ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

おなじようなことをかいているね

2011-06-09 19:39:43 | Weblog
  “単元学習”ぎらい=遠山啓氏

 まだ“水道方式”を提唱されないことだったろう。遠山先生とわたくしたちは、“単元学習“ぎらいということで、いつも考えが一致していた。数学教育では、やお屋さんごっこ、さかな屋さんごっこがはやるし、国語教育では、話すこと・聞くこと・読むこと・書くことをゴチャマゼにしたような授業がはやる。それをたがいに困ったことだろうと考えていたのだった。
(中略)
 こうして遠山先生とわたくしは“単元学習”ぎらいで共鳴し、そのあと顔をあわせさえすれば、そのような話しあいをした。それからあとでは、“単元学習”批判のことにかぎらず、教育問題についての意見が一致するようにもなった。あのえらい先生に、いまとなってあやかるつもりで、こんなことを告白するのではないが、ときどき遠山先生から、わたくしは、“おなじようなことをかいてるね”といわれたりした。たがいに雑誌などに書くものが似ているというわけだった。
 くだって日教組から委託された教育制度検討委員会で、わたくしたちは教育内容面をよけいに担当したが、そのとき、わたくしは遠山先生の“総合学習”論をおおいに支持した。その“総合学習”論は、いわゆる合科教授とか生活科的学習などではなく、各教科学習での達成を生かして、ひとつのテーマに各せまらせようとするものだった。だからこれは中学校とか高等学校でのしごとということになる。おたがいの“単元学習”ぎらいは、やみくもにきらいなのではなく、はるかに教育的指導がすすんだときには、もっと別な意味でいかされる、できもしない幼少な子に総合的な勉強などさせるべきではない。こういうことであったのかもしれない。そういえば、遠山先生ほど、その思想・文化・教育にわたって、“総合学習”考察をした学者はまれなのかもしれぬと思う。(以下略)

 国分一太郎が、〈遠山啓氏追悼〉として『数学教室』(1980年3月)に書いた、その一部である。今。この文章を読んで、心を動かすのは、以下のような文章を書いたり話したりしているからかもしれない。


ーーあらためて国語教育の「領域」(構造)を考えるーー

 文学作品や説明的な文章を読むことのなかでことばのきまりの指導を行うだけでは、日本語の力が身につかないということの反省から、文法をとりたてて、時間をとって、一定の順序性に立って教えなければならないものとして「言語の体系的指導(日本語そのものの教育)」の柱を立てた。それと同時に、もう一つの柱としては「日本語をもちいてする諸活動」の教育を考えた。そして、この「言語活動」には「つづり方(作文)教育」「読み方教育」「話し言葉の指導」が含まれ、「言語の体系的な指導」のなかには、「文字」「言語」の指導が位置づけられた。
 そして、教科構造として「言語の教育」と「言語活動の教育」を基本構造として、それぞれの内容を明らかにしてその教育が進展するにつれて、両者が関連しあい結び合って教育の実をあげることを実践の上で明らかにした。
また、「言語活動の教育」の中においても、「つづり方教育」「読み方教育」(読み方教育においては、〈科学的説明文の読み、文学作品の読み〉、「音声言語」(である話しことばの指導)のそれぞれの特徴をとらえ、子どもの発達と意欲、そして、具体的な授業展開と、その目標達成について、きめこまかな配慮をして、実践を展開するように心がけてきた。
実用的で、社会に役立つ言語力を求める立場に立ち、「読むことから書く」というように、教科構造あるいは「内容」への配慮を欠いた「領域」を超えての、過度の「言語活動」の導入は、「国語科」にとっては、大きな問題である。また、「国語科」で学んだ言語の力が、他教科のなかで発揮する力とはなりえないのではないだろうか。
日本語教育の本質を問い直すこととあわせて、それぞれの領域で、めざすものは何か、どのような学習展開によって、それが可能になっているのかを明らかにしなくてはならない。

 えらいお二人の先生にあやかるつもりはないが、――「おなじことをかいているね」とは言われないまでも、――棒線の部分と重なることを、国語科・日本語の指導においてもいえるのではないかと、心配している。

  *「“単元学習”ぎらい=遠山啓氏」は『人のこと本のこと』〈国分一太郎文集8・新評論〉に収録されている。


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