ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

綴方理論研究会 5月例会のご案内

2017-05-23 16:59:10 | Weblog

「はじける芽」綴方理論研究会 5月例会のご案内

 

  日時 2017年5月27日(土)PM1時~5時 

 場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

          *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

                        

◇講義 「とつおいつ92」(乙部武志さん)

◇提案 「現代児童詩論~これからの児童詩~」

    ・どのように指導を続けてきたか  ・今後どのように指導を進めていくか

    *これまでの自分の実践、詩に対する考え方等を紹介し合い、児童詩指導の今後のあり方を話し合う。

 

*3月18日に配られた田中さんの資料『改題―(六)「日本の児童詩教育のはじまり』の中の「ひょうご・2016・こどもの詩と絵」~詩をえらぶときに心がけたこと~」の紹介が中心となると思います。ご持参ください。

 *年会費(5000円)を集めます。準備、ねがいます。初参加者は、無料。歓迎します。田中までご連絡ください。ご案内します。(090-9811-3888)

◆講義・「とつおいつ91」乙部武志さん)

 今回の話の中心は、長崎県の実践家、近藤益雄と国分一太郎の交流に関することでした。

(1)1954(昭和29)年、第三回作文教育全国協議会が秋田で開催されました。秋田といえば、成田忠久を祖とする「北方教育」の発祥の地。日本全国から2000名余が秋田に集結したようです。この時、参加者に配られた『童詩 新作曲』という小冊子の紹介がありました。「昭和8年7月 北方教育社編」となっており、それを秋田の教職員組合の人たちが、大会参加者へのプレゼントという意味合いを込めて、リプリントをして配布したもののようです。乙部先生によりますと、この小冊子、国分先生作詞の童詩もいくつか入っている中、近藤益雄作詞のものが5~6篇載っていて、数としては最も多いとのこと。この近藤益雄、童詩(詩)や短歌など、多数作った人らしく、一篇、『網あげ』という作品(近藤益雄作詞 大島郁太郎作曲)の紹介があり、乙部先生ご自身が、歌を披露してくださいました。

(2)乙部先生の話の中で、今回、大変面白いなと感じたのは、1930年・昭和5年~

1935年・昭和10年代、全国で活躍していた「綴方教師」たちを支えたものは、何だったのかということ。当時発行されていた雑誌、それへの投稿。そして、その投稿等を介しての文通や文集の交換であったということ。そのことを、『国分一太郎 抵抗としての綴方運動』(津田道夫、社会評論社)のP119~120の記述をもとに、説明がありました。

(3)近藤益雄の次男、「近藤原理」氏の名前は聞いて知っていましたが、ナゼ、「次男」なのか。次男というからには長男がいるわけだろうと思っていましたが、私、何と浅薄な本の読み方をしていたのか。乙部先生、『小学教師たちの有罪』からP1~2のコピーを資料として持参、説明がありました。「故近藤益雄さんの息子」である「近藤原理君」から「葉書」が届いていて、「あのひとの死」(砂田周蔵が死んだこと)を知ったという部分です。次のような内容が書かれています。

①「原理君は、1930年のはじめごろから、わたくしが、めっぽうに親しくしていた長崎県佐世保市の故近藤益雄さんの息子さんである。」(P1)

②「1945年長崎原爆投下のときには、当時師範学校生徒であった長兄耿君を、あの劫火にうばいとられている。」(P1)

③「戦後…精神薄弱児の教育にうちこんでいた益雄さんも、1941年ごろは、生活綴方のことで、長崎県警察部特高課の取り調べを受けている。それには、長崎県の五島列島から山形県の農村で小学教師をつとめるわたしへ、しきりに書いてよこした手紙のとじこみが、わたしが特高につかまったときに押収されたということが、ひとつの原因ともなっていることだろう。」(P2)

近藤益雄と国分一太郎。二人の間に、長く、深い付き合いがあったのだけれども、近藤益雄の息子、原理氏とも交流があったというところに深いつながりを感じますと話していました。

(4)永山絹枝さんの名前が挙がっていました。長崎作文の会の方で、近藤益雄のことを長く研究し続けている方です。この方から近藤益雄の追悼論文(第8回目)が届いているとの紹介がありました。その論文等もあり、次回の「とつおいつ」も、近藤益雄になる可能性がありますとのことでした。

(5)『生活綴方事件の再来を危惧する』という茨城の元教員の「投書」、小熊英二の「日本国憲法 改正されずにきた訳は」(朝日新聞・論壇時評)に関しての話もありましたが、割愛させていただきます。

 

報告:「日本の児童詩教育のはじまり(その2)」(田中定幸さん)

 1935年・昭和10年前後の全国の綴方教師たちが、詩の指導の実践交流をどのように行なっていたのか。今回は、『もんぺの弟』の実践を、国分一太郎が『綴方生活』、『工程』などの雑誌に作品や論文を提示して、互いに交流を深め合っていく様子を伝えてもらいました。乙部先生の今回の講義の中でも出てきていましたが、「雑誌」を通して、どのような交流を深めていたのか、簡単にですが洗い出してみました。

 1.国分一太郎「生活詩建設のために 尋3,4詩指導プラン」(『綴方生活』1935年・昭和10年4月)

 2.『綴方生活』1935年・昭和10年5月号に「作品研究課題」として「銭(ゼニ)」、

  「になない」、「ふしきり」等の作品を提出、指導を仰いでいる。

 3.国分一太郎「生活詩における野性の問題」(『工程』1935年・昭和10年6月号)

 4.近藤益雄「不備な答案 ―長い詩の存在理由に関する 」(『工程』1935年・昭和10年6月号)

 5.国分一太郎「生活培育を新組織せる文・詩指導系統案(3年)」(『工程』1935年・昭和10年7月号)

 6.『綴方生活』、1935年・昭和10年10月号。「児童詩の動向、検討・指標」という詩の特集として組まれており、以下のような論文が掲載。

  ①国分一太郎「生活詩の現在とその反省―指標に先だつもの」

  ②村山俊太郎「童詩教育の進むべき途」

  ③吉田瑞穂「詩への出発」

  ④稲村謙一「生活詩について」

  ⑤鈴木道太「生活詩の問題について」

 7.国分一太郎「『もんぺの弟』の経験」(わが文集を語る)(『工程』1935年・昭和10年12月号)

 

 児童詩教育(綴方教育)をどのように進めていくべきか、国分一太郎他多くの綴方教師たちが、この時期、切磋琢磨していく姿、その息吹のようなものを知ることができて、いい勉強になったと思います。

   (一部略)

 

                              (文責:工藤 哲)

 

 

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