フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』について好き勝手に書くシリーズの第2回です。以前のエントリーへのリンクは、いちばん下にあります。
●ダンヴィリエの詩
『グレート・ギャツビー』の本編の前には、次のような詩が引用されています。トーマス・パーク・ダンヴィリエとはフィッツジェラルドのデビュー作『楽園のこちら側』の登場人物であるらしく、つまり形式的には引用なのですが、実際にはフィッツジェラルドによるものです。
Then wear the gold hat, if that will move her;
If you can bounce high, bounce for her too,
Till she cry 'Lover, gold-hatted, high-bouncing lover,
I must have you!'
THOMAS PARKE D'INVILLIERS
この詩の後半部分を、野崎孝と村上春樹の両氏はそれぞれ次のように訳しています。
・野崎訳
きっとあの娘は叫ぶだろ 「金の帽子すてき 高跳びもいかすわ 恋人よ あんたはあたしのもの!」
・村上訳
「愛しい人、黄金の帽子をかぶった、高く跳ぶ人、あなたを私のものにしなくては!」と彼女が叫んでくれるまで。
ずいぶん違った印象になっています。村上氏の方は直訳ですね。どちらも希望を表現しているのですが、どうして野崎氏が、これほど強く表現したのか(しなければならなかったのか)、考察してみました。
引用に見せかけてフィッツジェラルド自身が書いている以上、金の帽子をかぶって高く跳んだのがギャツビーであることは明らかですが、では、ギャツビーが持ち続けた希望とは、どのようなものだったでしょうか。
ニックの家でデイジーと再会する直前、約束の時間の5分前に「彼女はもう来ない」と言うほど、ギャツビーはナーバスになっています。そんな面を持つ彼ですから、数年間の空白を埋め、再びデイジーと愛し合うという希望を持ち続けるためには、うまくいくかどうか自信がないというようなものではなく、絶対に実現するのだという強い気持ちがあったはずです。(ギャツビーに限ったことではないでしょう)
金の帽子をかぶり、高く跳んでみせたら、きっとデイジーは自分のところに戻ってくる。そんなギャツビーの想いが、野崎氏の訳には現れているような気がします。逆に、そうでないのなら、あのように訳す必要性は全く感じられませんし、直訳で十分です。
最初に読んだ時にはさらっと読み流してしまっていた部分ですが、読み終えた後でもう一度この詩を読むと、ギャツビーのデイジーへの想いとその結末が、ここに集約されていたことに気付かされます。いかにデイジーが不誠実であろうと、自身が他人から悪く言われようと、ギャツビーは金の帽子をかぶり、高く跳んだのです。素晴らしいプロローグ、序曲だと思います。
(つづく、彼女が叫んでくれるまで)
●以前のエントリー
グレート・ギャツビー(1)
●ダンヴィリエの詩
『グレート・ギャツビー』の本編の前には、次のような詩が引用されています。トーマス・パーク・ダンヴィリエとはフィッツジェラルドのデビュー作『楽園のこちら側』の登場人物であるらしく、つまり形式的には引用なのですが、実際にはフィッツジェラルドによるものです。
Then wear the gold hat, if that will move her;
If you can bounce high, bounce for her too,
Till she cry 'Lover, gold-hatted, high-bouncing lover,
I must have you!'
THOMAS PARKE D'INVILLIERS
この詩の後半部分を、野崎孝と村上春樹の両氏はそれぞれ次のように訳しています。
・野崎訳
きっとあの娘は叫ぶだろ 「金の帽子すてき 高跳びもいかすわ 恋人よ あんたはあたしのもの!」
・村上訳
「愛しい人、黄金の帽子をかぶった、高く跳ぶ人、あなたを私のものにしなくては!」と彼女が叫んでくれるまで。
ずいぶん違った印象になっています。村上氏の方は直訳ですね。どちらも希望を表現しているのですが、どうして野崎氏が、これほど強く表現したのか(しなければならなかったのか)、考察してみました。
引用に見せかけてフィッツジェラルド自身が書いている以上、金の帽子をかぶって高く跳んだのがギャツビーであることは明らかですが、では、ギャツビーが持ち続けた希望とは、どのようなものだったでしょうか。
ニックの家でデイジーと再会する直前、約束の時間の5分前に「彼女はもう来ない」と言うほど、ギャツビーはナーバスになっています。そんな面を持つ彼ですから、数年間の空白を埋め、再びデイジーと愛し合うという希望を持ち続けるためには、うまくいくかどうか自信がないというようなものではなく、絶対に実現するのだという強い気持ちがあったはずです。(ギャツビーに限ったことではないでしょう)
金の帽子をかぶり、高く跳んでみせたら、きっとデイジーは自分のところに戻ってくる。そんなギャツビーの想いが、野崎氏の訳には現れているような気がします。逆に、そうでないのなら、あのように訳す必要性は全く感じられませんし、直訳で十分です。
最初に読んだ時にはさらっと読み流してしまっていた部分ですが、読み終えた後でもう一度この詩を読むと、ギャツビーのデイジーへの想いとその結末が、ここに集約されていたことに気付かされます。いかにデイジーが不誠実であろうと、自身が他人から悪く言われようと、ギャツビーは金の帽子をかぶり、高く跳んだのです。素晴らしいプロローグ、序曲だと思います。
(つづく、彼女が叫んでくれるまで)
●以前のエントリー
グレート・ギャツビー(1)