心と言葉を考えるシリーズ。今回は数学と哲学の関係性について。少しだけ数学を離れます。
前回は
A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは意味的に等しい。
↓
自然数を数え終わることは不可能
↓
よってA君はB君に追いつくことは不可能
という三段論法を示しましたが、このお話はどこか間違っています。でないと、B君より速く走っているA君はB君を追い抜けないという、おかしな結論が正しいことを認めなければなりません。
ではどこが間違っているのか?こういう場合、
1:前提が間違っている
2:推論の道筋が間違っている
3:結論が正しい(←たとえ感覚的におかしくても)
と考えます。で、上の三段論法をもう一度眺めてみますと、
1:A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは本当に意味的に等しいのか?
2:自然数を数え終わることは本当に不可能なのか?
3:A君はB君に追いつくことは本当に不可能なんじゃね?
実は3だった・・・という立場の人もいますが、ここでは紹介しません。基本的に1か2の立場の人が多い・・・、ということは、この「不思議な話」が考えだされてから2400年ほど経ちますが、実はまだ未解決であるということ、3が少数派だから間違っているわけではないこと、に注意してください。
なんとなく「一意的であるはず」の数学に、複数の立場が存在することの気持ち悪さを感じませんか?数学の中に「解釈」が入り込む余地があり、そのことによって「解答」が揺れてしまっては「受験数学」は成り立ちません。
しかし、元々数学は高度に抽象的であり、「解釈」をめぐって激しく論争が繰り広げられてきた学問分野です。今では当たり前に使われている「複素数」という概念ですら、その「生理的な嫌悪感」を完全にぬぐい去られたのは19世紀に入ってから、という(今となっては)信じがたい事実があります(だから「複素数平面」の別名に、19世紀の数学者・ガウスの名をとった「ガウス平面」という呼び名がついてるわけです)。
数学と哲学がしばしば一体となるのは、抽象的な概念を、徹底的に厳密な議論を武器に論じる学問、という部分が共通しているからでしょうね。
さて、今回は「上記三段論法のどこに間違いがあるのか?」という問題提起だけで終わります。ですので、お時間のある方は少しだけ考えてみてください。
前回は
A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは意味的に等しい。
↓
自然数を数え終わることは不可能
↓
よってA君はB君に追いつくことは不可能
という三段論法を示しましたが、このお話はどこか間違っています。でないと、B君より速く走っているA君はB君を追い抜けないという、おかしな結論が正しいことを認めなければなりません。
ではどこが間違っているのか?こういう場合、
1:前提が間違っている
2:推論の道筋が間違っている
3:結論が正しい(←たとえ感覚的におかしくても)
と考えます。で、上の三段論法をもう一度眺めてみますと、
1:A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは本当に意味的に等しいのか?
2:自然数を数え終わることは本当に不可能なのか?
3:A君はB君に追いつくことは本当に不可能なんじゃね?
実は3だった・・・という立場の人もいますが、ここでは紹介しません。基本的に1か2の立場の人が多い・・・、ということは、この「不思議な話」が考えだされてから2400年ほど経ちますが、実はまだ未解決であるということ、3が少数派だから間違っているわけではないこと、に注意してください。
なんとなく「一意的であるはず」の数学に、複数の立場が存在することの気持ち悪さを感じませんか?数学の中に「解釈」が入り込む余地があり、そのことによって「解答」が揺れてしまっては「受験数学」は成り立ちません。
しかし、元々数学は高度に抽象的であり、「解釈」をめぐって激しく論争が繰り広げられてきた学問分野です。今では当たり前に使われている「複素数」という概念ですら、その「生理的な嫌悪感」を完全にぬぐい去られたのは19世紀に入ってから、という(今となっては)信じがたい事実があります(だから「複素数平面」の別名に、19世紀の数学者・ガウスの名をとった「ガウス平面」という呼び名がついてるわけです)。
数学と哲学がしばしば一体となるのは、抽象的な概念を、徹底的に厳密な議論を武器に論じる学問、という部分が共通しているからでしょうね。
さて、今回は「上記三段論法のどこに間違いがあるのか?」という問題提起だけで終わります。ですので、お時間のある方は少しだけ考えてみてください。