「はじける芽」10号 2007.5.11
綴り方理論研究会
・東京都世田谷区代田6-19-2・代表乙部武志03・3468・0973
国分一太郎「教育」と「文学」研究会・会長田中定幸
■4月例会報告(司会:田中 記録:榎本)
◇講義 とつおいつ その5 「官」と「民」 ・・・乙部 武志
*印は、記録者が挿入。
◎1951年上京する。その頃、日赤講堂で国語教育会や全日本国語教育会などが開かれていた。主催者や発表者の顔ぶれを見ると「これは呉越同舟だ。」と4文字熟語がよぎった。それは、高野柔藏(東京都の教育庁の指導員)が、民側の寒川道夫を褒め称えるのを聞いたからかも知れないが、そう感じた。高野は、戦中北区滝野川の小学校の教師をし、実践が知れ渡っていた。一方寒川は、「山芋」が刊行されて間もない頃であった。大関松三郎を指導した優れた実践家としての寒川を知っていたのは、不思議ではない。しかし、「生活綴方と作文教育」(金子書房)の内容を読むと、すでに官と民の対立が間違いなく存在していた。当時は、今と違って、民の方が遙かに官より理論も実践も優れていたので、高野のすりよりという見方をしたのかも知れない。
◎田中定幸さんが、小沢勲から譲り受けた同書の目次のコピーをしたものを読むと、あの「エントツ」の小沢がまことに小沢らしい警句ともいえる辛辣な人物評を書き残している。判読のできない部分もあるがいくつか拾ってみよう。
・ま、今ようにいいますと、かっての○○惜しい 悪党が須賀中(*横須賀中のこと)から出たなんて
・チトアブナイ ・バカスケ ・人相ワルイ ・サッパリナー ・若い日はよかったね
・どうぞネー、ハアー 文部省視学官殿 ナニモ知リマセンナ ○○ナンテ・東北のツラヨゴシ ・リコースギテネ ・若きころにおかえりなさいませ
・先輩、原稿の売りこみお止めなさった らみんな笑って居ります
(*この小沢の一言を読むにつけ、彼のことを知る私も、小沢の鋭いまなざしに、感服する一人 である。晩年の小沢であったが、70年代の初めの頃であったが、全国大会の折に、詩の分科 会の世話人であった小沢が、提案者の岡本博文を褒めちぎる詩を、休憩時間に即席で書いた詩 を披露したことがある。あたたかい表現の中に、鋭い感性を秘めた詩をその場で聞き、恥ずか しそうであったが、うれしそうに聞きほれていた岡本も一昨年なくなった。)
誰のことかは、ここに記さないが、この人々の大部分が「反民」であろう。なかにはれっきとした当時の日本作文の会の常任委員もいる。
(*逆に言えば、当時の日本作文の会が、幅広く、官側も巻き込み、民の考えを広げていたと言 うことになる。現在の日本作文の会の常任委員会は、どうだろうか。どんな組織もそうだが、 様々な考えの者を巻き込む組織が、一番元気があり、大きなうねりを作っていけるのである。 私の周りには、かって常任委員であった人々が、大変心配もし、憂えている。かっての日教組 しかりだ。この考えの爪の垢でも 煎じて飲んでほしい人がいるのではないかと訴えたい。)
◎しかし、次の文章を読んでもらいたい。
この御氏名をよおっくおみつめなさいませ。
この御方は「生活綴り方」の源流なのでございます。
貴殿方、わが先輩と奉っておりますねん。ワカリマスカコノコト。
小沢イサオ
この人こそ、芦田恵之助のことである。
〔*芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生き た教育者。兵庫県出身。16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員 になって、教職のスタートをきる。その後1898年、上京して、東京高等師範付属小学校訓導、 樋口勘次郎に学び、、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校の助教諭に となり、ここで国語教育の実践を展開していく。
彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時 代、ドイツのハンブルグを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
(読み)に関しても(読むとは自己を読むもの)と主張し、実践を結晶させたいわゆる芦田 教式(七変化の教式とも呼ばれる)を創始。1925(大正14)以降は公職を辞し、全国教壇行脚を試み、この運動の中で雑誌「同志同行」を刊行した。「綴り方教授」 1913,「読み方教授」1916を刊行。小学校国語教育に多大な影響を与える。〕
指導書の一般的な過程
第1字・・・全文を読み学習計画を立てる。(感想を持ち読みの目当てを考える。)
第2字・・・目当てに沿って、場面ごとに読みを深める。
第3字・・・話し合って主題に迫る。
(読後の感想を話し合う。登場人物の気持ちをより深く理解する。)
芦田恵之助「七変化の教式」
一 読む 二 話し合い(またはとく) 三 読む(師)…15分
四 書く…10分
五 読む
六 とく
七 読む …15分
一 読む・・・・教材を子供に二,三回音読させる(教師・優秀児の読みを受け手の順読みの場 合もある)。
二 話し合い・・何が書いてあり、作者のねらいはここのようだ(学習の方向づけ)。
三 読む・・・・教師の模範の読み(途中に感想をはさむ=着後)
四 書く・・・・黒板の上部に横線を引き、文章の節ごとに短い線で区切る。節の重要語句や文 を抜き出し、読み上げながら、ていねいに板書する。子供たちは、聞きながら ノートする。
五 読む・・・・板書を子供たちが読む。初めに教師がムチで指して黙読させる。次に一斉に音 読させる。
六 とく・・・・話し合いで問題をとらえ、問答と助言・説明でまとめる。
七 読む・・・・学習をまとめる音読(なるべく多くの子に読ませる)。
この理論は、「恵雨会」として、現在でも続いている会である。1963~4年頃杉並区の第6か7の小学校で授業研究会がよく開かれた。古田ひろむ(古田足日の父上)などが率先してこの7変化方式で授業をしていた。児童中心主義で、教室といわず、「学習室」などといっていた。
*垣内松三が『国語の力』という書物を著したのは1922(大正11)年のことである。
読み方(解釈)綴り方(作文)文法(修辞学をも加えて)が相互に協力して、文化の表現の 作用を常に指示するものであるならば、「国語」の学習又は教授は、人の心を目覚ませ、その 活動を促す力となるであろう。
もっと具体的には、「表現の経験に苦しんだ人の読み方は、読み方の上にそうした経験の無 い人よりも、深い視方が現れて来なければならぬ。又読み方について考えた人は、綴り方の上 に自ら合法的な表現を求むることであろう。」という。ただ、ここにいう「表現の経験に苦し む」苦しみ方、「深い視方」「合法的な表現」などは、「文化の表現の作用を常に指示するもの である」という点において根本的であり、意識は高い。・・・以上垣内の紹介記録で追加。
ここで、別の視点から「生活綴り方」批判にも目を向けてみよう。
1、志波末吉 今学習中の書籍で唯一はっきりと表題に掲げている。
2、60年代に吹き荒れた数教協を初めとしたいくつかの教育団体の批判。
3、清水幾多郎の「文章の書き方」での批判。
4、木下是雄の「理科系の作文技術」での批判。
5、由良君美 (東京大学教授)の批判。
このほかにも、民間教育団体の中の「国語教育」関係からも批判は絶えない。これらについても学習を続けていかなければならない。言うまでもなく、耳を傾けるべきは傾け、学ぶべきは学ばなくてはならない。
なにが「官」でなにが「民」か。
最後のまとめで、神野直彦(東大経済学部教授)の「犬禁止・ネコ容認は大学の精神」
要約すれば、【「犬禁止・猫容認」の原則は、疑い深い猫に比べて、主人の言いつけに従順にひたすら従う犬は、大学の精神に反するからだという。大学に身を置く知識人は、権力の犬に堕落してはならず、真理にの身に忠実でなければならない。大学は今、富と権力の前に、「冬の時代」を迎えようとしている。先陣の志を受け継ぎ、断じて「犬にはならない」と決意している。〕
読売新聞 夕刊 05年10/26〔水〕
*過日浦和駅ホームで偶然彼にあった。短い会話であったが、今の東大の中でかなり有名になり専門性を追求している学者仲間が、権力に迎合してしまっている事実を揶揄していた。専門性は、危険である。体制の側にいる方が、遙かに楽であるのは、昔も今も同じだ。「金・地位・世間体・名誉その他」教育界は、校長の権限を強めたので、勘違いして「自分だけが正しい」と哲学も教育実践もないのに、小役人校長がぞろぞろ出てきた。それに反論する教師は、絶滅品種になってきた組合員教師が、何人か残っているところのみで、波、風が立っているぐらいである。昨年度から開示請求ができた。校長に反対の考えを表明しただけで、総合評定がCになっている仲間が何人かいる。それほど仕事もしなくても、イエスマンが、総合評定Aとなっている。管理職試験を目指しているものは、すべて高い評定をつけていると言ってもよい。なぜなら、それが校長自身の学校経営評価につながるからである。
*乙部さんも書いている「小泉純一郎は郵政民営化にこだわった。石原慎太郎は、公・官の凶器を使って、教育界に弾圧をほしいままにしている。」その結果、自民党は圧倒的に勝利した現在、何でもありで、国会を私物化している。
*半年前に政府税制調査会の本間会長(大阪大大学院教授)は、都内の公務員宿舎に妻以外の女性と同居していた問題の責任を取り、会長職を辞任することになった。安倍首相の肝いりで会長に起用した本間氏が辞任に追い込まれたことで、政権にとって打撃だった。そのあとは誰がなるかと関心があった。小泉行革・安部政権にも徹底して反論していた神野君が、なるかなとかすかな期待を持っていたが、彼の東大の後輩がなった。「かすかな期待がありましたが、やはりなりませんでしたね。」と今年の年賀状に書いた。
*微熱があるのに、この会があると、健康もそれにあわせて、毅然とされる。中身の濃いお話をされる乙部さんに、会員一同感服している。特に記憶力の正確さ、たくさんの貴重な資料に裏付けられたお話であった。
《提案》「「海のアルバム」作りを通して、経験したことや感じたことをよく思い出して、順序よくそのときの様子がわかるように表現できる子供に育てる作文指導ー2年生ー
2006年度日教組全国教研レポート
千葉 佐藤 香織
この会に出席するようになって、2度目である。日教組全国教研に千葉代表で出席し、そこで田中さんから誘われて、この会を知るようになった。千葉県の館山から特急の電車や直通バスなどを乗り継いで来られるだけで、頭が下がる。国分先生が健在であった頃は、千葉からの出席者は、結構おられた。最近まで時々顔を見せてくれた亡くなった武田和夫さん。今でも会員だが、このところご無沙汰の日色さん。県教組の委員長だった大池さん。木村さんもいい文集を作っておられた。萩原さんも最初の頃は、何回か出席されていた。そういう意味で、久々の千葉からの期待の人である。レポートに沿って、提案の内容を簡単に紹介したい。
Ⅰ、作文教育について
1、作文の持つ力
2、安房のの作文教育の歴史の中で確認されたことと課題
①作文教育が人間教育の場であり、表現力の育成は人間形成につながる。特に、人間・自 然・社会に目を向けさせることが大切である。
②意欲付け、表現力の育成の上で、継続的な一枚文集の発行が有効である。
③年間指導計画を作成し、毎日作文指導を継続的に行うことが大切である。
④日常の耕し、意欲の喚起、取材・題材化ー構想・構成ー記述ー推敲ー鑑賞・批評の指導 段階による指導が定着してきた。
⑤特に入門期の指導では、話をたくさんさせて意欲付けをし、絵を描かせ、お話をさせ、 文字が書けるようになった段階で絵に描いていき、次第に文を中心とした表現活動に慣れ させる指導が大切である。
⑥中・高学年では、構成学習で、カード(付箋紙)を用いることが有効である。
その中で、今、課題として2点が挙げられるだろう。
①1単元のあるいは、1時間の作文の授業をどう組み立てて、実践化していくか。
②今、なにを書かせ(題材)、どのように表現力をつけさせるか。
本レポートは、この視点に立って、この課題に迫るためのものである。
Ⅱ、Ⅲ省略
Ⅳ 教科書教材「海のアルバム」作り
仮説1 過ぎてしまったことは忘れてしまうが、写真やビデオを手がかりに話し合えば、詳 しく思い出して書けるのではないだろうか。
仮説2 苦手な児童は、どのように書いていくのかがわからなかった。順序よくわかりやす く表現する方法を学ばせることである。
Ⅴ、省略
Ⅵ、成果と課題
仮説1について
・「海のアルバム」を作ろうという目的意識を持たせたことが、意欲を高めた。
・貝拾いや生物を捕まえる活動を一生懸命やったことが書く意欲につながった。
・共通体験をすることで、話し合いの場面では感動したことを思い起こすことが容易であり、ま た書く意欲にもつながった。長時間にわたる「海のアルバム」作りだったが、いやがる子供は、 全く存在しなかった。また、休み時間になっても書き続ける子供が数名いた。
・参考作品に児童作文を利用することで、児童作文と同じ体験をしたいと思った子供が多数存在 し、「早く海遊びをして作文を書きたい。」という意欲を感じた。
・ビデオを利用することで、4日前のことでもその時の様子を鮮明に思い出すことができた。ビ デオを見てからの話し合いでは、1人の子供の発言からほかの子供の思考が刺激され、再体験 した気持ちになったことから、子供の発言も思い出しに有効であることがわかった。
・思い出しを大切にすることで、書く意欲が高まった。
仮説2について
・表現の繰り返し練習させることで、表現の技術が高まってきている。
・原稿用紙の形式や色の工夫、マークの活用などが、わかりやすい表現につながった。
・参考作品で様子を詳しく書く方法を学ばせることによって、表現が向上した。
課題
・ビデオの視聴の時間を考えなければならない。言葉で思い出すことも大切である。
クラスの子供の書いた作品を使用した最初の参考作品
めすのだんご虫
きょう、生活をやりました。私は、だんご虫を見つけました。見つけたとき、
「大きいな。」
と言いました。
だんご虫の形は、たてで長くて、ほそ長い丸いかたちでした。色は、黒でした。もようは、よこのせんが、いっぱいありました。大きさは、1センチメートルありました。すごい大きいなあと思いました。せなかが、黄色かったから、めすだと思いました。
だんご虫を手の上にのせたら、わたしの手のひらを、ぐるぐるまわっていました。くすぐったかったです。わたしは、このだんご虫は、元気がいいなあと思いました。
そのあとで、おすのだんご虫を見つけました。大きさは、五ミリメートルだったから、めすのだんご虫の方が、大きいと思いました。
様子がわかるように順序よく書けた作品 「海のアルバム」
かにとハゼと島田先生にもらったウニ
2年
七月十日、おきのしまに行きました。
いそあそび
さいしょに、カニをつかまえました。しおだまりに、いっぱいいました。小さいカニは、手でつかまえられるけど、大きいカニは、あみでつかまえました。大きいハゼや小さいハゼが、いっぱいいました。小さいハゼは、六ぴきぐらいつかまえました。大きいハゼは、つかまえられませんでした。大きいハゼは、うごきがはやいから、つかまえられませんでした。だれかが、
「ヘンなゴキブリみたいな虫がいる。」と言っていました。ぼくが、
「それ、ふな虫だよ。」
と言いました。なみの音が、シューザザーンとしました。つぎにだれかが、
「カニがフナ虫おさえてる。」
と言っていました。見てみたら、ほんとうにおさえていました。ぼくが、ちかづいたらカニがはなしました。フナ虫のせなかに、みそみたいのが出ていました。かいそうやしおのにおいがしました。かにをつっついたら、はさまれそうになりました。はさまれたら、いたいと思います。なんでいたいのでしょう。だれかが、
「島田先生のところに、ウニがいっぱいいる。」
と言いました。だから、行ってみました。そして、ぼくはみました。でも、見つかりませんでした。そうしたら、しま田先生が、ぼくに、
「ウニもってる。」
と言いました。だから、ぼくは、
「もってない。」
と言いました。そうしたら、しま田先生が、
「あげるよ。」
と言いました。ぼくは、
「ありがとう。」
と言いました。ウニは、はがれませんでした・
貝がらひろい
けいこ先生が、
「貝ひろってる。」
と言って、ふえをピーとふきました。そして、けいこ先生が、大きな声で、
「貝ひろいなさい。」
と言いました。それで、貝をいっぱいひろいました。とちゅうからお母さんとひろいました。さいしょより、貝がいっぱいになりました。ビーチクラスはなかったけど、おうちに二こあるからいいと思いました。
なぜかウニがはがれていた
お母さんに、ウニをバケツに入れてもらっていたら、ウニがはがれていました。においをかんだら、くさかったです。ウニがくっついていた時は、はりが下をむいていました。そして、ハリがたくさんおれていました。ハリの中を見たら、白かったです。お家にかえって、夜お父さんがウニを食べて、
「おいしい。」
と言っていました。
討議
・教科書から「ひとまとまりの文章を書かせる」単元がほとんどなくなり、生活科・総合学習
を意識した単元が増えている中での実践なので、完成した作品もその制約を免れない。
・ビデオを撮影したとのことであるが、その場面を同じ体験している子供たちはいない。教師の 目を通しての場面の切り取りである。少しは参考になるであろうが、子供たちの感動の仕方は 様々である。
・「心のアルバム」作りであるので、様々な場面を切り取り、それほど感動していなくても、そ れに加えなくては「アルバム」らしくならない制約がある。
・一番感動したことをていねいに表現していると、この単元のねらいからそれてしまう。
・低学年の頃の作文は、まだ制約がないので、のびのびとした作品が多いが、学年が進むにつれ て、情報化にそくした作文が多くなってくる。
・文章を書かせる大切なことは、感動したことの場面を切り取り、そのとき五官をよく使ってみ たことを思い出してていねいに書いていくことに値打ちがある。
・「よく目を使って書きましょう。」「耳を使って書きましょう。」と指導する教師がいるが、それ は間違いである。(*国分一太郎は、おもしろおかしくその間違いを指摘していた。)
・作文の教科書教材が減り、情報化作文が広がっている中で、何とか作文への道を工夫しながら 実践されていることに敬意を表したい。
我が会は、辛口の会員が多い。さらなる飛躍に期待したい。
5月例会 5月26日(土) 午後2時より
◇提案 「学校ぐるみの作文研修を、どのように発展してきたか」(仮題)
提案者 貝田久さん(川口市立前川小学校)
◇講義・乙部武志さん とつおいつ6 系統案指導その2
◇司会 左川紀子さん
◇記録 田中定幸さん
綴り方理論研究会
・東京都世田谷区代田6-19-2・代表乙部武志03・3468・0973
国分一太郎「教育」と「文学」研究会・会長田中定幸
■4月例会報告(司会:田中 記録:榎本)
◇講義 とつおいつ その5 「官」と「民」 ・・・乙部 武志
*印は、記録者が挿入。
◎1951年上京する。その頃、日赤講堂で国語教育会や全日本国語教育会などが開かれていた。主催者や発表者の顔ぶれを見ると「これは呉越同舟だ。」と4文字熟語がよぎった。それは、高野柔藏(東京都の教育庁の指導員)が、民側の寒川道夫を褒め称えるのを聞いたからかも知れないが、そう感じた。高野は、戦中北区滝野川の小学校の教師をし、実践が知れ渡っていた。一方寒川は、「山芋」が刊行されて間もない頃であった。大関松三郎を指導した優れた実践家としての寒川を知っていたのは、不思議ではない。しかし、「生活綴方と作文教育」(金子書房)の内容を読むと、すでに官と民の対立が間違いなく存在していた。当時は、今と違って、民の方が遙かに官より理論も実践も優れていたので、高野のすりよりという見方をしたのかも知れない。
◎田中定幸さんが、小沢勲から譲り受けた同書の目次のコピーをしたものを読むと、あの「エントツ」の小沢がまことに小沢らしい警句ともいえる辛辣な人物評を書き残している。判読のできない部分もあるがいくつか拾ってみよう。
・ま、今ようにいいますと、かっての○○惜しい 悪党が須賀中(*横須賀中のこと)から出たなんて
・チトアブナイ ・バカスケ ・人相ワルイ ・サッパリナー ・若い日はよかったね
・どうぞネー、ハアー 文部省視学官殿 ナニモ知リマセンナ ○○ナンテ・東北のツラヨゴシ ・リコースギテネ ・若きころにおかえりなさいませ
・先輩、原稿の売りこみお止めなさった らみんな笑って居ります
(*この小沢の一言を読むにつけ、彼のことを知る私も、小沢の鋭いまなざしに、感服する一人 である。晩年の小沢であったが、70年代の初めの頃であったが、全国大会の折に、詩の分科 会の世話人であった小沢が、提案者の岡本博文を褒めちぎる詩を、休憩時間に即席で書いた詩 を披露したことがある。あたたかい表現の中に、鋭い感性を秘めた詩をその場で聞き、恥ずか しそうであったが、うれしそうに聞きほれていた岡本も一昨年なくなった。)
誰のことかは、ここに記さないが、この人々の大部分が「反民」であろう。なかにはれっきとした当時の日本作文の会の常任委員もいる。
(*逆に言えば、当時の日本作文の会が、幅広く、官側も巻き込み、民の考えを広げていたと言 うことになる。現在の日本作文の会の常任委員会は、どうだろうか。どんな組織もそうだが、 様々な考えの者を巻き込む組織が、一番元気があり、大きなうねりを作っていけるのである。 私の周りには、かって常任委員であった人々が、大変心配もし、憂えている。かっての日教組 しかりだ。この考えの爪の垢でも 煎じて飲んでほしい人がいるのではないかと訴えたい。)
◎しかし、次の文章を読んでもらいたい。
この御氏名をよおっくおみつめなさいませ。
この御方は「生活綴り方」の源流なのでございます。
貴殿方、わが先輩と奉っておりますねん。ワカリマスカコノコト。
小沢イサオ
この人こそ、芦田恵之助のことである。
〔*芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生き た教育者。兵庫県出身。16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員 になって、教職のスタートをきる。その後1898年、上京して、東京高等師範付属小学校訓導、 樋口勘次郎に学び、、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校の助教諭に となり、ここで国語教育の実践を展開していく。
彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時 代、ドイツのハンブルグを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
(読み)に関しても(読むとは自己を読むもの)と主張し、実践を結晶させたいわゆる芦田 教式(七変化の教式とも呼ばれる)を創始。1925(大正14)以降は公職を辞し、全国教壇行脚を試み、この運動の中で雑誌「同志同行」を刊行した。「綴り方教授」 1913,「読み方教授」1916を刊行。小学校国語教育に多大な影響を与える。〕
指導書の一般的な過程
第1字・・・全文を読み学習計画を立てる。(感想を持ち読みの目当てを考える。)
第2字・・・目当てに沿って、場面ごとに読みを深める。
第3字・・・話し合って主題に迫る。
(読後の感想を話し合う。登場人物の気持ちをより深く理解する。)
芦田恵之助「七変化の教式」
一 読む 二 話し合い(またはとく) 三 読む(師)…15分
四 書く…10分
五 読む
六 とく
七 読む …15分
一 読む・・・・教材を子供に二,三回音読させる(教師・優秀児の読みを受け手の順読みの場 合もある)。
二 話し合い・・何が書いてあり、作者のねらいはここのようだ(学習の方向づけ)。
三 読む・・・・教師の模範の読み(途中に感想をはさむ=着後)
四 書く・・・・黒板の上部に横線を引き、文章の節ごとに短い線で区切る。節の重要語句や文 を抜き出し、読み上げながら、ていねいに板書する。子供たちは、聞きながら ノートする。
五 読む・・・・板書を子供たちが読む。初めに教師がムチで指して黙読させる。次に一斉に音 読させる。
六 とく・・・・話し合いで問題をとらえ、問答と助言・説明でまとめる。
七 読む・・・・学習をまとめる音読(なるべく多くの子に読ませる)。
この理論は、「恵雨会」として、現在でも続いている会である。1963~4年頃杉並区の第6か7の小学校で授業研究会がよく開かれた。古田ひろむ(古田足日の父上)などが率先してこの7変化方式で授業をしていた。児童中心主義で、教室といわず、「学習室」などといっていた。
*垣内松三が『国語の力』という書物を著したのは1922(大正11)年のことである。
読み方(解釈)綴り方(作文)文法(修辞学をも加えて)が相互に協力して、文化の表現の 作用を常に指示するものであるならば、「国語」の学習又は教授は、人の心を目覚ませ、その 活動を促す力となるであろう。
もっと具体的には、「表現の経験に苦しんだ人の読み方は、読み方の上にそうした経験の無 い人よりも、深い視方が現れて来なければならぬ。又読み方について考えた人は、綴り方の上 に自ら合法的な表現を求むることであろう。」という。ただ、ここにいう「表現の経験に苦し む」苦しみ方、「深い視方」「合法的な表現」などは、「文化の表現の作用を常に指示するもの である」という点において根本的であり、意識は高い。・・・以上垣内の紹介記録で追加。
ここで、別の視点から「生活綴り方」批判にも目を向けてみよう。
1、志波末吉 今学習中の書籍で唯一はっきりと表題に掲げている。
2、60年代に吹き荒れた数教協を初めとしたいくつかの教育団体の批判。
3、清水幾多郎の「文章の書き方」での批判。
4、木下是雄の「理科系の作文技術」での批判。
5、由良君美 (東京大学教授)の批判。
このほかにも、民間教育団体の中の「国語教育」関係からも批判は絶えない。これらについても学習を続けていかなければならない。言うまでもなく、耳を傾けるべきは傾け、学ぶべきは学ばなくてはならない。
なにが「官」でなにが「民」か。
最後のまとめで、神野直彦(東大経済学部教授)の「犬禁止・ネコ容認は大学の精神」
要約すれば、【「犬禁止・猫容認」の原則は、疑い深い猫に比べて、主人の言いつけに従順にひたすら従う犬は、大学の精神に反するからだという。大学に身を置く知識人は、権力の犬に堕落してはならず、真理にの身に忠実でなければならない。大学は今、富と権力の前に、「冬の時代」を迎えようとしている。先陣の志を受け継ぎ、断じて「犬にはならない」と決意している。〕
読売新聞 夕刊 05年10/26〔水〕
*過日浦和駅ホームで偶然彼にあった。短い会話であったが、今の東大の中でかなり有名になり専門性を追求している学者仲間が、権力に迎合してしまっている事実を揶揄していた。専門性は、危険である。体制の側にいる方が、遙かに楽であるのは、昔も今も同じだ。「金・地位・世間体・名誉その他」教育界は、校長の権限を強めたので、勘違いして「自分だけが正しい」と哲学も教育実践もないのに、小役人校長がぞろぞろ出てきた。それに反論する教師は、絶滅品種になってきた組合員教師が、何人か残っているところのみで、波、風が立っているぐらいである。昨年度から開示請求ができた。校長に反対の考えを表明しただけで、総合評定がCになっている仲間が何人かいる。それほど仕事もしなくても、イエスマンが、総合評定Aとなっている。管理職試験を目指しているものは、すべて高い評定をつけていると言ってもよい。なぜなら、それが校長自身の学校経営評価につながるからである。
*乙部さんも書いている「小泉純一郎は郵政民営化にこだわった。石原慎太郎は、公・官の凶器を使って、教育界に弾圧をほしいままにしている。」その結果、自民党は圧倒的に勝利した現在、何でもありで、国会を私物化している。
*半年前に政府税制調査会の本間会長(大阪大大学院教授)は、都内の公務員宿舎に妻以外の女性と同居していた問題の責任を取り、会長職を辞任することになった。安倍首相の肝いりで会長に起用した本間氏が辞任に追い込まれたことで、政権にとって打撃だった。そのあとは誰がなるかと関心があった。小泉行革・安部政権にも徹底して反論していた神野君が、なるかなとかすかな期待を持っていたが、彼の東大の後輩がなった。「かすかな期待がありましたが、やはりなりませんでしたね。」と今年の年賀状に書いた。
*微熱があるのに、この会があると、健康もそれにあわせて、毅然とされる。中身の濃いお話をされる乙部さんに、会員一同感服している。特に記憶力の正確さ、たくさんの貴重な資料に裏付けられたお話であった。
《提案》「「海のアルバム」作りを通して、経験したことや感じたことをよく思い出して、順序よくそのときの様子がわかるように表現できる子供に育てる作文指導ー2年生ー
2006年度日教組全国教研レポート
千葉 佐藤 香織
この会に出席するようになって、2度目である。日教組全国教研に千葉代表で出席し、そこで田中さんから誘われて、この会を知るようになった。千葉県の館山から特急の電車や直通バスなどを乗り継いで来られるだけで、頭が下がる。国分先生が健在であった頃は、千葉からの出席者は、結構おられた。最近まで時々顔を見せてくれた亡くなった武田和夫さん。今でも会員だが、このところご無沙汰の日色さん。県教組の委員長だった大池さん。木村さんもいい文集を作っておられた。萩原さんも最初の頃は、何回か出席されていた。そういう意味で、久々の千葉からの期待の人である。レポートに沿って、提案の内容を簡単に紹介したい。
Ⅰ、作文教育について
1、作文の持つ力
2、安房のの作文教育の歴史の中で確認されたことと課題
①作文教育が人間教育の場であり、表現力の育成は人間形成につながる。特に、人間・自 然・社会に目を向けさせることが大切である。
②意欲付け、表現力の育成の上で、継続的な一枚文集の発行が有効である。
③年間指導計画を作成し、毎日作文指導を継続的に行うことが大切である。
④日常の耕し、意欲の喚起、取材・題材化ー構想・構成ー記述ー推敲ー鑑賞・批評の指導 段階による指導が定着してきた。
⑤特に入門期の指導では、話をたくさんさせて意欲付けをし、絵を描かせ、お話をさせ、 文字が書けるようになった段階で絵に描いていき、次第に文を中心とした表現活動に慣れ させる指導が大切である。
⑥中・高学年では、構成学習で、カード(付箋紙)を用いることが有効である。
その中で、今、課題として2点が挙げられるだろう。
①1単元のあるいは、1時間の作文の授業をどう組み立てて、実践化していくか。
②今、なにを書かせ(題材)、どのように表現力をつけさせるか。
本レポートは、この視点に立って、この課題に迫るためのものである。
Ⅱ、Ⅲ省略
Ⅳ 教科書教材「海のアルバム」作り
仮説1 過ぎてしまったことは忘れてしまうが、写真やビデオを手がかりに話し合えば、詳 しく思い出して書けるのではないだろうか。
仮説2 苦手な児童は、どのように書いていくのかがわからなかった。順序よくわかりやす く表現する方法を学ばせることである。
Ⅴ、省略
Ⅵ、成果と課題
仮説1について
・「海のアルバム」を作ろうという目的意識を持たせたことが、意欲を高めた。
・貝拾いや生物を捕まえる活動を一生懸命やったことが書く意欲につながった。
・共通体験をすることで、話し合いの場面では感動したことを思い起こすことが容易であり、ま た書く意欲にもつながった。長時間にわたる「海のアルバム」作りだったが、いやがる子供は、 全く存在しなかった。また、休み時間になっても書き続ける子供が数名いた。
・参考作品に児童作文を利用することで、児童作文と同じ体験をしたいと思った子供が多数存在 し、「早く海遊びをして作文を書きたい。」という意欲を感じた。
・ビデオを利用することで、4日前のことでもその時の様子を鮮明に思い出すことができた。ビ デオを見てからの話し合いでは、1人の子供の発言からほかの子供の思考が刺激され、再体験 した気持ちになったことから、子供の発言も思い出しに有効であることがわかった。
・思い出しを大切にすることで、書く意欲が高まった。
仮説2について
・表現の繰り返し練習させることで、表現の技術が高まってきている。
・原稿用紙の形式や色の工夫、マークの活用などが、わかりやすい表現につながった。
・参考作品で様子を詳しく書く方法を学ばせることによって、表現が向上した。
課題
・ビデオの視聴の時間を考えなければならない。言葉で思い出すことも大切である。
クラスの子供の書いた作品を使用した最初の参考作品
めすのだんご虫
きょう、生活をやりました。私は、だんご虫を見つけました。見つけたとき、
「大きいな。」
と言いました。
だんご虫の形は、たてで長くて、ほそ長い丸いかたちでした。色は、黒でした。もようは、よこのせんが、いっぱいありました。大きさは、1センチメートルありました。すごい大きいなあと思いました。せなかが、黄色かったから、めすだと思いました。
だんご虫を手の上にのせたら、わたしの手のひらを、ぐるぐるまわっていました。くすぐったかったです。わたしは、このだんご虫は、元気がいいなあと思いました。
そのあとで、おすのだんご虫を見つけました。大きさは、五ミリメートルだったから、めすのだんご虫の方が、大きいと思いました。
様子がわかるように順序よく書けた作品 「海のアルバム」
かにとハゼと島田先生にもらったウニ
2年
七月十日、おきのしまに行きました。
いそあそび
さいしょに、カニをつかまえました。しおだまりに、いっぱいいました。小さいカニは、手でつかまえられるけど、大きいカニは、あみでつかまえました。大きいハゼや小さいハゼが、いっぱいいました。小さいハゼは、六ぴきぐらいつかまえました。大きいハゼは、つかまえられませんでした。大きいハゼは、うごきがはやいから、つかまえられませんでした。だれかが、
「ヘンなゴキブリみたいな虫がいる。」と言っていました。ぼくが、
「それ、ふな虫だよ。」
と言いました。なみの音が、シューザザーンとしました。つぎにだれかが、
「カニがフナ虫おさえてる。」
と言っていました。見てみたら、ほんとうにおさえていました。ぼくが、ちかづいたらカニがはなしました。フナ虫のせなかに、みそみたいのが出ていました。かいそうやしおのにおいがしました。かにをつっついたら、はさまれそうになりました。はさまれたら、いたいと思います。なんでいたいのでしょう。だれかが、
「島田先生のところに、ウニがいっぱいいる。」
と言いました。だから、行ってみました。そして、ぼくはみました。でも、見つかりませんでした。そうしたら、しま田先生が、ぼくに、
「ウニもってる。」
と言いました。だから、ぼくは、
「もってない。」
と言いました。そうしたら、しま田先生が、
「あげるよ。」
と言いました。ぼくは、
「ありがとう。」
と言いました。ウニは、はがれませんでした・
貝がらひろい
けいこ先生が、
「貝ひろってる。」
と言って、ふえをピーとふきました。そして、けいこ先生が、大きな声で、
「貝ひろいなさい。」
と言いました。それで、貝をいっぱいひろいました。とちゅうからお母さんとひろいました。さいしょより、貝がいっぱいになりました。ビーチクラスはなかったけど、おうちに二こあるからいいと思いました。
なぜかウニがはがれていた
お母さんに、ウニをバケツに入れてもらっていたら、ウニがはがれていました。においをかんだら、くさかったです。ウニがくっついていた時は、はりが下をむいていました。そして、ハリがたくさんおれていました。ハリの中を見たら、白かったです。お家にかえって、夜お父さんがウニを食べて、
「おいしい。」
と言っていました。
討議
・教科書から「ひとまとまりの文章を書かせる」単元がほとんどなくなり、生活科・総合学習
を意識した単元が増えている中での実践なので、完成した作品もその制約を免れない。
・ビデオを撮影したとのことであるが、その場面を同じ体験している子供たちはいない。教師の 目を通しての場面の切り取りである。少しは参考になるであろうが、子供たちの感動の仕方は 様々である。
・「心のアルバム」作りであるので、様々な場面を切り取り、それほど感動していなくても、そ れに加えなくては「アルバム」らしくならない制約がある。
・一番感動したことをていねいに表現していると、この単元のねらいからそれてしまう。
・低学年の頃の作文は、まだ制約がないので、のびのびとした作品が多いが、学年が進むにつれ て、情報化にそくした作文が多くなってくる。
・文章を書かせる大切なことは、感動したことの場面を切り取り、そのとき五官をよく使ってみ たことを思い出してていねいに書いていくことに値打ちがある。
・「よく目を使って書きましょう。」「耳を使って書きましょう。」と指導する教師がいるが、それ は間違いである。(*国分一太郎は、おもしろおかしくその間違いを指摘していた。)
・作文の教科書教材が減り、情報化作文が広がっている中で、何とか作文への道を工夫しながら 実践されていることに敬意を表したい。
我が会は、辛口の会員が多い。さらなる飛躍に期待したい。
5月例会 5月26日(土) 午後2時より
◇提案 「学校ぐるみの作文研修を、どのように発展してきたか」(仮題)
提案者 貝田久さん(川口市立前川小学校)
◇講義・乙部武志さん とつおいつ6 系統案指導その2
◇司会 左川紀子さん
◇記録 田中定幸さん