沼デパート酒田店でとまると思われたが,風速41m強と言われる例年より早い西風で,中心街である中町アーケードがトンネルのように作用し,消防も誰も成すすべなく市内東部の「新井田川」で防御するほかなかった。

素早く判断した者たちは重要な物だけを持って親類に避難したり,逆に避難を手伝ったりしていた。
判断遅いものは,自宅の屋根や壁に飛来する火の粉(というか塊)をバケツで消そうと抗ったりしていたが,土壇場になり諦め,手荷物だけで避難したそうだ。

参考までだが,私の妻の実家は「あと数十度」強風の方角が違っていれば,間違いなく消失したと思われる地域だ。
さらに,その母の実家は,焼けた火元やデパートから百mそこそこの距離であり,普通なら類焼してもおかしくないのだが,実際にはそうならず,あまりの強風がそこを守ってくれたというか,強風の「意のままに」焼けてしまったとも言えるだろう。

さて,初コンサートでこの曲を歌うこととしたのは,東日本大震災関連で,一人の少年を支援したい思いからったが,結果「酒田大火のことが忘れ去られている」という現実があったからなのだ。

酒田大火で1700戸も失われてから約二年で区画整理も決まり,この歌とともに市民全体で復興を実感した。
より大災害だった阪神淡路大震災でも,酒田の区画整理の話が参考に出された。
全ての住民がなけなしの土地を供出し合って,拡幅道路や公園・緑地のスペースを決めたからである。

そんな,人の良い地域,江戸時代には西回り航路の廻船問屋で賑わった酒田の人々も,こと大火に関しては記憶が薄れてしまっている。
動画に使用した写真の3/4枚目のモニュメントは「防災の塔『はばたき』」と言い,アーケードを突き抜けたすぐ先にあり,大火から復活して未来へはばたく象徴なのだが,本来は「明日に生きる酒田」のチャイムが大火発生定刻に流れていた(その奥の建物は「酒田市資料館であり,酒田大火について常設展示している」)
混声合唱曲 防災の歌「明日に生きる酒田」チャイム風verF Dur

ところが,日に一度流れるだけでも,役所やらへの「うるさい」「騒音」「迷惑」との声が多くなり,今は全く流れなくなった。大火発生の10/29ですら。

だから,私は歌おうとしているのである。